18:令嬢の恋
もうずっと、胸がいっぱいになっていて苦しい。
何度も何度も深呼吸を繰り返しているのに、それでも身体はまだ足りないと酸素を求めているみたいだった。
王城を離れ、馬車に揺られているのにも関わらず、エミーリアの心臓の音はまだどくどくと鳴り止まない。
(陛下が、わたくしの名前を……いえ、それだけじゃなくて)
マティアスと会っていたのはそう長い時間ではなかったはずなのに、頭で処理しなければならない情報が多すぎてエミーリアはとても混乱していた。
ガーデンパーティーの対策のためにマティアスに会いに行ったはずなのに、結局エミーリアの頭は真っ白だ。
名前を呼ばれた。それだけでエミーリアには衝撃的だったのに、別れ際のあのセリフはなんだったのだろう。
あれではまるで、ロマンス小説のヒーローそのものではないか!
(……今日の陛下は、今までと少し違ったような……。何か良いことでもあったのかしら? それとも……わたくし、嫌われていたわけではない……?)
拒むような壁は感じなかった、と思う。
そもそも嫌いな人間を名前で呼ぼうとするだろうか? 今までマティアスは一度もエミーリアの名前を口にしたことがなかったのに。
どこかのタイミングで嫌われたのなら、あるいは初めから嫌われていたのなら。態度は悪化しても好転することはないはずだ。
だってエミーリアは、ここしばらくマティアスを避けていたのだから。
好転する機会がないのだから、マティアスのなかでエミーリアの評価が上がるわけがないのだ。
(これが押してダメなら引いてみる……の効果なのかしら? お姉様はやっぱりすごいのね……!)
さすが社交界の花と呼ばれただけはある……と尊敬の念を深めるエミーリアだが、もちろんコリンナの助言だけが功を奏したわけではない。しかしそんなことは、エミーリアにはわかるはずもなかった。
エミーリアが、考え事をしているうちに馬車は屋敷に到着していたらしい。
馬車から降りた記憶すらないのに、エミーリアはいつの間にか屋敷のエントランスに立っていた。
「お嬢様、お嬢様」
気づくとハンナが何度もエミーリアに声をかけていた。
(あら? いつの間に屋敷に着いていたのかしら)
集中すると周囲が見えなくなるのがエミーリアの悪い癖だ。ぱちぱちと瞬きをして、話しかけてくるハンナを見た。
「ただいまハンナ、どうかしたの?」
おかえりなさいませ、とハンナは呆れたように答えるがエミーリアの悪い癖にも慣れたもので、すぐに用件を告げた。
「お客様がいらっしゃってます。応接間でお待ちいただいておりますが」
「お客様?」
エミーリアは首を傾げながら聞き返した。
今日は来客の予定はなかったはずだ。王城へ行く日は基本的に他に用事は詰め込まないようにしているので間違いない。
「はい、デリア様です」
本来は前触れなしに訪問というのはマナー違反だが、エミーリアと親しいデリアならば待たせておくべきだとハンナは判断したのだろう。そしてそれは、正しい。
「わかったわ、ありがとうハンナ。お茶の用意をお願いしていいかしら?」
ちょうど、エミーリアも誰かと話したいと思っていたところだ。
「すぐにお持ちいたします」
ハンナはそう答えてテキパキと動いてくれる。きっとエミーリアの反応を予想してほとんど準備は出来ているのだろう。
応接間ではデリアがゆったりと待っていた。彼女のために用意されているお茶もあたたかいままティーカップのなかで揺れている。
「いらっしゃい、デリア」
扉を開けるなりそう言って微笑むエミーリアに、デリアはすぐに立ち上がって微笑み返した。
「急に来てごめんなさいね、エミーリア。おかえりなさい」
「ただいま。デリアならいつ来てくれても構わないけれど、でも珍しいわね?」
申し訳なさそうに眉を下げるデリアに微笑みながらエミーリアは腰を下ろす。
「ええ、今日はちょっと。……リンハルト公爵夫人のガーデンパーティーにあなたが出ると聞いたものだから」
デリアもエミーリアの向かいのソファに座りながらそう告げた。
リンハルト公爵夫人の交友関係は広いと聞いているが、デリアの耳に届くとは驚きだった。
「そうなの。陛下と一緒に伺う予定よ」
隠すことでもないので素直に答えると、デリアは「あら」と目を丸くする。
「思ったより落ち着いているのね? 慌てているんじゃないかと心配したのに」
「ふふ、心配して駆けつけてくれたのね。そうね、一応対策はしっかりしたいところだけど……」
そのためにマティアスから話も聞いてきたのだが、思い出そうとすると低い声で名前を呼ばれた瞬間が蘇ってしまって、エミーリアは途端に真っ赤になった。
一度思い出してしまうと、なかなか頭の中から消し去るのが難しい。うう、とエミーリアは口籠もった。
「……対策どころじゃなさそうね?」
楽しげににやりと笑うデリアに、エミーリアは赤くなる頬を両手で押さえながら否定する。
「い、いえ、その、ちがうの。ちゃんとガーデンパーティーのことは考えているんだけど……」
「だけど?」
言い訳するように口早に話すエミーリアに、デリアが意地悪に先を促す。考えようとしても他のことを考えてしまっている、と言わなくてもデリアには伝わっているだろう。
エミーリアは熱のこもった息を吐き出して、小さく零した。
「……こんなにドキドキしていたらわたくし、そのうち死んでしまわないかしら?」
これがふざけただけの問いならデリアも相手にしないのだが、エミーリアは至極真面目なのだ。本気でいつか自分の心臓が壊れるのではないかと心配している。
「あなた、今からそんな状態で結婚したあと大丈夫なの?」
マティアスが正しく、デリアが思うとおりの紳士であるのなら、結婚前の婚約者に不埒な真似はしていないはずだ。口づけすらしていないかもしれない。
それなのにエミーリアは既にいっぱいいっぱいで、デリアが心配するのも無理はなかった。これでは到底新婚生活に耐えられるはずがない。
「そ、そうよね、結婚……結婚するんだものね」
エミーリアはまるで自分に言い聞かせるように繰り返す。
(陛下の口から婚約破棄なんて話は出なかったし、婚約者としてパーティーに参加するんだもの。わたくし、このまま、陛下と結婚、するのよね……)
それが政略結婚となるか、エミーリアの望む恋愛結婚となるかはわからないが。
一瞬だけ不安げに揺れたエミーリアの瞳を、デリアは見逃さなかった。
「……あの惚れ薬。使ってないの?」
惚れ薬、という単語にエミーリアはまた火がついたように赤くなった。
「あ、あれはお守りって言っていたじゃない!?」
「そうね、お守りだからちゃんと持ち歩きなさいね。でも惚れ薬に頼らなくていいってことは陛下とはうまくいっているってことかしら」
「それは……」
不仲ではない。エミーリアがマティアスを避けていたけれど、それを咎めるような言葉もなかった。
マティアスには、エミーリアが会わずにいる間に使った言い訳なんて、全て嘘だとお見通しだったはずだ。
(……わたくしは、お会いするのが怖かったけれど、でも会いたかった。でも陛下は、別にそうじゃなかったのでしょうね)
マティアスから届いた手紙は、ガーデンパーティーについての一通のみ。
たった、一通だ。
数を競うわけではないけれど、エミーリアがこれまでマティアスに宛てた手紙はもう数えきれないほどだろう。
(……お返事は結局ないまま。それはつまり、そういうことよね)
エミーリアは目を伏せると自嘲気味に微笑んだ。
「婚約者としてはうまくいっていると思うわ」
にっこりと、エミーリアはよく慣れた鉄壁の作り笑いを浮かべて答える。
デリアはその笑顔にため息を吐き出しつつ、何も言わなかった。
ちょうどハンナがお茶を運んでくる。デリアにも新たに紅茶を入れて、エミーリアの分の紅茶にはミルクを添えた。
ハンナはエミーリアが疲れた時や落ち込んでいる時は、必ずミルクを持ってくる。きっと、考え事に夢中になっていたエミーリアを気遣ってくれたのだろうが、おかげで落ち込みかけた心がふわりと浮かぶ。
「……ガーデンパーティー、私も行くのよ」
「まぁ、本当に? それならまたすぐにデリアに会えるわね」
「あなたの言う素敵な陛下にお会い出来るのを楽しみにしてるわ」
デリアの妙に棘のある言い方に、エミーリアは首を傾げる。
(ああ、でも……)
「デリアが陛下を好きになってしまったら困るわ……」
デリアとの友情は簡単に壊れるようなものではないと信じているが、それでも色恋沙汰は人間関係を壊しやすい。
(デリアはとても美人だから、陛下がデリアのことを好きになることだって……あるでしょうね、きっと)
もしそうなったらどうすればいいのだろう。二人の幸せを願いたいけれど、エミーリアはきっと、そこまで聖人にはなれない。
「臣民として尊敬の念はあれど、恋に落ちるなんてことはないから安心なさい」
「……陛下は素敵な方よ?」
デリアが一目で恋に落ちても仕方ないくらいに、マティアスは素敵な男性だ。
「あなたにとっての素敵な方が、私にとってもそうであるとは限らないわね」
「それはそうだけど……その言い方だとまるで、デリアには心に決めた方がいるみたいだわ」
心に住まわせる誰かがもういるから、他の誰かに心動かされることはないと言っているように聞こえる。
デリアはほんの一瞬瞳を揺らして、そしてすぐに冷めた表情になる。
「……まさか。私は家のために少しでも条件の良い方と結婚するわ。そのために育てられたんだもの」
貴族の娘とはそういうものだ。
ときめく恋なんて物語のなかだけの話。家の発展のために使われる駒だ。
「……そうね」
(そうよね、エミーリア。わかっていたわ)
それでも諦めきれずに手を伸ばした。きっと、その結果はそろそろ出ている。
マティアスに宛てて書いた最後の手紙。唯一、エミーリアがその返信を待つ手紙は。
――どうか、陛下のおそばに、わたくしの居場所をいただきたいのです。
シュタルク公爵家の娘としてだけではなくて、ただのエミーリアとして。
そのためならわたくしは、どんな苦労も厭いません。
エミーリアが生まれて初めて書いた恋文だったのだ。




