11:思い出の白い薔薇
マティアスと別れた後、屋敷に戻ったエミーリアはしょんぼりと萎れた花のようになって自室に閉じこもった。
(庭園に行ってからの陛下はいつもと違っていた気がする。……ううん、正確にはわたくしが抱きついてから……かしら)
思い返せば思い返すほど、結論は最悪のものにしかならない。
「……着替えましょうか」
趣味じゃないドレスなんて着ていたら、ますます気分は塞ぎ込む。叔母の屋敷で移ってしまったらしい他の香水の匂いもして落ち着かない。
ハンナを呼び、自分の気に入っている普段使いのドレスに着替えた。
クリーム色のそのドレスは、着心地もよいし動きやすい。何よりそのやさしい色はエミーリアのミルクティー色の髪とよく似合った。
「お嬢様、なんだかお疲れのようですね」
「……そうね。疲れたし落ち込んでるわ。そのドレスは別のところにしまってくれる?」
わずかとはいえ自分以外の香水の匂いがついているのも嫌だし、なによりそのドレスを見ると今日の失態を思い出して気が滅入る。
「かしこまりました」
濃いピンクのドレスはハンナによってどこかへしまわれる。もうエミーリアからすすんで着ることはないだろう。
(……デリアから、陛下に嫌われていたときのとこも聞いておけばよかった)
目を落としてエミーリアは泣きたくなるのを堪えた。
少なくとも最初は嫌われても好かれてもいなかったはずだ。マティアスはエミーリアに関心がなかった。
嫌われたというのなら、これまでのエミーリアの行動に問題があったということになる。
(やっぱり手紙が鬱陶しかった? でも、ちゃんと読んでくださっていた……)
手紙の内容を話題にしても、マティアスはきちんと応じてくれた。小鳥の巣がどうのという、国王からしてみればどうでもいい瑣末事さえしっかり覚えていた。
(それとも勉強ばかりしているのが呆れられた?)
でも、図書館では本を取ってくれた。女なのにとバカにすることもなく、エミーリアの努力を認めてくれた。
……こんな地味な薄茶の髪を、ミルクティー色だと言ってくれた。
あの庭園で会った少年。
名前も聞かなかったし、あの時はどこの誰かなんて考えることもなかったのだが、あれが初恋だと自覚してしまうと相手は誰だったのだと気になってしまうのが乙女心というものだ。
とはいえはっきり自覚したときには数年が経っていて、記憶との戦いになった。
あれが王城の庭園であったことと、少年の容姿。そしてその後、即位したマティアスの姿にエミーリアは確信した。
あの時の少年は、陛下なのだと。
だから努力した。初恋を初恋のまま終わらせたくなかった。
うつくしくはなれないけれど、それ以外は誰もが文句も言えないほど優秀になろうと。
そうすれば、もしかしたら、陛下のお嫁さんになれるんじゃないか、なんて。
夢見たのだ。
夢見て、それで、夢に手が届いて。
――だから欲が出た。
愛されたい。恋した人に愛されたい、と。
エミーリアは唇を噛み締め、顔を上げた。
机に向かうと、便箋を取り出す。何もしないでただ嘆くだけなんて、時間の無駄だ。泣きたければ結末がきてから嫌というほど泣けばいい。
だってまだ、エミーリアはマティアスから「嫌い」だとも「好き」だとも言われていないのだから。
何枚も便箋を無駄にして、何時間も考えて、エミーリアはようやく手紙を書き終えた。
今まではマティアスへただ自分のことを知ってもらおうと書いていただけの手紙だ。
しかし今回は、エミーリアは初めて返事を求めた。
自分に何か悪いところはあったかと。
あったのなら、教えて欲しいと。
マティアスからの返事は、次に会う予定の日になってもいっこうにやって来なかった。
そして王立図書館でマティアスに会ってから三日後。王城へ行く日がやって来てしまった。
結局、マティアスからは返事も反応もなく、エミーリアは怖くて王立図書館へ近づくことすらできなかった。もしまた偶然マティアスと会ったら、どんな顔をすればいいのか分からなかったのだ。
(……返事もこないから、手紙も書けなかったし……)
さすがにエミーリアも、今まで通り手紙を送り続けることができるほど図々しくなれなかった。
もしかしたら、読んでもらえていないのだろうか。それほど忙しいのだろうか。それとも――
(……わたくしの手紙は読む気になれないほど、嫌われてしまったのかしら)
この三日は、嫌な想像ばかりが頭によぎってエミーリアはすっかり萎れていた。
「お嬢様、そろそろ時間になりますよ」
「ええ」
ハンナに声をかけられ、エミーリアは顔をあげた。ひとつ、大きく深呼吸をする。
鏡に映る自分を何度も見つめながら、エミーリアはおかしなところはないか入念に確認した。
背筋を伸ばして、胸を張って、顎は少しひいて、前を見る。
世間の言う理想の淑女とやらは、エミーリアが長年積み重ねてきた努力で簡単に呼び出せるようになった。
初夏の爽やかな陽気に合わせた淡い空色のドレスに、髪には白いリボン。レースの日傘と手袋で完成だ。
着飾ることは女性の武器だという。エミーリアにとっての一番の武器はこれまで努力して得た知識だが、うつくしく装うと気持ちがしゃんとするのは年頃の令嬢たちと同じだ。
王城に着くといつも応接室に案内されるのだが、今回は違った。
日傘をさしたエミーリアが案内されたのは庭園だった。王城にはいくつかの庭園がある。
この間、王立図書館のあとに訪れた庭園は一般公開もされているところだが、今回は一部の人間しか入れない場所だ。
(……ここは)
その庭園は、エミーリアにとっては思い出の場所だった。
十年前のあの日、逃げ出して、泣き喚いて、そして恋に落ちた庭園だった。
あまり見かけることのない珍しい薔薇が咲いているので、間違えるはずがない。その薔薇が咲いているのを見るためのガーデンパーティーだったことだけ覚えている。
マティアスは先に待っていた。彼がエミーリアが来るより先にいたことは、初めてだった。
「……お待たせしてしまいましたか?」
マティアスがエミーリアに気づくより先に、エミーリアは勇気を振り絞って声をかけた。日傘を握る手に力が入る。
「いや、つい先程来たところだ」
マティアスはいつもと同じ調子で答えた。特に表情の動かないマティアスは、何を考えているかわかりにくい。
だが、返事があったことにエミーリアはほっと息を吐いた。
「それなら良かったです。今日は屋外なんですね」
「……天気が良かったからな。薔薇は、もうじき終わってしまうか」
「遅咲きのがまだ咲いております。陛下は薔薇がお好きなんですか?」
「そういうわけでもない。花は、どれも同じに見える」
庭師が聞いたら泣いてしまうだろう、とエミーリアは内心で苦笑した。
(でもそうよね、陛下の周りには、常に綺麗な花が溢れているもの)
それが当たり前なのだから、どれかを特別に思うこともない。
「……君は」
マティアスが庭園を眺めながら口を開いた。
「はい?」
日傘の分、隣に並んでいても距離があいてしまう。日傘を傾けなければ、背の高いマティアスの顔もよく見えない。
それが寂しいような、けれど今はそのわずかな距離に安堵するような複雑な気分だった。
「君は薔薇が好きなのか」
「……そう、ですね。白い薔薇は、好きです」
薔薇には特に強い思い入れはないが、好きか嫌いかと問われれば嫌いではない。たいていの花は好きだと答えるだろう。
「……白い薔薇?」
「はい。……白い薔薇だけは、特別なので」
ちょうど白い薔薇が咲いている前を通ったからだろうか。マティアスが足を止めたので、エミーリアも立ち止まった。
「……陛下は」
エミーリアがマティアスを見上げて、口を開いた。緊張で口の中がすっかりからからになっている。
「以前この庭園で、泣いている女の子に会ったことはありますか」
あの日のことを、覚えてますか。
エミーリアにとっては人生を変える一日だった。けれどマティアスにとっては記憶にも残らない日だったかもしれない。
それでも聞いてみたかった。もし覚えていたら、あの時の女の子はわたくしなんです、と言うつもりだった。
マティアスはしばし考えて、そして答えた。
「……いや? そんな記憶はないが」
エミーリアは一瞬言葉を失って、緑色の大きな瞳を見開いた。じわりと滲みかけた涙を、すぐに笑顔で隠す。
「そうでしたか」
(……ああほら、やっぱり現実は物語のようにはいかない)
運命的な思い出だと思っていたのはエミーリアだけだ。マティアスには、思い出にすらならない。
「そもそも、この庭園に子どもが迷い込むようなことはありえないはずだが」
王族のための私的な庭園だ。ここに入るまでの警備は厳重だし、今も遠くに見える衛兵の他にはエミーリアとマティアスしかいない。
確かに子どもが間違えて迷い込むなんて、できそうにはない。
(……でも)
エミーリアはこの庭に逃げ込んだはずなのだ。だから、あの日マティアスと出会った。
しかし十年前の記憶なんて当てにはならない。事実、誰が主催したガーデンパーティーだったのかさえエミーリアは覚えていないのだ。
本当にここだったのかと問われると自信がない。
ただ、他には滅多に見かけることのない薔薇が咲いている。それだけしか手がかりはない。
(この庭じゃなかった? それじゃあ、あの日出会った人は……?)
――まさか、マティアスではないとでも言うのだろうか。
だからマティアスは記憶にないと言っているのだろうか。十年前とはいえ、マティアスにとっては十七歳くらいの頃のことだ。エミーリアほど記憶が曖昧になるということはないだろう。
くらりと、目眩がした。
足元から何もかもが崩れていくようだった。
(……わたくしはいったい、誰に恋をしていたの?)




