9:図書館ではお静かに
公爵令嬢というものは、そう暇なものではない。ましてエミーリアの場合は、国王であるマティアスの婚約者となったことで、あちこちのご令嬢からお茶会のお誘いがある。
そんな社交の合間にはマナーのレッスンや勉強をしていて、のんびりできる時間はそう多くなかった。
その日の予定はエミーリアにとってはたいへん憂鬱なものだった。
叔母のもとで愛想笑いを浮かべて、淑女とはなんたるかとありがたい助言を受ける。叔母はおしゃべりなのでエミーリアはただ相槌を打っているだけでよかったのだが、どうにも疲れる。
(……とはいえ、香水のつけ方とかドレスの趣味とか……いろいろ言われてしまったので、ちょっと疲れたわね……)
これでも口うるさい叔母の対策のためにドレスはいつもより濃い色のピンクで華やかだ。エミーリアは普段もっと淡い色合いのドレスを好んでいる。
しかもエミーリアの香水のつけ方では足りないもっとつけるべきだ、香りももっと可憐で華やかなものにと口出され、叔母があれこれといろいろな香水を出してきたおかげでどうにも香りが移ってしまった気がする。
それから叔母の屋敷からの帰りに王立図書館に立ち寄り、エミーリアの個人的な勉強のために必要な資料を探していた。
王立図書館に来たのは気分転換にでもなれば、と思ったのだ。気の合わない叔母に会うのは精神的にもかなり疲れる。こういった穏やかでしっとりとした空気はエミーリアにとって好ましいもののひとつでもあった。
図書館のなかは静かで、本の香りに満ちている。
貴族の娘の姿はあまり見かけないものだが、王立図書館の司書たちはエミーリアのことはすっかり覚えているので驚かれることもない。
目当ての本を探して本棚を眺めていると、図書館の入り口のあたりが何やらざわざわと騒がしい。
「……なにかあったのかしら? 図書館なのに、珍しい……」
王立図書館の司書や利用者は簡単なことでは騒がない。神聖な図書館に騒音はふさわしくないからだ。
だがそれもすぐ落ち着いたようで、すぐにいつもの図書館と同じ静けさに戻る。
エミーリアは目的の本を見つけると、手を伸ばして本を取ろうとする。しかし上の方の棚にあるため、指先がかすめるばかりで届かない。
(踏み台を借りてくるべきかしら……)
だがあと少しと思うとがんばってみたくなるのがエミーリアという少女だった。ドレスの下でつま先立ちをして手を伸ばす。礼儀作法にうるさい叔母が見たらはしたないと叱られていただろう。
だがエミーリアはそんなことは気にしない。ここに叔母はいないし、国王の婚約者であるエミーリアに迂闊に注意してくる人間などいないだろう。
「……こういうときは従者を連れてくるか、司書を呼ぶべきだ」
呆れるような声が頭の上から降ってくる。同時に、エミーリアが取ろうとしていた本をひょいと引き抜く大きな手が目に入った。
「ご親切にありがとうございます」
お礼を言いながら本を受け取ろうと振り返って、エミーリアは目を見開いた。
(声が、似ているとは思ったけれど……)
「……へいか?」
幻覚だろうかとエミーリアは目をぱちぱちと瞬かせる。だってまさか、マティアスがこんなところにいるとは思わない。
「何を驚いた顔をしている」
マティアスは少し眉間に皺を寄せた。エミーリアに驚かれたことが心外だったのか、それともすぐに気づかなかったことで不機嫌になっているのか。
「え、だって、その、執務は」
この時間、マティアスは執務で忙しいはずだ。執務に必要な資料は書記官などが取りに行くのだから、国王自らが王立図書館にいる理由はない。
(さっきの騒がしかった原因は、もしかして陛下?)
「息抜きに少し出てきただけだ。……薬草学?」
エミーリアに渡した本のタイトルを見てマティアスが不思議そうな顔をする。それもそうだろう。およそ、公爵令嬢には関わりのない――そして王妃にも必要かといわれるとそれほど重要でもない学問だ。
「はい、その。この間のカカオの話のあと、面白いなと思って、個人的に他の植物についても調べてみたくなりまして……」
「まさか媚薬を?」
「そんなまさか!」
眉を寄せるマティアスに、エミーリアは即座に否定した。その声は図書館のなかで発するにはあまりにも大きく、少し遠くて司書が窘めるような顔をしている。
(お、思わず大きな声を)
エミーリアは自分の口元をおさえながらマティアスを見上げた。
「そ、そういう効能ではなく、その、滋養にいいものとか、身体にいいものもあるので……」
――陛下の、役に立つだろうか、なんて。
そんなことを考えていたんです、とは言えずにエミーリアはもごもごと言葉を濁した。
「……君は勉強家だな」
「そんなことありません。わたくしは、これくらいしかできないので」
うつくしさは磨こうにも限度はあるが、知恵は学べば学んだだけ身に着く。だからエミーリアはこちらを選んだ。それだけなのだ。
「……女性がこんなことを学ぶことに、陛下は反対ですか?」
本を抱きかかえてエミーリアが問う。
ついいつもお茶をしながら歴史だのなんだのと勉強の話をしているので忘れがちなのだが、本来女性はここまで深く知識を求めることはない。
(……お父様だって、王妃になるのだからと言いくるめてやっと許してくださったんだもの)
アイゼンシュタット王国の歴史程度までならどんどんやれとエミーリアを見守っていた父も、それが周辺国まで及んだり政治や経済、果ては薬学までいくと途端に渋い顔になった。
曰く、おまえはそこまで学ぶ必要はないだろう、と。
「いいや? 君がやりたいなら好きなだけ学べばいい。誰かの迷惑になるわけでもないだろう」
マティアスは何が悪いんだとでも言いたげな顔をしている。その顔に、エミーリアはほっと安堵した。
今までの努力が否定されなかったことが、エミーリアのことを認めてくれているように思えて嬉しい。
「……よかった。陛下はやはり素敵な方です」
ふわりと微笑み、エミーリアの肩から力が抜ける。知らず知らずのうちに強ばっていたらしい。
「今の話でどこがどう素敵なのかわからないが」
「陛下は身分の低い者でも、才能や実力のある方を重用していると聞きました。とても素晴らしいことだと思います」
重鎮や古くからの貴族にはマティアスの方針に反対する者もいるという。
マティアスにそういう考えがあるのなら、女性が学ぶことにも反対はしないのだろうとエミーリアは思っていたし、実際今までもエミーリアの口からいろいろな学問に関する言葉が出てきても彼は驚かなかったし嫌悪を示すこともなかった。
「確かにそのとおりだが……君はそれがいいと?」
「ええ、身分に関係なくチャンスは等しく与えられるべきだと思います。それによって、より優秀な方が陛下をお守りするんですもの」
身分が高くても実力がない者が護衛になったところで意味はない。
「……君は変わってるな」
「そうですね、そう思います」
少なくとも普通の令嬢ではないとエミーリアも自覚している。だがこうして得た知識によって「完璧な令嬢」などと言われているのだから改めるつもりはなかった。
知識はエミーリアにとって武装のひとつだ。
「……まだ少し、戻るまで時間があるんだが。よければ、庭園にでも行くか」
「は、はい! もちろん! ご一緒させてください!」
(こ、これはもしかしてデリアが言っていたことを試すいい機会なんじゃ……!?)
いつものように向かい合って座るわけでもなく、並んで歩くことができるなら少しくらいエミーリアから触れるチャンスはあるだろう。
借りる予定の本を一度司書に預けて、あとでまた取りに来ることにする。
マティアスはすたすたと淀みなく先を歩いているので、エミーリアは少し小走りでマティアスを追いかけた。
しかしドレスというものは走るのには向いていない。まして今日は、いつもの比較的シンプルなドレスよりもレースもふんだんに使われていたのでなおさらだった。
「きゃっ」
だから、エミーリアが躓いてしまったのも必然だったのだろう。
王立図書館を出て庭園に入ったところで転びかけ、マティアスの背に抱きつくような形で難を逃れた。
(……転ぶと、覚悟したのだけど、あら?わたくし何にしがみついて……)
咄嗟に大きな背にしがみついて、そしてエミーリアは何が起きたのかすぐには理解できなかった。
「……急にどうした」
地を這うような低いマティアスの声で、エミーリアは我に返る。
跳ね返るかのように勢いよくマティアスから離れて、大慌てで弁明する。
「も、申し訳ありません! 躓いてしまって」
いや躓いたとはいえ国王にしがみつくなんて、とエミーリアは顔を赤くしたり青くしたり忙しかった。
そんなエミーリアを見ながら、マティアスは小さくぶつぶつと呟いていた。
「……なんだか、いつもより」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
マティアスは無表情で、すぐにエミーリアから目を逸らしてしまった。
その顔はまるでエミーリアに興味がない、という風に冷たく、エミーリアは言葉を失った。気安く問いかけられるような雰囲気はなく、マティアスの周囲には近づくなと言わんばかりの刺々しさが生まれる。
意図せず、デリアの言っていたことは試せたということになるのだが、マティアスの反応を見るとエミーリアの心はすっかり萎んでしまう。
(これは、もしかして、失敗というか)
――マティアスに好かれてはいない、ということではなかろうか。
先程まではちゃんと会話していたはずなのに、今は突然やってきた沈黙が痛い。
庭園に咲くうつくしい花々もどこか遠い世界のもののようで、エミーリアの心を浮かび上がらせてはくれなかった。
そのままろくな会話もなくマティアスと別れ、沈んだ気持ちのまま本を受け取って馬車に乗り込んだ。
(躓いて思わずしがみついてしまったし……確かに今日はいろいろと失敗してしまった気がするけれど)
だが今までも失礼だったのではと思う行動はあったが、マティアスの態度は変わらなかった。
今日は何が違ったのだろう。いや、そもそももとから好かれてはいなかったのかもしれない。
「……まだ、そうと決まったわけではないし……」
目を落とし、自分に言い聞かせるために声に出す。
けれどその声は弱々しく、馬車の走る音にかき消されてしまった。




