帰り道にて
「シノブくん……!」
その呼び声に僕はびくりとしながら後ろを振り向いた。この世界で僕の事を呼ぶ人は多くないが、その呼び方をするのはフレイル以外は今のところいない。なるべく話しかけないでとは言ったが、学校内ではその約束をきちんと守ってくれた。そして、今も僕の他に西高校の生徒はいないようだ。杉森先生に捕まってから帰ったので中途半端な時間に帰ることになったおかげだろう。
僕が立ち止まっている間に、フレイルは僕の横に並んだ。そして、僕が歩き始めるとそのまま並んでついて来た。その顔はとても良い笑顔で……僕は無駄に緊張するが、とにかく相談事で僕に声をかけたわけではないらしい。であれば、僕の隣を何も言わず歩く理由は、あの質問を待っているのだ。言わないまま無言で隣にいられるのも辛いので、僕は素直に聞くことにする。
「……学校はどうだった?」
「はい、とても楽しかったです!」
満足そうな笑顔だ。それからフレイルは今日あった事を報告し始める。講義のこと、クラスの友達のこと、休み時間のこと、昼食のこと、放課後の部活のこと……どれも同じ学校であったことなのに、まるで違う世界の話みたいだ。少なくともフレイルには友達ができた。それだけ聞ければ僕はもう他に考える必要はない。
「あっ、それでですね! その陸上部で走ることになったんですけど、わたし、その時に元の世界の力が使えたんです!」
「元の世界……?」
「はい! わたしは一応、騎士なのでクリーチャーと戦う時には鎧を着ててもある程度、素早く動く必要があるんです。そのために特訓していて……それがまだわたしは使えるんです!」
「……そっか」
ああ、そうなのか。フレイルはこの世界でそんな力を使うこともできるんだ。なら本当に退屈することなんてなさそうだ。彼女はこの世界で、誰にも真似できない特技を持って、何かに必要な存在になっていく。僕と違って、彼女は幸せな転生に成功したんだ。
そう考えた途端、僕の心の中は泥で満たされたような感覚になった。
「シノブくん……?」
「悪いけど、そういう話はウェイテリーにしてやってくれ。僕はその辺の事はよくわからないんだ」
「あっ……そうでした……ごめんなさい、つい」
「それと……やっぱり僕と話すのは困った時だけにしてくれないか。君が僕といてもいい事は何もないんだ。……もちろん、僕が得することだってない」
柔らかく拒否したつもりだったけど、それはほとんど八つ当たりだった。何の意味で生きているかわからない僕には今の彼女は眩しすぎる。例え、僕が転生できていたとしても、こうはなれないのだ。僕には何もできないのだから。
「……はい。じゃあ、わたしは先に帰ってますね」
そう言った彼女は駆け足で僕より先に帰路を進んでいく。その足の速さが本当にすごいものなのかわからないが、今の僕にはとても早く感じた。
恐らくフレイルより10分ほど遅れて家に着いた僕は、玄関を入って、とりあえず居間の様子を確認する。これはこれまでは居間に祖母がいるかどうか確認するためのもので、いなければ、祖母の部屋にいるのでひと声かけておく。もし、買い物に出ていればそもそも玄関の鍵は締まっている。そうやって祖母の存在を把握する学校から帰った後の習慣だ。
でも、現在、居間にいるのはソファーの上に寝転がるウェイテリーの姿だ。パジャマに見える服は相変わらず真っ黒で、今は仰向けになりながら本を読んでいる。今日は外に出ていないのだろうか。それにしてもまだ来てから数日しか経っていないのにこの家にすごい馴染みようだ。
「おう、信夫。フレイルよりちょいと遅いおかえりじゃな」
僕の気配を察したのか、ウェイテリーは本から目を離さず声をかけてくる。ウェイテリーにただいまと言う義理はないが、一応、聞いておきたいこともあるので、ソファーの近くまで寄って行った。カーペットの上の散らかったものは、片付けられる様子はない。
「フレイルのやつとさっきまで話していてな。テンションの高めじゃったからよほど楽しかったんじゃろう。お前さんは……まぁ、特に何もしてやらんかったみたいじゃが」
「頼られてないならしょうがないだろ。それより……」
「ん? なんじゃ、片付けろって? いやぁ、私は必要なものは手に届く範囲にないと落ち着かない性格なんじゃよ……晶子さんも別に自由にしていいと言うし……あっ、晶子さんはフレイルが帰る前に買い物に出かけたみたいじゃぞ」
それはそうだろう。扉は開いていたのに、玄関には靴がなかったのだ。だから、僕が居間に来たのはウェイテリーに聞くことがあるからだ。言ってもやらなさそうな片付けについてではない。
「そうじゃない。杉森先生のことだ。ホームステイについて何も違和感ないように言われるなんてどう考えてもおかしいじゃないか。いったいどうやって1日だけで編入の手続きを済ませて、先生を納得させたんだ」
「そりゃあ、まぁ……お前さんが想像する通りじゃ」
「……まじない、なのか」
「い、いやぁ、書類はきちんと出したんじゃよ? でも、普通に考えたらその日いきなり編入するなんて無理じゃし、そこを違和感ないようにしただけじゃ。ホームステイと編入の話は、一か月前から決まっていた、という風にな。何、さすがの私もそんな大胆に記憶をいじれるまじないは使えんし……」
「河原の時は僕の記憶を消せると言っていたぞ」
「あれは、その、脅しというか……私ができるのは上書きの暗示みたいなもので、お前さんの場合じゃと、今日は川で女の子を助けた、じゃなくて、大きな魚を拾った、みたいな風にじゃな……」
今回はうろたえるように言っているから本当の事なのだろう。ウェイテリーも普通の人にまじないをかけるには抵抗があるようだ。しかし、先生は残念ながらかけられてしまった。もしかしたら、書類に関わった人たちもそうなのかもしれない。その点で僕が困ることは何もなかったが、そういうことなら事前に言っておいて欲しいものだ。だが、これで杉森先生に彼女の言い訳をしないで良い事がわかった。
「まぁ、いいよ。わからないままにしておくのが嫌だっただけだ」
「そ、そうか……私だって、ここを追い出されるのは嫌じゃからな……」
ウェイテリーには僕がどのように見えているんだ。そんな態度を取った覚えはない。それにウェイテリーは出て行けと言っても絶対に居座るタイプだ。
「おっ、そうじゃ、信夫。もののついでじゃから交換しておこうじゃないか。今後は何かあったら連絡するようにしよう」
そう言ってウェイテリーがどこからか取り出したのは携帯電話だった。それもガラパゴス携帯だ。その携帯電話の古さにもびっくりだが、パジャマのような服にガラパゴス携帯を持つウェイテリーの姿は、魔女らしき職種のものとはかけ離れたもので、これではひと昔前の休日のだらけた普通の女性である。心なしか鋭く赤い瞳も今はくすんだ赤に見える。あの河原であった黒い女と同じ人とは驚きである。
が、その後の僕の言葉は、僕以上にウェイテリーを驚かせることになった。
「僕は携帯電話を持っていない」
「……はぁ!? なんで!?」
「必要ないからだ」
「必要ないって……携帯はいろいろできるじゃろうに……」
「電話ならかける相手が限られているし、家の固定電話で事足りる。調べものも僕の部屋にはノートパソコンがあるし、それを使えばいい。カメラなんてそもそも使わない」
「……自分で言ってて悲しくないのか」
まったく、と僕が返すとウェイテリーは奇人を見るような目で僕を見てきた。僕は本気でそう思っているんだが、本気でそう思っているからダメなのだろう。ウェイテリーに奇人扱いされるのは納得いかないが、僕にとっては厄介事を1つ回避できた。
「マジかぁ……フレイルには携帯を与えてやらんといけないと思っていたが……私じゃ最近の傾向はよくわからんぞ……」
ぼやくウェイテリーをよそに聞きたいことを聞けた僕は自分の部屋に向かって行った。