居間にて
僕は寝起きは悪い方ではない。だからといって早起きをする習慣もそれほどないのだが、今日はそうもいかなかった。それは今日が迎えるはずのなかった日曜日だからというわけではなく。むしろ日曜日ならもっと寝ていてもいいのだけど。
僕の部屋は待山家の2階の一部屋で、そこはかつて父が使っていた部屋だ。ベッドや物置はそのままで、中身は僕の私物に変わってしまったが、元の状態をよく知らない僕には関係のない事だ。昨日、祖母がそうしたように、僕がこの家に来る前に片付けられてしまったのだし。
そして、その隣は父の姉の部屋だ。ここが昨日、祖母が片付けた部屋で、今はホームステイを装う妹役のフレイルが入っている。昨晩は早々と寝てしまったフレイルは、さぞ良い睡眠をしたのだろう。朝の6時ごろに思いっきり壁に手をぶつける音をさせながら目覚めたようだ。そんなフレイルの伸びと「いたっ!」という声で、あまり厚くない壁を隔てた部屋にいる僕は目覚めてしまった。
「シノブさん、おはようございます。お早いんですね」
1階に降りると、居間の窓際の方に立っていたフレイルは挨拶してきた。まだソファーで毛布でうずくまっているウェイテリーは起きそうにない。そんなウェイリーを思ってか、日差しが少し入ってきている窓のカーテンはまだ閉められている。
そんなフレイルを僕は改めて、むしろ、会ってから初めてまじまじと見つめた。肩まである金髪に、青い目。僕より少し背の低いフレイルは、なんとなく幼く見える。それを思わせるのはロリータ風の白いパジャマを着ているせいもあるかもしれない。しかし、昨日のウェイテリーの話ではフレイルは僕と同じ16歳だ。確かに受け答えはしっかりしているし、騎士という職をしていたのならば、ある程度の年齢でなくてはならない、と勝手に思った。
「シノブさん? 調子でも悪いのですか?」
挨拶も考えずにそんなどうでもいい観察をしてしまった。まったく困ったものだ。彼女の容姿は客観的に見て非常に可愛らしい女の子である。そんな女の子が僕の家にいて、寝起きの僕と会話しているなんて、非現実的だ。この非現実は僕の望んでいたものとは違うタイプだし、それ以前にこんな状況を体験するだなんて思ってなかった。
「おはよう、フィブルさん。まったく問題ないよ」
「……フレイルでいいですよ。アキコさんは朝食を作ってくださっているのですか? 何かお手伝いを……」
居間から吹き抜けになったキッチンでは僕らより早く起きた祖母が朝食の準備を始めていた。いつもならもう少し遅いが、祖母も客人が来て張り切っているのかもしれない。それならば手伝ってもらう必要はないだろう。こんな僕でも祖母が活気あるのはいい事だと思っている。
「大丈夫だよ。フィブルさ……」
「フレイルでいいんですよ?」
「いや、フィブ……」
「フレイルって呼んでくれないんですか?」
そういえば、フレイルとがっつりと話すのはこれが初めてだった。昨日はウェイテリーに絡まれ続けていたから。なので、フレイルの性格は、なんとなく大人しいものだと思っていた。でも、ウェイテリーとあんな小芝居をする辺り、僕が想像するようなタイプではなかったみたいだ。
控えめそうにしているけど、これはフレイルと呼ばないといけないものだ。ただ、心の中で呼べても、口に出すのは難しい。これは僕が小心者だからではなく、普通の男子だからだと思う。
「じゃ、じゃあ、僕をさん付けするのもやめてくれないか。君と僕は同い年なんだし……」
「ええっ、そうだったんですか! ……そうですね。それじゃあ、お互い堅苦しい感じはなしにしましょう」
フレイルは微笑みながら、僕にとどめの一撃を加えた。
「改めて、これからよろしくお願いします、シノブくん♪」
ああ、わかった。彼女は素直なんだ。だから、下手に呼び捨てよりも恥ずかしい呼び方を悪気なく言う。僕は訂正する暇もなく赤面するしかなかった。
「何を青春しとるんじゃお前さんたち……」
ソファーにいたウェイテリーが機嫌悪そうに目覚めたところで、祖母が朝食ができたと呼びかける。キッチン兼食卓のスペースに行き、4人掛けのテーブルの席に各々が座った。このテーブルがこんなにも人で埋まるのは久々だ。
献立はいつものご飯と味噌汁に卵焼き、そしていつもはないはずの焼き魚だ。ホームステイという設定を汲み取ってくれたのか、和の朝食を作ってくれたようだ。そして、フレイルとウェイテリーの席には、箸ではなくフォークとスプーンが置かれていた。ホームステイの話をしてから、買い物にも出てないのに、ここまで整った準備をしてくれるなんて、頭が下がる。
「はむ……おいしい! おいしいです、アキコさん!」
「こんなにうま……おいしい朝食は久しぶりです」
「そんなに喜んでくれるだなんて、作ったかいがあるよ」
フレイルとウェイテリーもそのおもてなしに満足してくれたようだ。最も今までこの世界で過ごしたはずのウェイテリーにとっては新鮮味はない気がするのだが。今まで寝床もなくどんな生活をしていたんだ。
「私とフレイルはいろいろ手続きしに行くから、準備ができたら出かけさせてもらいます。昼食も外で取ると思うので、お気遣いなく」
ウェイテリーはそう言って、朝食を早々と平らげ、居間の方に戻る。ソファーの下のカーペットには昨夜話した時にはなかった物が散らかっている。その中から黒い上着を取り……そう、キッチン兼食卓から居間の様子は吹き抜けだ。そんな状態で、僕がいるのに着替え始めるなんて、本当にどんな生活をしていたんだ。
「お、おい! ウェイテリー!」
「むっ……なんじゃ……なんですか。そんなに見ないでくれませんか」
「お前、場所を考え……」
「見なければいいことでしょう。食事中に立ち上がって叫ぶなんて行儀が悪いですよ」
そうは言っても祖母とフレイルがいる手前、そんなことをされては……
「アキコさん、おかわりを頂けないでしょうか……」
「はい。まだいっぱいあるからねぇ」
と思っていたが、2人はマイペースに会話して、ウェイテリーの行動などまるで気付いていないようだった。フレイル、君は大食いだったのか。ますますイメージが変わった。
「案外、楽しいもんじゃな、ホームステイ」
僕が気を取られているうちに、ウェイテリーは着替えを済ませていた。これ以上注意のしようがなくなった僕はいろいろやり切れない気持ちのまま再び椅子に座った。
2人が出かけた後、僕は洗い物を始める。食事についてはほとんど祖母に任せているので、食器洗いは僕の仕事だった。祖母はウェイテリーが散らかしたままにした物に触らないよう、居間の掃除をしている。
昨日、僕が死んでいればそんな光景はなかった。忙しない朝だったろうに、祖母の表情は活き活きとしているように見える。それで、少しだけ、戻って良かったと思った。
『今日は遅くなるから』
遺言とか遺書とかは残していなかった。その日の朝の言葉を最後に、僕は祖母と別れを告げたつもりだった。祖母不幸にもほどがある。でも、僕はそれを悪い事だと思えない。僕が今も祖母との関係に違和感を覚えるのは、死に損なったことからの後ろめたさではない。この家に来てからずっとだ。
ホームステイの準備も詳しく何か言おうとは思わなかった。僕が言うと、祖母はその通りにやることしかできない。僕の思い込みではなくずっとそうなのだ。欲しい物を言えば、何でも買ってくれる。やりたいことを言えば、何でも叶えようとしてくれる。僕の存在は祖母を縛り付けているようなものだ。
だから、祖母が自分でいろんな用意をして、それを楽しいと思っているなら、僕はこの家に来て初めて祖母を喜ばせることができた。ほとんど僕の力ではないけど、良い事をしたのには変わりない。
もし、僕が死んだ後の今日を迎えていたら、祖母はどんな顔をしていたんだろう。喜びはしないが、解放されたとは思うんじゃないだろうか。そんな考えをしても僕は祖母に悪いとは思えない。
「おばあちゃん……昨日と今日はいろいろ……ありがとう。急な事ばっかりだったけど」
「いやいや、お礼を言うのは私の方だよ。楽しい人たちが来たねぇ」
それでも、今はお礼を言おう。僕はまだ生きなければならなくなったのだから。