世界の果て
「シェフ!」
マリーとハリーはぎょっとして、同時に声を上げた。
「知り合いなのか?」
ゲンジロウがたずねた。
「ジロー坊ちゃまのお屋敷で働いてた料理人よ。ジロー坊ちゃまが助けてくれなかったら、私は彼に、ハリーと一緒に裸でお皿に盛りつけられるところだったの」
「チシャ菜で飾られてな」
ハリーが補足した。
「お屋敷で出す料理にしちゃ、ちょいとセンスがねえな?」
ゲンジロウは顔をしかめた。
「お前は、へぼ天使の雷で黒焦げになったはずじゃなかったか?」
ジローがシェフに向かって言った。
「坊ちゃんのおっしゃる通り、あの時はひどい目に遭いましたが、こっちで静養したおかげで、すっかり元通りになりました。いえ、いっそ前よりもずっと元気ですよ。ほら」
シェフの顔が崩れ、ニヤニヤ笑いを浮かべる口は耳まで裂け、その中にぎざぎざの牙がぞろりと生えた。瞳は黄色に変り、瞳孔は猫のように縦に裂け、額からは長い角が三本も伸びてきて、さらには着ている服を引き裂きながら身体は膨れ上がり、とうとう百手巨人のゲンジロウと、さして変わらない大きさにまでなった。そして、どう言うわけか、包丁までもが彼の身の丈に合わせて巨大化する。
「さて、坊ちゃん。あなたは、そうですね……ミートパイにしてさしあげしょう」
シェフは牙だらけの口からよだれを垂らしながら、マリーたちに迫ってきた。すると、ゲンジロウがずいと前に進み出た。
「なあ、シェフさんよ。ここは料理人対決としゃれ込もうじゃねえか?」
ゲンジロウは言って、百本の腕をそれぞれ組み合わせ、指の骨を鳴らした。
蜥蜴男が三日月剣を抜き放ち、ゲンジロウの横に立った。
「手伝うぜ、大将。刃物も無しで、あのでかぶつを料理するのは、ちょっとばかり骨が折れるだろうからな」
「悪いな、テツさん」
「いいってことよ」
テツは言って、剣を構えてからマリーに目を向けた。
「マリーちゃんたちは、俺らがヤツを抑えてる間に先へ行ってくれ」
マリーは頷いた。
「二人とも、怪我しないでね?」
「約束はできねえが、まあ頑張ってみるさ」
ゲンジロウはマリーにニヤリと笑い掛けてから、雄叫びを上げてシェフに襲い掛かった。たちまち魔物たちの激しい戦いが始まり、マリーたちは島を後にした。
いくつもの橋を渡り、迷路を駆け回るうちに、とうとう鏡のマリーの背中が見えてきた。彼女は時折立ち止まり、何やら紙を広げてそれを覗き込んでいる。
「あいつが持ってるの、ひょっとして地図じゃないか?」
橋の上を駆けながらハリーが言った。
「そうみたいだな。なんだってあいつだけ、そんなに便利なものを持ってるんだ?」
と、ジロー。
「あの子、ズルなしじゃ何も出来ないのかしら」
マリーはぷりぷりしながら言った。
「マリーが空から道順を確かめる方法を思い付かなかったら、ここまで追い付けなかっただろうな」
ハリーに言われて、マリーは目をぱちくりさせた。
「そっか。あの子には手助けしてくれる人がいないから、ズルして丁度いいのね」
「まあ、ゲームバランスは大事だからな」
ハリーは訳知り顔で頷いた。
しかし、あと一歩と言うところへ迫ったとき、彼らの目の前に、こつ然と二匹の白兎が現れた。
「ああ、坊や。まさか、自分から地獄にやって来るなんて、思ってもみなかったわ。ご褒美に、とびっきり痛いお仕置きをしてあげる」
ラビーノ伯爵夫人は、がちがちと前歯を鳴らして言った。
「おや。あのうまそうな人間の女の子もいるではないか。こうなれば、料理されるのを待つのも面倒だ。頭からまるかじりにしてやろう」
ラビーノ伯爵は言った。夫妻はたちまち膨れ上がり、鱗と剛毛に覆われたトゲだらけの怪物に姿を変える。それは本性を現したジローそっくりだったが、大きさは彼の倍ほどもあった。
「くそっ、次から次に!」
ハリーはぴかぴか光りながら天使の力で雷を呼び、ラビーノ伯爵に向かって投げつけた。しかし伯爵は小馬鹿にするように、それを腕の一振りで叩き落とす。
「あいつは魔界の王を味方につけてるんだ。これくらい当然だろ?」
ジローもマリーの腕から飛び出して、巨大な化け兎に変身した。彼は赤い目でちらりとマリーを見て言った。
「行けよ。ここは俺と、へぼ天使でなんとかする」
マリーは頷き、影を追って駆け出した。どう見ても、この戦いはハリーとジローの不利に思える。こうなれば、さっさと鏡のマリーを捕まえて、決着をつけるしかない。しかし、ラビーノ伯爵は彼女を見逃さなかった。彼はハリーたちに背中を向けると、強靭な後脚で跳躍し、橋を渡ろうとするマリーに襲い掛かった。
「マリー!」
ハリーが叫んだ。ジローがマリーを救おうと突進するが、その前に伯爵夫人が立ちはだかる。ラビーノ伯爵の黄色い前歯が、マリーの身体に届こうとした瞬間、金属を打つけたたましい音が響き渡った。マリーの前には、いつの間にやら人の背丈ほどもある黒いナイトのチェスの駒がいて、彼は紋章が描かれた立派な盾で、ラビーノ伯爵の前歯を受け止めている。騎士が鋭く気合いを吐いて伯爵の巨体を押し返し、すかさず槍を突き出したので、伯爵はたじたじとなって後退した。
伯爵夫人は夫のピンチを見るや、息子を後脚で蹴り飛ばし、猛烈な勢いで駆けると騎士の横合いから襲い掛かった。ところが、今度は白いナイトのチェスの駒が空中から湧いて出て、彼女の前に立ちはだかり攻撃を盾で受け止めた。
「領主様、それに伯爵様も?」
マリーは目を丸くして、二人の騎士を見つめた。
「君が困ったら、たとえそこが地獄であろうとも、助けに行くと誓っただろう?」
黒騎士が言った。
「騎士の誓いは絶対なのだ」
白騎士は言って槍を振り回し、伯爵夫人を後退させてから、ぐるりと辺りを見回した。
「しかし、どうやら我々は、本当に地獄へ来てしまったようだな」
「怖気づいたか、伯爵?」
「いくら義父上でも、それは無礼ではないか?」
白騎士は眉をひそめた。
「ただの冗談だ、息子よ」
黒騎士はにこりともせずに言った。
「それって、つまり……」
ハリーはぴかぴか光るのをやめて、二人の騎士を見つめた。白騎士は頷いた。
「君たちが去って間もなく、ドロシーの方から求婚されたのだ」
「おめでとう、ペイルさん!」
ハリーは満面の笑顔で祝福した。
「ありがとう、我が友ハリー」
白騎士は優雅なお辞儀で応じた。
「積もる話もあるが、今はお互いに忙しいようだ」
黒騎士は、突進しようと地面を引っ掻くラビーノ伯爵夫妻を睨み、槍を構えた。
「行ってくれ、マリー。ここは、我らに任せてもらおう」
マリーは頷いた。ジローは子兎に戻り、マリーに駆け寄って彼女の腕に飛び込む。ハリーも後へ続き、三人は再び鏡のマリーを追って駆け出した。
マリーは不思議でならなかった。どんなに邪魔をしても、マリーは遅れるどころか、どんどん距離を詰めてくる。それは、おそらく彼女が頼みもしないのに、手を差し伸べるおせっかいな人たちのおかげだろう。しかし、彼らは一体、何が嬉しくてそうするのか。
ビルは親切だった。ただし彼の親切は、見返りがあればこそだ。彼は自分の寂しさを埋め合わせるために、マリーを欲しがっていた。だからマリーは、可愛らしい女の子と言う報酬をちらつかせて、彼を言いなりにすることができたのだ。マリーを助けた連中は、彼女に何か見返りを求めただろうか。少なくとも、マリーが見た限りでは、無い。それなのに、どうしてマリーは彼らを意のままに操れるのだろう。
魔界の王でさえ、助力の見返りを求めてきた。彼は映したものに変身できる魔法の手鏡をマリーに与え、逆さまの塔の隠し階段の入口を教え、この迷路の地図もくれた。もちろん、口紅で落書きした扉を異世界に繋ぐ魔法も、彼にもらったものだ。さらに今は、自分の家来を使い、マリーの追跡を阻もうとしてくれている。そのお返しにマリーが渡すものは、勝利だ。
ルクスは今、マリーたちの対決にいくらかのチップを賭けているのだと言う。考えてみれば、マリーが魔法の手鏡を持っているように、あっちのマリーも魔法の懐中時計を持っている。つまり、それを与えた者がいるはずで、その謎の人物こそがルクスの賭けの相手に違いない。魔王と賭けを楽しむような相手なら、きっと彼に匹敵するような力の持ち主だろう。
しかし、ルクスの対戦相手は、自分の駒の勝利にさほど関心が無いように見えた。マリーは大人に変身できることを除けば、なんの力も無い普通の女の子なのだ。となれば、ルクスがそうしているように、マリーを勝たせるためゲームへ直接介入して来てもよさそうなものだが、今までそう言ったズルが行われた形跡はない。あるいは、余計な手出しをしなくとも、自分のマリーが勝利すると確信しているのだろうか。
いいえ、そうはならないわ――と、マリーは胸の内で呟き、足を止めた。エプロンのポケットから口紅を取りだし、ピンク色の文字で一言書き記す。どう言うわけか、扉で異世界を繋ぐ魔法は、魔界へ来てからまるで働かなくなっていた。だから、これは単なる追っ手への嫌がらせだ。振り向くと、こちらへ駆けてくるマリーの姿が見えた。マリーは彼女にあかんべえを一つくれて、扉をくぐり抜けた。
水晶の岩には、やはり扉が設えられていた。ただし、それは大理石ではなく、以前にも何度か目にした青い扉だった。扉にはピンク色の文字が書き置かれていた。
「私の勝ち、か」
ハリーは文字を読み上げ、足元の小石を蹴飛ばした。彼はマリーに目を向けた。
「これで終わり?」
マリーは何も答えられなかった。言葉にすれば、敗北と言う事実が、本当になってしまうように思えたからだ。しかし、勝敗はどうあれ、ゴールそのものをあきらめる気にはなれなかった。ここまで、色んな人たちが彼女を助けてくれたのに、その結果がリタイヤではあまりにも不甲斐ない。負けなら負けと、おそらくどこかにいるであろう審判に宣告されるまで、彼女は進み続けるつもりだった。マリーは覚悟を決め、扉の取っ手に手を伸ばした。
「危ない!」
ハリーが叫び、マリーに飛び付いた。彼らは礫だらけの地面を転がり、その直後に扉の前を、頭上から降り注いだ炎が焼く。咆哮が、真っ暗な空に響いた。見上げると、そこにはヘビのような首をうねらせて飛ぶドラゴンの姿があった。
「ジェームズさん?」
マリーは呟き、それからはっと息を飲んだ。扉の文字は、嘘っぱちだったのだ。本当に鏡のマリーの勝利が決まったのなら、今さらこんな邪魔立てなど必要ない。急いで彼女を追わなければならなかった。しかし、飛び起きて扉へ向かおうとするマリーの行く手に、炎が降り注いだ。思わず足を止め、腕を上げて炎の熱から顔をかばう。
ジェームズは、頭上でぐるぐる旋回を続けていた。ハリーは指を振って稲妻を呼ぶが、光の矢はドラゴンの鱗に当たっても、焦げ跡一つ作れない。
「くそっ、ドラゴンが相手じゃ勝ち目がないぜ」
ハリーは毒吐いた。以前、ラビーノ伯爵のお屋敷でジェームズと対決した時、彼はドラゴンに天使の力は効かないと言っていた。これが、そう言うことなのだろう。
「俺は一度勝ってるぞ」
ジローが言った。
「あの時は、サブロー坊ちゃまのネズミ爆弾があったからよ。それでも、ジロー坊ちゃまはひどい怪我をしたわ」
マリーは言って、ゆうゆうと空を飛びまわるジェームズを睨みつけた。いずれにせよ、彼が地上へ降りて来ない限り、ジローは前歯の一つも当てることは出来ない。かと言って扉へ近付けば、また炎を吐いて邪魔するだろう。そして、マリーたちがまごついている間にも、鏡のマリーは真のゴールへ着々と近付いている。
「あれが、私の相手と言うわけか」
誰かが肩を叩いて言った。いつの間にか、彼女の横に天使が立っていた。もちろん、ハリーではない。赤銅色の翼を生やした、大人の天使だ。
「ミカエル様?」
ハリーがぎょっとして言った。天使の長は彼に頷いて見せてから、マリーに目を向けた。
「ドラゴン退治には、少しばかり心得がある。ここは任せてもらえるかな?」
マリーは、こんなところで何をしているのかとたずねた。地獄に天使長とは場違いにもほどがある。
「クッキーの借りを返しに来たのだ」
ミカエルは、茶目っ気たっぷりに片目を閉じて見せた。そうして彼は、思い出したように言った。
「ラグエルたちが、君によろしくと言っていた。それと、カマエルからは、君に礼を伝えるよう託かっている」
「お礼?」
首を傾げるマリーに、ミカエルは頷いて見せた。
「彼は迷宮から恋人を救ってくれた君に、感謝しているのだ。君に借りを返したいと言っていたが、私が自分の分とまとめて返してくるからと言って、代わりに書類仕事を押し付けてやった。今ごろ彼は私のデスクで、天使長がどれほどつまらない仕事かを学んでいる事だろう」
マリーは、思わずくすりと笑った。ミカエルは、もう一度片目を閉じて見せてから、上空で咆哮をあげるジェームズを見据え、高く掲げた右手で何もない空中から燃える剣を掴み出した。そうして赤銅色の翼を大きく広げて舞い上がり、ドラゴンに対峙すると太陽のように輝きながらマリーに言った。
「さあ、行ってくれ!」
マリーは頷き、青い扉へ向かって駆け出した。
そこは窓ひとつない石積みの狭い部屋だった。片隅に置かれた机の前に、金髪をおさげにした女の子が一人、ちっぽけなランプの灯りを頼りにして、黄味をおびた紙に何やら熱心に書き付けている。マリーは、忍び足でそっと歩み寄るが、女の子はくるりと振り返ってたずねた。
「ずいぶん遅かったのね?」
「ちょっと邪魔が入ったの」
マリーは足を止めて答えた。そして、ハリーとジローの姿が消えていることに気付き、きょろきょろと部屋の中を見回す。
「二人なら、外で待ってるわ」
女の子が、まるでマリーの心を読んだように言った。
「ジロー坊ちゃまが天界へ入れなかったみたいに、二人もここへは入れないの。あと、おじいさんは、私たちの対決の後始末で、どこかへ出かけてる」
「あなたは、ここで何をしてたの?」
マリーはたずねた。女の子は、何かを書き付けた紙を机の上から取り上げ、顔の前でひらひらと揺らして見せた。
「手紙を書いてたの」
「誰に?」
「この旅で、お世話になった人みんなによ。これは、ラビーノ伯爵のお屋敷の人たち宛で、こっちは居酒屋のみんな。それと、こっちは領主様と伯爵様と……あれ、ビルの手紙はどこかしら?」
女の子は紙の山をごそごそと探し回り、ふと手を止めて椅子から飛び降りてマリーに歩み寄った。彼女が行き過ぎる時、姿見はちゃんと女の子の姿を映し出した。女の子はマリーの前で足を止めると、エプロンのポケットに手を突っ込んで何かを掴み出し、その拳をマリーに突き出した。マリーは怪訝そうに首を傾げながら、手の平を差し出す。その上に、何かがころりと転げ落ちるが、それを確かめる前に、彼女はあることに気付いた。
「あなた、口紅を塗ってるの?」
マリーが指摘すると、女の子は少し照れくさそうな笑顔を浮かべた。
「ママが見たら、怒るかな?」
「それは間違いないわね」マリーは頷いた。「でも、すごくきれいよ」
「ありがとう」
女の子はお礼を言ってから再び机に戻り、行方不明になったビル宛の手紙を探し始めた。マリーが改めて手の平を見ると、そこには口紅が乗っていた。
「それ、後でちゃんと返してね」
紙の山を引っ掻き回しながら、女の子は振り向きもせずに言った。マリーは頷き、口紅をエプロンのポケットへ放り込むと、赤い扉をくぐりぬけた。
石壁の廊下がどこまでも続いていた。壁には松明が掲げられ、いがらっぽい煙を上げている。腕の中にはジローがいて、彼女のすぐ隣にはハリーがいた。マリーが見つめていると、彼はラズベリー色の瞳を向けて「どうかしたか?」と怪訝そうにたずねてくる。なんでもないわと答えて、マリーは石の廊下を走り出した。
間もなく前方に、両開きの巨大な鉄扉が見えてきた。そして、その重たい扉を苦心して押し開けようとする女の子がいる。彼女はマリーたちが追って来るのを見て息を飲み、わずかに開いた隙間へ無理やり身体をねじ込んで、扉の向こうへ逃げ出した。ジローはマリーの腕から飛び出して怪物に変身すると、扉に突進し、体当たりでそれを押し開けた。もはや振り向きもせず、全力で走る女の子の背中が見えた。ハリーはぴかぴか光りを放ち、女の子を目指して猛スピードで宙を飛んだ。ジローは振り返り、ハリーが頭上を通り抜ける瞬間、トンボを切って天使の少年を蹴り飛ばした。ハリーは何事かをわめきながら吹っ飛び、鏡のマリーにぶつかった。二人の短い悲鳴が聞こえ、すぐに静かになった。
マリーが駆け寄ると、鏡のマリーとハリーは重なりあってすっかり伸びていた。マリーは自分の影の上から天使の少年を押し退け、床に座り込むと意識の無い彼女の頭を膝に乗せた。子兎に戻ったジローがやって来て、ハリーの鼻の頭をがぶりと咬んだ。ハリーは悲鳴を上げて飛び起き、二人のマリーを見て目を丸くした。
「俺たち、勝ったのか?」
マリーはわからないわと言って、女の子の頭をそっと撫でた。ハリーは鏡のマリーのそばにしゃがみ込み、彼女とマリーの顔を交互に見比べる。
「影なんだから当たり前なんだけど、本当にそっくりだな」
ハリーは呟いてから、鏡のマリーのスカートの裾をつまみ、中を覗こうとした。マリーはすかさずチョップをくれ、すがめた目でたずねた。
「なにしてるの?」
「いやあ、中身もそっくりなのか確かめようと思って」
ハリーはおでこをさすりながら答えた。
「それに、女の子にぶつかるなんて絶好のシチュエーションだったのに、ラッキースケベの一つも起こらないなんて不公平だから、その埋め合わせもしようと思ったんだ」
マリーは意味が分からず、小さく首を振った。
鏡のマリーが、ふと目を開けた。彼女はマリーの顔を見るなり、飛び起きて逃げ出そうとした。
「待って!」
マリーは叫んで、ポケットから口紅を取り出した。鏡のマリーは息を飲み、自分のポケットを押さえてマリーを睨みつけた。
「盗んだわけじゃないわ。ちゃんと見て、あなたの口紅はポケットにあるでしょ?」
マリーに言われて、鏡のマリーは自分のポケットから、まったく同じ口紅を取り出した。マリーは立ち上がり、鏡のマリーの手を握った。
「行きましょう?」
鏡のマリーは肩をすくめ、マリーと並んで廊下の奥を目指して歩き出した。
「おい、マリー。どこへ行くんだ?」
ハリーがジローを抱き上げて二人を追った。
「この子が、行こうとしてたところへよ。本当の決着は、そこじゃないと付けられないの」
ハリーとジローは顔を見合わせた。
真っ直ぐな廊下をひたすらに歩き続け、彼らの行く手は再び鉄の扉に遮られた。扉の前には知った顔があった。
「やあ、マリーちゃん」
と、彼は笑顔で言った。
「こんにちは、ルクスさん」
マリーはお辞儀をしたが、鏡のマリーはぷいとそっぽを向いた。
「そんなに怒らないでくれないか。これでも僕は、ずいぶん頑張ったんだ」
「そうね」
マリーはしかめっ面をしてみせた。
「でも、君は切り抜けた。塔のてっぺんで、君のお願いを聞いてしまったのは失敗だったな。ハリー君と、ジロー君だけを呼ぶつもりだったのに、想定外の人たちまで呼ぶ羽目になってしまった。余計な魔物が二人、混じってたところで気付くべきだったんだ。ちょっとした間違いだろうと思って放ったらかしていたら、ミカエルまで現れて、さすがに驚いたよ」
ルクスは愉快そうに笑って言った。
「ミカエル様は私があげたクッキーを、みんなより一つ、余計に食べてたの。人間から何かを受け取った天使は、必ずお返しをしなければならないんでしょ? だから彼は、そのルールに従って、私にお返しにきただけなの」
マリーが言うと、ルクスは目をぱちくりさせ、それから渋い表情を浮かべた。
「そのクッキーをあげたのは、僕だ。結局、僕は自分で自分の企みを台無しにしてたわけか。でも、それなら、あの騎士と魔物はどうしてこっちへ来れたんだ?」
「領主様と伯爵様は、私に騎士の誓いを立ててたの。私が困ったら、たとえそこが地獄でも助けに駆けつけるって。騎士の誓いは絶対だから、それで本当に地獄へ来ちゃったんだわ。ゲンジロウさんとテツさんは、私の飲み仲間だから、きっとお願いに巻き込まれたのね」
「君のお願いは、『仲間を連れてきてもいいことにする』だったね。旅の仲間以外を引っ張り寄せても、別におかしくはない」
ルクスは苦笑を浮かべ、納得した様子で頷いた。そうして彼は笑顔を引っ込め、拳の背で鉄の扉を二度ほど叩いた。
「この先に、世界の果てがある。全ての時間と空間が終わる穴で、落っこちればどんなものであれ、果ての表面にへばりついて永遠に抜け出せなくなる。危険な場所だけど、本当に行くんだね?」
マリーは自分の影に目を向けた。鏡のマリーは頷いた。二人は手を重ねて扉の取っ手に手を掛け、それを引っ張った。ふっと背後の空気が扉の隙間へ吸い込まれた。なおも取っ手を引き続け、扉を大きく開け放つと、その先は赤黒い空を背に、二〇フィートほど先ですとんと途切れた岩棚になっていた。マリーと鏡のマリーは手を繋いだまま、岩棚の端へ歩み寄った。そこは切り立った崖で、はるか下方には灰色の雲海が見える。雲は黒々と開いた巨大な穴に、渦を描いて吸い込まれている。
鏡のマリーはポケットから口紅を取り出した。彼女はそれをじっと見つめてから、世界の果ての穴に放り込もうと腕を振り上げる。しかし彼女は、そのまま凍りついたように動かなくなった。マリーがじっと見つめていると、鏡のマリーは不安げな表情を向けてきた。
「そうね」マリーは頷いた。「ここなら、それを始末するのは簡単よ。でも、そうすることが本当に正しいことなのか、それとも間違ってるかなんてわからない。私にわかっているのは――」
マリーはポケットから懐中時計と、玩具の手鏡を取り出した。手鏡の中には、大人の自分が映っていた。マリーは懐中時計の蓋をぱちんと開いて、大人に変身した。彼女は言った。
「大人になるのも、そんなに悪くないってことよ」
鏡のマリーは、くすりと笑った。マリーも笑い返し、懐中時計をポケットに収めてから、代わりに口紅を取り出した。キャップを外し、手鏡を覗き込みながら、ピンク色の先端を唇に当てる。鏡の中では、子供のマリーも同じように口紅を唇に当てていた。マリーは子供の自分と一緒に口紅を引いた。母親がそうしていたのを思い出しながら、丁寧に、丁寧に。
化粧を終えて、口紅をポケットへ戻す。出来栄えに満足して、にっこり笑うと、鏡の中の子供のマリーも笑顔を返してきた。手鏡をよけると、鏡のマリーの唇にも口紅が引かれていた。
「約束して」鏡のマリーは言った。「もう、寂しいのを我慢しないで」
マリーはひざまずき、鏡のマリーを抱きしめて、彼女の耳元でこっそりと言った。
「私、わかったの。ちゃんと可愛くしていれば、大抵の大人は優しくしてくれるって。たぶん、みんな可愛い子供が大好きだから、私たちが可愛らしくするだけで嬉しくなるんだわ」
マリーが身を離すと、鏡のマリーはきょとんとした。
「これは、あなたが教えてくれたことよ? あなたがビルさんを操ったみたいに、大人を言いなりにできるくらい可愛くなれるかはわからないけど、とにかく練習してみるわ。まずはママが、私を独りぼっちにしたくなくなるようにするのが目標ね。うまくいけば、もう寂しいことなんてなくなるはずよ」
二人のマリーは、悪だくみをするような顔で、にやにやと笑い合った。それから、鏡のマリーは魔法の手鏡と口紅を差しだした。それらを受け取ったマリーは、鏡のマリーの頬にキスをくれてから、魔法の手鏡を覗き込み懐中時計の蓋を開けて変身を解いた。マリーと鏡のマリーはきらきらした光に包まれ、それが消えるとマリーは子供の姿に戻り、鏡のマリーは姿を消していた。そして鏡の中に映るマリーの影は、もう子供のままだった。