マリーと魔界の王

消えた懐中時計

　母親が仕事へ出かけ、玄関の扉が閉じられると、マリーは独りぼっちになった。ふと膝の上に目を落とせば、そこは空っぽで、白い毛の付いたブラシだけが彼女の手の中にあった。ウサギのハロルドはどこへ行ってしまったのだろう。マリーはブラシを置いて、母親の鏡台へ向かった。顔を映してキスされた場所を見れば、微かに口紅が付いている。化粧品にありがちな油っぽい匂いに顔をしかめてから、彼女は手の甲でそれをぐいと拭い去った。

　化粧の匂いは独りぼっちの匂い。大嫌いな匂い。それなのに、あなたはどうして、そんな物を手に取るの？　しかし、マリーの思いとは裏腹に、鏡の向こうのマリーは無邪気に翡翠色の瞳を輝かせ、ピンク色の口紅の先を唇に寄せる。

　嫌だ。

　マリーは首を振った。そして決然と立ち上がり、呆気にとられて見つめてくる、鏡の中の自分に背を向けた。彼女は目に付いた扉へ大股に歩み寄り、ノブに手を掛けそれを開け放つと、ぐにゃぐにゃに歪む廊下を抜けて、いずこともなく駆け出した。ずいぶん走って、胸が焼け付いて、もう足が動かなくなったとき、彼女は手の中に、あのいまいましいピンクの口紅があることに気付いた。腹が立って、それを地面に投げ付けようとして、「そうじゃない」と誰かが囁く。彼の言うとおりだ。こんなものは、もう誰の手にも届かない場所に捨てなきゃ。こんなものがあるから私は――

「マリー！」

　違う声が彼女を呼んだ。化粧の匂いは、もう消えていた。その代わり、生ごみのような懐かしい悪臭が鼻を突く。背中の下では、鱗と剛毛に覆われた地面が激しく揺れていた。マリーがどこかへ転がっていかないでいられたのは、彼女の襟首を何者かがしっかり掴んで離さないでいてくれたからだ。首をひねってみると、ラズベリー色の瞳と目があった。それは、瞳以外は何もかもが真っ白な、美しい天使の少年だった。

「ハリー？」

　マリーが問うと、ハリーは歯を食いしばって言った。

「目が覚めたんなら、自分でしっかり掴まってくれ！」

　マリーは何が何だか分からなかったが、ともかく身体を回してうつ伏せになり、手近な剛毛の束を両手で引っ掴んだ。それでようやくハリーは、緑色のワンピースの襟首から手を離した。マリーが顔を上げると、巨大で長い耳が数フィート向こうで揺れていた。

「ジロー坊ちゃま？」

　兎の怪物は赤い瞳でマリーを一瞥し、すぐさま前を向いた。背後から咆哮が響く。少し遅れて、黄色っぽく輝く炎の矢が真っ暗な空をつんざき、彼らの頭上を走り抜ける。マリーが首を捻って振り返れば、長い首をうねらせて飛ぶ、ドラゴンの姿があった。その姿に、マリーは見覚えがあった。

「ジェームズさん？」

　それは、ジローの両親であるラビーノ伯爵夫妻の屋敷に勤めていた、執事の名だった。初めて見たときの彼は、頭髪が薄くなりかけた使用人の姿をしていたが、その正体は蛇のように長い首を持つ、恐ろしいドラゴンだった。しかし、ラビーノ夫妻と彼はジローとの戦いに敗れ、奈落の底へと姿を消したはずだ。

「何がどうなってるの？」

　マリーはたずねた。

「話は後だ。黙って掴まってろ」

　ジローが言った。聞きたいことは山ほどあったが、マリーはそうするしかなかった。ぴょんぴょん飛び跳ねるウサギの背中にいるときにおしゃべりをすれば、舌を噛んで痛い目を見ると身を持って知ったからだ。

　彼らはドラゴンに追い立てられながら、どことも知れない暗い世界を逃げ惑った。そうして目の前に、禍々しくねじくれた巨大な鉄の門が現れた。しかし、尖った鋲の打たれた門扉は、今にも閉ざされそうになっている。

「手を放すなよ！」

　ジローは叫んだ。しゅうしゅうと言うドラゴンの息遣いが背後に迫っている。ハリーが、ああっと小さく叫んだ。門扉のすき間はもう三フィートほどで、とても巨大なジローがくぐり抜けられるような幅はない。ところがジローは、構わず門へ向かって突進し、あわやと言うところで巨大な魔物から子兎に姿を変えた。マリーたちは空中に放り出され、回転しながら門扉のすき間をくぐり抜けた。地面へ叩き付けられる前に、ハリーが空中で捕まえてそっと降ろしてくれたが、マリーはすっかり目を回し、立ち上がるどころか身体も起こせない有様だった。

　門扉が閉ざされる寸前、口惜しそうなジェームズの咆哮がマリーたちの耳に届いた。そうして重々しい音を立て、門はすっかり閉じ、霞のように薄れて消え去った。マリーは地面の上で、固く目を閉じ目眩がおさまるのを待った。じりじりと肌を灼く熱気を頬に感じ、肉の焦げる匂いが鼻を突いた。

「ここはどこ？」

　目を閉じたまま、マリーはたずねた。

「地獄だ」

　ハリーの声が答えた。それは喧噪や、金属同士が擦れあう騒音にかき消されそうになっていた。

「いいや、ここは魔界だ。別の町だが、いっぺんだけ父上と母上に連れて来られたことがある」

　ジローが訂正した。

「どっちもおんなじゃないか」

　ハリーは言い張った。

「黙れ、へぼ天使。ここを、あんな田舎と一緒にするな」

　目眩がおさまったマリーは、顔を上げて辺りを見回した。どうやら彼女たちは通りの真ん中に座り込んでいるようで、その脇を赤や緑やオレンジ色の肌をして、角や瘤や鱗を生やした異形の男女が、笑ったり、少し荒っぽい口調で楽しげに話し合ったりしながら行き交っていた。マリーたちのすぐそばにはかがり火が立てられており、いがらっぽい煙をあげながら、辺りを明るく照らしている。通りの左右にはランタンを吊るした屋台がずらりと軒を連ね、それはどこまでも続いているように見えた。食べ物を扱う店がほとんどだったが、それは串に刺さったあぶり肉だったり、焼けた鉄板の上で香ばしい匂いをあげるパスタだったり、あるいは毒々しいまでに鮮やかな色合いのお菓子だったりと、実にさまざまだ。

　マリーは、やにわにジローを持ち上げ、胸に抱きしめた。彼女はひとしきりそうしてから、ジローの両脇に手を突っ込んで、顔の前に掲げてからたずねた。

「ジロー坊ちゃま。今まで、どこにいたの？」

　ジローはマリーを見て、鼻をひくつかせた。

「そう言えば、そうだな」ハリーが思い出したように言った。「お前、どこで何をしてたたんだ？」

　ジローが怪訝そうに首を傾げるので、天使の少年は天界で起こったことを説明した。マリーも時折、横合いから口を挟み、不足している部分を補う。そうして、ハリーは最後に付け加えた。

「けど、俺たちがその冒険している間、お前はどこにもいなかったんだ」

　その理由を天界の人々に問うと、魔物は天界に入れないルールがあるからだと言う。しかし、そうであればマリーとハリーが天界にいる間、ジローはどこにいたのだろう？

「黒騎士の村の、ビルとか言う人間の家を出てから今まで、俺たちはずっと一緒だったはずだぞ。ただ、扉を抜けた途端、お前らは倒れてそのまま眠り込んでしまったんだ。それで仕方なく、俺はお前らを背中に乗せて、真っ暗で右も左もわからない場所をずっと歩いていた。途中、へぼ天使が目を覚まして、それからすぐにジェームズが追いかけてきた。あとはお前も知っての通りだ」

　マリーとハリーは顔を見合わせた。何とも奇妙な話だった。ひょっとして、天界の迷宮をさまよい歩いた、あの冒険は夢だったのだろうか。しかしマリーはふと思い出して、エプロンのポケットに手を突っ込んだ。出てきたのは、半分になったクッキー。つまり、あれは夢などではない。こうなると彼女たちは、扉を抜けるほんの一瞬の間に天界へ行って、またジローの元へ戻ってきたのだと考えるしかなかった。

「ちょっと、あんたたち」茹でソーセージ屋台の、一つ目鬼(サイクロプス)の女主人が牙を剥きだして言った。「店の前で座り込まれると、商売の邪魔なんだけどね？」

「ごめんなさい」

　マリーは立ち上がり、慌てて謝った。しかし、ジローは鼻を鳴らしてそっぽを向き、ハリーは呆けたように女主人を見つめて呟いた。

「きれいだ」

　一つ目鬼は、大きな丸い目をぱちくりさせてから、なんとも嬉しそうなニヤニヤ笑いを浮かべた

「小僧っ子のくせに、お世辞なんか言ってんじゃないわよ。四百歳のおばちゃんをつかまえてさ？」

「四百歳？」ハリーは目を丸くし、それから小さく首を振った。「そんな引き締まったナイスバディで言われても、信じられるわけないだろ。ホントは、まだ二百歳かそこらに違いない」

　ハリーは自分の発言に、自分で何度も頷いた。

「まったくもう、口の達者な子だね」

　一つ目鬼は、ますます嬉しそうに顔をゆるめ、くねくねと身をよじらせた。八歳の人間の女の子のマリーには、魔物の四百歳が若いのか古いのか判断はできないが、確かに女主人は大人の女性らしい体つきをしている。ハリーのでれでれした顔を見るに、きっと彼女はナイスバディと言うやつなのだろう。その基準で考えれば、天使のローズもナイスバディだ。ただ、あちらの方がもっと丸みがあるように思えた。

　それにしても、この天使、鼻の下を伸ばしすぎである。マリーが、そろそろ足でも踏んづけてやろうかと思い始めた頃、彼はどこからともなく硬貨を三枚取り出し、女主人に渡してたずねた。

「ところで、お姉さん。俺たち、そこの女の子のそっくりさんを探してるんだけど、この辺りで見かけてない？」

　女主人は湯気を上げる大鍋から、串に刺さったソーセージを四本取り出しながら、一つきりの大きな目でマリーをじろじろ眺めて答えた。

「確かに人間の女の子なら見たよ。あっちの方へ走っていったけど、なんだかひどく急いでたように見えたね」

　女主人は茹でソーセージをハリーに手渡した。ハリーは怪訝そうに首を傾げた。

「一本、多いよ？」

「色男にサービスさ」

　女主人は、にっと牙を剥きだして笑って見せた。

「ありがとう、お姉さん」

　ハリーもとびきりの笑顔を返して言った。

　それから三人は、屋台を巡りながら鏡のマリーの足取りを追い、彼女が赤いランタンを下げる居酒屋の方へ向かったという情報を掴んだ。

「ここだな」

　居酒屋の前に立ってハリーは言う。軒先には赤いランタンが光っていて、そこには『焼鳥』と言う絵とも字ともつかない文様が黒く描かれていた。店の扉はわずかに開いていて、そのすき間からは、えも言われぬ香ばしい匂いが漂ってくる。空腹であればおなかの虫が鳴き出しそうな匂いだが、マリーはいやいやと首を振った。屋台で散々食べ歩いたせいで、すっかり満腹だったのだ。

「けどな、他に手掛かりはないんだ。やるしかない」

　後ろ足で立ち上がり、焼き肉の串にかぶりつきながらジローは言った。マリーは覚悟を決めて、磨りガラスのはまった引き戸を開けた。

　そこは六人掛けのカウンター席があるだけの、小さな店だった。客は、腰に三日月形の剣を帯びた、緑色の肌の蜥蜴男（リザードマン）が一人きり。カウンターの向こう側では、百手巨人（ヘカトンケイル）の主人が小さなコンロで、これまた小さな串焼き肉を炙っている。彼は百個ある目玉の一つをマリーにじろりと向けて言った。

「お子さまは遠慮してくんな。ここは大人に酒を飲ませる店なんだ」

　マリーはすごすごと引き下がり、ぴしゃりと戸を閉じた。

「おい」

　ハリーが肩を掴んだ。

「でも、大人の店だって言われたわ」

　マリーは言い訳した。

「だったら、大人になればいいだろ？」

「でも、鏡がないわ」

　するとハリーは、おもちゃの手鏡を出してにやりと笑った。

「さっき、屋台で見つけて買っておいたんだ」

　マリーはポケットから懐中時計を取り出し、ハリーから手鏡受け取って、それを覗き込みながら懐中時計の蓋を開けた。マリーは光に包まれて、たちまち大人のマリーに姿を変えた。ハリーがいやらしい顔でにやけているので、ひとまず頭にチョップをくれる。自分ではわからないのだが、どうやら変身中は素っ裸になるらしい。変身のたびにエッチな天使を喜ばせるのは、なんとも癪だったが、こればっかりはどうしようもなかった。

「これ渡しとくよ」

　ハリーは涙目でおでこをさすりながら、巾着袋を差し出した。受け取って中身をのぞいてみると、銀貨や銅貨がぎっしり詰まっていた。

「俺とオンボロ兎は大人に変身できないから、ここはマリーに任せる。俺たちは念のため、もう少しそこらを回って聞き込みしてくるよ」

　マリーは一つ頷き、二人を見送ってから改めて戸を開け、店内に足を踏み入れた。今度は店の主人も、彼女を追っ払おうとはしなかった。

「いらっしゃい」

　主人は不愛想に言って、席に着いたマリーの前に、料理が盛られた小鉢と箸を置いた。箸の使い方を知らないマリーは、隣の蜥蜴男の真似をしながら、苦心して料理を口に運んだ。こりこりした食感があり、柑橘の香りと爽やかな酸味が口いっぱいに広がる。満腹で、もう何も食べられないと思っていたのに、それはするりとのどを通った。

「美味しい」

　マリーが口を押さえて呟くと、主人はあるかなしかの笑みを浮かべて言った。

「茹でて刻んだミノタウロスの筋を、ポン酢でちょいと和えただけのもんだが、いけるだろ？」

　マリーはこくこくうなずいた。

「で、何を飲む？」

　主人にたずねられ、マリーはドキリとした。変身しているとは言え、本当の彼女は子供なのだ。お酒を飲んだりしてもいいのだろうか？　とは言え、何も頼まないわけにはいかないし、興味もあった。

　お酒のことはよくわからないと告げると、主人はわずかに思案して、ミニチュアのようなコップをマリーの前に置き、そこへ小さな瓶から透明な液体を注いだ。マリーはコップを手に取り、恐る恐る口を付けた。フルーツのような風味があって、冷たいのに喉とおなかがぽかぽかと温まる。マリーがコップを空にすると、主人はおかわりを注いだ。

「ずいぶん、サービス満点じゃないか。大将？」

　蜥蜴男がにやにや笑って言った。

「当ったり前（めえ）だ。可愛らしい姉さんに、むさくるしいおっさんと同じサービスなんてできるわけねえだろ？」

　主人は鼻を鳴らして言った。

「違いない」

　蜥蜴男はげらげら笑って、自分のコップをマリーに突き出した。可愛らしいと言われたマリーは嬉しくなって、くすくす笑いながら蜥蜴男のコップに自分のコップを合わせてから、それを空にした。頬が熱くなって、少し頭がふわふわするような気がした。

「いい飲みっぷりだ。ほれぼれするね」

　蜥蜴男は感心した様子で言った。マリーは用事を思い出し、人間の女の子を見掛けなかったかと、蜥蜴男にたずねた。彼は一つ頷いて言った。

「ついさっき見たぜ。大将に追っ払われたがな」

「その前には、誰も来なかった？」

　どうにも呂律が回らず、マリーは苦心しながらたずねた。蜥蜴男は顔をしかめて首を振り、大将は百個の肩をすくめた。しかし、影がこの店の方へ向かったと言う情報があるのだ。マリーは食い下がるが、二人の答えは変わらなかった。

　どうやら、空振りだったようだ。マリーはもう一杯だけお酒を飲んで、代金を支払ってから店を後にした。世界がくるくる回っていた。真っ直ぐ歩こうにも、どうにもうまくいかない。ふらふらと千鳥足で進んでから、何もないところで蹴つまずき、道の上にばったりと倒れ込む。そして、そろそろ子供に戻る時間かしらと眠気の差した頭で考えていると、いつの間にかその子供のマリーが側に立って自分を見おろしていた。これはきっと夢ね。そう決めつけて、マリーは目を閉じた。冷たい地面が、火照った頬になんとも心地よかった。

「マリー？」

　誰かに揺り動かされて、マリーはふと目を覚ました。薄目を開けてみると、ラズベリー色の瞳が彼女を覗き込んでいる。マリーは再び目を閉じた。まだ、少しばかり眠かった。

「酒臭いな。酔っぱらってるのか？」

　ジローの声が聞こえた。

「おーい、マリー。さっさと起きないと、おっぱい触りまくるぞ」

　ハリーが言った。マリーは飛び起きて、彼の顔を両手で押し潰した。

「こんなところで寝てたら風邪ひくぜ？」

　顔を潰されて嘴のように尖らせた口でハリーが言った。

　おっぱい？　マリーは今さらのように気付いて、自分の胸を見た。そこは大きく膨らんでいる。すると、眠り込んでからさほど時間は経っていないのだろうか。ポケットをまさぐり、彼女はぎょっとした。立ち上がって他のポケットを引っくり返し、それから辺りも見回すが、探し物は見つからない。酔いはすっかりさめていた。マリーは急いで居酒屋に駆け戻った。扉を開ければ主人と蜥蜴男が、怪訝そうな顔を彼女に向けてくる。

「飲み直しに来たのか？」

　蜥蜴男が言った。マリーは首を振り、自分が座っていた席の周りを探すが、やはり何もない。彼女は主人に目を向けたずねた。

「懐中時計を落としたみたいなの」

　主人は蜥蜴男に目を向けた。

「いや、俺は気付かなかったな」

　蜥蜴男は首を振って言った。マリーは束の間考え込んで、再び主人にたずねた。

「私が出て行ってから、どのくらい経ちました？」

「さて、一時間かそこらじゃねえか？」

　主人は首をひねって答えた。それを聞いて、マリーは愕然とした。大人でいられる時間は、それほど長くはないはずだ。彼女は二人に礼を言って、とぼとぼと店を後にした。店の外では心配顔のハリーとジローが待っていた。

「どうしよう」マリーは言った。「懐中時計、なくしちゃったみたい」