第八話 逃亡
Side...yukiya
どどっ、どどっ、という妙な音と揺れで、俺は目を覚ました。
「…?」
小刻みに部屋全体が揺れている。部屋の外からは、何かの足音のようなものが聞こえていた。
「……」
俺は慎重に襖を開けた。降り注ぐ朝日に、目を細めた瞬間。
「!!?」
ものすごい勢いで駆けてきた大きな影が、部屋の前で甲高い鳴き声とともに砂埃を巻き上げる。
「う、馬…?」
毛並みの綺麗な茶色い馬が、その背中に久慈川を乗せていた。縁側に前足を乗り上げるぎりぎりのところで、行儀よく止まっている。
「おはよう雪弥!今日は天気がいいな!!」
朝日に負けぬほど眩しい笑顔で、久慈川は馬の上から俺に手を振った。
「?…どうした、雪弥」
俺は口を開けたまま、ぽかんと久慈川を見る。呆れて言葉も出ないが、調子の良い彼女を見ていると安心した。
「ふっ、ははっ」
「?」
安心と同時におかしくなって、俺は思わず吹き出した。久慈川が首をかしげる。
「なぜ笑っているのだ」
「いや…」
腹を抱えながら視線を上げ、朝日に照らされる久慈川の姿を仰ぐ。長い黒髪が、陽の光を反射しながら靡いていた。
「おはよう、思季」
ほんの気まぐれで、名前を呼んでみる。久慈川は目を輝かせ、俺の予想通りの表情をした。
「雪弥…!」
濁りのない、花開くような笑顔。
昨日、片鱗を見せた彼女の後悔はどのくらい拭えたのだろうか。罪の意識に囚われながら強がる彼女に、俺がしてやれることは何だろう。
「思季様!庭で馬を走らせないでください
!屋敷が揺れています!!」
比鷹が叫びながら縁側に飛び出してくる。
「すまんすまん、つい走りたくなってな」
苦笑いをしながら、久慈川は慣れた様子で馬から降りた。
「君も乗ってみるか?」
俺を見上げて、彼女が手を差し伸べてくる。俺は首を振った。
「この足じゃ乗れない」
足についた鎖を、大げさに鳴らしてみせる。
「そうだったな、今外してやる」
「は?いいのかよ」
久慈川は胸元から小さな鍵を取り出した。
「良いわけありません!!」
屈んで俺の足に触れかけた彼女の手から、形相で走ってきた比鷹が鍵を取り上げる。
「危険すぎます!」
「何を言っている。レオンは行儀がいい、雪弥を振り落としたりはしないぞ」
「馬の話ではありません!!」
比鷹もつくづく苦労性らしい。俺はため息を吐きながら、隣で大人しくしている馬を撫でた。
「…おまえ、レオンっていうのか」
俺の手のひらに擦り寄ってきた馬は、名前を呼ぶと軽く頬を舐めてくる。
「いい名前だろう。獅子という意味の外国語だ!」
久慈川は自慢げにレオンの顔を見上げた。レオンは彼女にも頬ずりをする。
「へぇ…」
馬に獅子という名をつけたのか。相変わらず訳が分からないが、馬はその名を気に入っているようだ。尻尾を大きく振りながら、久慈川と戯れている。
「そうだ雪弥、一緒に朝食を食べよう!」
「……」
笑顔で俺に手を差し伸べる彼女の後ろで、比鷹が俺を睨みつけていた。
「いや、俺は部屋で食べる」
俺は二人から目をそらし、鎖を引きずりながら部屋に戻る。
「そうか…」
後ろ手に襖を閉める瞬間、僅かに俯いた久慈川の顔が見えた。この女に"控えめ"などという言葉は似合わない。しかし、何もかもが強引なわけでもない。
「……」
義手をつけて、それで俺が久慈川を許せば、この時間は終わるのだろうか。久慈川はそれでいいのだろうか。
「くそ…」
なぜ俺が、こんなに悩まされなければならないのだろう。全てあの女のせいだ。好きだと、愛しいと言いながら、あいつは唐突に距離をとる。
まるで、自分で決めた一線を、超えまいとしているように。
「───……」
夕暮れ、街を宵闇に染めていく空。風が、ゆっくりと雲を運んでいく。
目を覚ますと、俺は縁側で仰向けに寝転んでいた。
「…七依?」
誰かが右腕を枕にしている。そんな手の痺れを感じながら、俺は首をひねった。
(七依じゃない!?)
隣で寝息を立てていた人物に、俺は目を見開いた。寝起きの頭で必死に考える。
今、俺は久慈川の屋敷にいて、義手をつけられて、朝起きたら馬がいて、朝食をひとりで食べ、昼食も、ひとりで食べようとして…。
『───雪弥!今日の昼食は大福だぞ!!』
大量の大福を持ってきた久慈川と二人で、縁側で昼食をとった。
(そうだった…)
その大福が美味しすぎてつい食べ過ぎ、腹を押さえながら横になったところまでしか記憶がない。どうやらそのまま眠ったようだ。
「ん…」
腕の上で、久慈川がもぞもぞと動く。眉間にしわを寄せて、彼女は体を震わせた。真冬に縁側で昼寝など、寒いに決まっている。
俺はため息をつきながら、右手で彼女の頭を抱いた。別にこいつを温めてやろうとか考えたわけではなく、俺も寒かったから暖を取ろうとしただけだ。
そっと体を寄せて、目を閉じる。起こして暖かい部屋へ行けと言うべきだろうが、俺はただ黙って久慈川を抱きしめていた。
温かい体、甘い香り、穏やかな寝息、白い肌。無意識に、俺は彼女に唇を重ねていた。五感の全てで彼女を感じていたかった。
いつの間に、俺はこんなに…。
「───…ユキちゃん、ユキちゃん!」
「!」
どこからか、小さな声が俺を呼んでいる。俺は首をひねって辺りを見渡した。
(…七依!)
足音を全く立てずに、七依が廊下を走ってくる。仕事用の黒い装束をまとっていて、目を凝らさないと見えなかった。
「助けに来たよ」
「七依、どうやって屋敷の中に…」
「僕にそれ聞く?…まぁいいや、それより裏に回って、心くんがいるから」
七依は俺の隣に屈みこんで、足枷の鍵穴に針金を通す。ものの数秒で、両足を繋いでいた枷が取れた。
「取れたよ、行って」
小声で告げると、彼女はすぐに立ち上がる。
「おまえは」
「まだする事があるんだ」
「?」
「はやく」
屋敷の裏手を指差して、七依は踵を返した。
(…する事?)
久慈川を気に留めないと言うことは、俺の代わりに殺しに来たわけではないのだろう。
「……」
七依が廊下を曲がって姿を消す。俺は久慈川を起こさないようにゆっくり立ち上がった。
このままここを離れれば、俺はこの屋敷を抜け出せる。きっと、もう二度と来ることはない。
二度も失敗した俺に、久慈川暗殺の依頼を受ける資格はない。顔を見ることもなくなるだろう。
「…っ」
感傷に浸っている時間はなかった。俺は気配を殺して走り出す。
そして、角を曲がる寸前で、思わず振り返ってしまった。
「!!」
夜の闇に慣れてきた目が、確実に久慈川を捉える。縁側に立ち、俺を見つめる彼女を。
「……」
俺を追おうとしないその目は、ただ優しく、精一杯微笑んでいた。心の中が明け透けで、愛しくて離したくないと、今にも手を伸ばしてしまいそうだと嘆いているのがすぐ分かった。
それでも、早く行けとでも言うように、久慈川はそっと目を伏せる。
「っ…」
振り返らなければ良かった。
俺は何も言わずに彼女に背を向け、屋敷の裏手に回った。
「ユキ!」
塀の上で待っていた心紅朗が、俺に向かって手を差し伸べる。俺は右手を伸ばして彼の手を取った。
「よっ…と」
力強い腕が、すばやく俺の体を引き上げる。
「七依は?」
「あいつはここで盗むもんがあるらしい。行くぞ、ユキ」
「盗むもの…?」
冷えた地面を走りながら、俺は久慈川の大きな屋敷を仰いだ。
七依は花室さんに隠密行動を教え込まれている。久慈川や比鷹に見つからずに動くことは容易だろう。
「…悪い、巻き込んで」
「おまえが無事ならそれでいい」
俯く俺の肩に、心紅朗は優しく手を置く。顔を上げると、彼はいつも通りの爽やかな笑顔を浮かべていた。
「ありがとう……」
始まったばかりの夜長に、見慣れた街並みが溶け込んでいく。重たいだけの左腕が、縋るように後ろへ靡いては項垂れ、何度もそれを繰り返しながら揺れていた。