第五話 真昼
Side...yukiya
「───ん…」
目を覚ましたのは、知らない部屋だった。自分の部屋でも、心紅朗や七依の部屋でもない。
(どこだ…)
壁際に敷かれた布団の上で、俺は寝かされていた。家の布団よりかなり高級品だ。
俺は慎重に部屋の匂いを嗅いだ。微かにあの女の香りがする。
体を起こそうとすると、重たい金属音がした。右の手首が鎖で壁に繋がれている。
鎖を引っ張りながらなんとか膝立ちになり、部屋の中を見渡した。おそらくこの場所は…。
「───起きたか、マイエンジェル!」
勢いよく襖が開く。現れたのは予想通りの人物だった。
「久慈川…」
俺が睨み上げると、彼女は満足そうに口の端を持ち上げた。
「明るいところで見るとより一層美しい」
布団の上に片膝をついて、指先で俺の頬を撫でる。
「ここは」
「私の屋敷だ」
開け放たれた襖から、手入れの行き届いた広い庭が見える。さすがは貿易商の娘だ。
「俺をどうする気だ」
壁に繋がれた片腕に力を込めて、俺は思い切り久慈川を睨んだ。
「縛り付けて私だけのものにしたいと思っているが」
今まさにこの状況がそれだ。そうじゃなくて俺はその先を聞きたいのだ。
「…何故」
しかし、面倒だから理由を聞いてみた。
「言っただろう、君が好きだと」
「どこが」
「全てが愛おしいが敢えて言うなら…」
そう言って、彼女は俺の爪先から頭へ視線を這わせる。
「その容姿!!」
そして即答しやがった。俺は呆れて何も言う気にならなかった。
その時、部屋に近づいてくる足音が聞こえた。
「───思季様」
廊下から、細身で背の高い男が現れる。高そうな黒い袴を纏っていた。
「おぉ、比鷹」
「お下がりください、その男は危険です」
比鷹と呼ばれたその男は、即座に俺と久慈川の間に割って入る。
「そうだ、俺に近づくな」
言葉遣いから察するに、彼は久慈川の護衛か何かだろう。俺を警戒するのは当然のこと。
俺もいい加減この女に疲れてきたところだ、丁度いい。
「殺し屋を家に置くなど、正気ですか!」
「頭おかしいだろ、俺はお前を殺そうとしたんだ」
「そうですよ、今すぐ殺しましょう!!」
少し過激に思えるが、言っていることは最もだ。
「なぜ二人が意気投合しているのだ…」
久慈川は訝しげに首を傾げ、俺たち二人を見る。
「していません。重ねて言いますがこの男は危険です、殺しましょう」
「マイエンジェルは危険などではない」
今度は比鷹と久慈川が睨み合った。
「なんだ、その…まい、えんぜ…る?っていうのは」
俺は、昨晩から気になっていたことをぽつりと口に出した。
「我が天使、外国の言葉だ。大切な人に愛情を込めてこう呼ぶ」
「……」
つまり、久慈川のそれに俺が当てはまっているということか。こいつの性癖は理解できる気がしない。
「…さて、そろそろ本題に入ろうか」
「?」
本題、そんなものがあったのか。今までの茶番はなんだったのだろう。
「悪いが君にはもう一眠りしてもらう」
比鷹を押しのけた久慈川が、再び俺の前に跪く。そして、指先で俺の顎を持ち上げた。
「なに───んっ…」
言葉を紡ぎかけた唇が、彼女の唇に塞がれる。驚いている暇もなく、口の中に舌を入れられた。
「っ、ぁ…!?」
久慈川の舌とともに、何か固い石ころのようなものが口に押し込まれる。とっさに吐き出そうと口を離すも、後頭部を抑えられて再び口付けられた。
「んぐっ…」
ごくりと喉を鳴らし、俺は自分と久慈川の唾液、そしておそらく固形の薬であろうものを飲み込んだ。
(まずい、飲んだ…!!)
久慈川の唇が、糸を引きながら離れていく。彼女は満足げに、口の端に残った唾液を舐め取った。
その妖艶な仕草が、ぼやけ始める。視界が曇り、体がふらついた。
同時に、目の前で久慈川の体もぐらりと揺れる。
「思季様!?」
倒れる彼女の体を、比鷹が焦った様子で受け止めた。
「どうされたのですか!?」
「ずっと口の中に入れていたから…薬が少し溶けていた……」
「なっ、なぜ吐き出さなかったのです!」
「馬鹿者。愛しのマイエンジェルの唾液を…吐き、出せるのもか…」
会話もだんだん耳に入らなくなる。しかし、もう聞く必要もないだろう。
…この女は、頭がおかしい。
できれば目覚めた時、こいつの顔を見なくて済むようにと、ただそれだけを願った。