第三話 拠所
Side...yukiya
一ヶ月ほど、仕事が入らない暇な日々が続いた。あまり珍しいことではなく、休暇だと思って日々を剣術の鍛錬に費やした。
起きて、稽古をして、腹ごしらえをして、日暮れとともに寝る。そんな日々だった。
七依には「おじいさんみたい」と言われ、心紅朗には一緒に茶屋で働かないかと誘われた。その誘いは左腕が無い俺には難しいと言って断った。
今日も変わらず、夕暮れとともに食事を済ませて布団を敷く。
七依も心紅朗も、まだ帰っていないらしい。壁越しに物音が全くしない静かな長屋で、俺はゆっくりと瞼を下ろした。
夢の中で、俺は闇夜の街にひとり立っていた。もう何度目か分からない悪夢だ。
遠くに、あの女が立っている。短く切りそろえた髪、白いうなじ、華奢な体。
振り返って、俺の片腕を掲げた彼女が言葉を紡ぐ。くぐもった音で何を言っているか分からない。俺はただ手を伸ばす。二度とかえらない左腕に。
「───雪弥」
「!!」
不意に、聞き慣れた低い声が俺を夢から覚ます。
「まだ戌の刻だというのに、君は幼子かい?」
「かっ…花室さん!」
俺は飛び起きてその場に正座した。
「ご無沙汰しています」
「うん。久しぶりだね」
花室さんは相変わらず人当たりの良さそうな笑顔を浮かべる。高そうな黒い着物、足元の派手な花模様がよく似合う彼は、俺たち三人の雇い主。
「君に依頼だよ」
「……」
俺は黙って続きを待つ。花室さんは形のいい唇で、標的の名前を告げた。
「久慈川 思季。一週間以内にやれ」
その名前を聞いた瞬間、俺は目を見開いた。きっと、耳を塞いでいても口の動きだけで分かってしまっただろう。
「久慈川…」
この五年間、その名前を忘れたことはない。
「江戸から帰ってきたらしい。再び依頼があった…できるか?」
花室さんが俺の瞳の奥を覗くように目を細めた。もちろん、俺の答えは決まっている。
「やります」
悔しさも、痛みも、その日のために飲み込んだ。あの女を、殺す日のために。
「そうか、ではこれを」
そう言って、花室さんは俺の目の前に一振りの太刀を置いた。
「これは…」
「裂海という。無名の刀匠が打ったものだが、雪弥に合うと思う」
俺はゆっくりとその刀を持ち上げる。柄を握り、鞘から刀身を引き抜いた。
「……」
蝋燭の小さな炎に照らされて、刃文がくっきりと浮かび上がる。丁寧に研がれた刃には綻びひとつ見当たらない。
「片腕をなくして、君は短刀から太刀に持ち替えただろう。そんななまくら刀より、これを使ったほうがいい」
「…ありがとうございます!」
俺は刀を鞘に収め、深々と頭を下げた。
「雪弥」
優しい声とともに、花室さんが俺の頭に手を置く。顔を上げると、優しく髪を撫でてくれた。
「依頼は失敗してもいい。気負わずに行って来なさい」
「……」
「生きて帰っておいで」
行く宛を失っていた俺たちに、花室さんは居場所をくれた。幾人もの命を摘み取って生きていく俺たちを、この人だけが肯定してくれる。
戦が終わり、刀の時代が終わり、それでも俺たちは闇に紛れて刀を振るう。
「…はい」
彼が、生きる力をくれたから。