第一話 左腕
───ぼとり。
その瞬間の嫌な音を、今でも夢で思い出す。
血しぶきをあげながら肉塊が地面に落ちる音。
自分の一部が、自分から離れていく感覚。
俺の片腕。
あの日は、よく晴れていた。
遮るもののない月明かりが、夕暮れよりも鮮明に真夜中の街を照らしていた。
殺しには向かない夜だ。
俺はそんなことを思いながら、標的を待っていた。
「…!」
風が草を揺らす音に混じって、コツコツと足音が聞こえてくる。俺は建物の屋根にうつ伏せ、そっと顔を出して様子を伺った。
宵闇の中から、袴を纏った女が一人、相変わらず訳の分からない足音をさせながらこちらへ歩いてくる。
履物が草履ではないのだ。固そうな音を立て、爪先の光沢が月明かりを反射している。
俺は今日まで二週間に渡り標的を監視し、彼女のことはほぼ把握した。あの履物は海の外から渡来したものだ。彼女の父親は貿易商で、外の国から食べ物や服などを買っている。
このあいだ見かけた新政府軍の連中も、洋風の格好をしていた。
「………」
足音が、俺が身を隠している建物の前を通り過ぎる。その時強い風が吹いて、彼女の袂を揺らした。
左腕の袖が不自然に大きく揺れる。この女には、左腕がないのだ。
「っ───」
俺は屋根から飛び降り、女の背後に着地した。前下がりに切られた髪、白いうなじを狙って左手で短刀を構える。
「!?」
女が俺の気配に気づいて振り向く。もう俺の剣は彼女の間近に迫っていた。
キィン、と耳障りの悪い金属音が響く。瞬時に腰から刀を抜いた女が、俺の一撃を受け止めた。
攻撃が受け止められるのは予想していた。彼女は剣の道場に通っていて腕が立つ。俺は右手でもう一本の短刀を引き抜き、彼女の首をめがけて突き出す。左腕のない彼女に、この攻撃を避ける術はない。
「…!?」
刹那、女の袖口から左腕が生え、俺の右腕を捻り上げた。
「なっ…!?」
その時、俺は完全に油断していた。彼女に左腕はないものだと思っていた。欺かれていたことに今更気付いてももう遅い。
「っ、ぁぁぁああああああ!!!」
鮮血が舞い、俺の左腕は女の太刀に斬り落とされた。
一気に体の力が抜け、地面に倒れ伏す俺の頭を、女の固い履物が踏みつける。
そんな頭の痛みなど全く感じないほど、左肩から全身に広がる激痛が意識を遠のかせる。
「くそ、女…」
「口の悪い小僧だ。しかし、なかなか綺麗な顔をしているな」
それは俺の顔面を踏みつけながら言うことか、そう言ってやりたいがもう声が出そうにない。
「貴様が私を見ていたことは知っていた。だからここ数日、左腕が無いふりをしていたのだ」
「……っ」
「殺し屋ごときに始末される気はないのでな」
女は俺の頭から足を下ろし、刀を鞘に収めた。そして何事もなかったかのように、さっきまでと同じ歩調で去っていく。
赤黒く濁っていく視界、彼女の足音も何もかも、すぐに感じなくなった。