結婚式前夜
僕は、ビニール袋から、ビールを取り出すと、プルタブをあけ、一口含む。
特有の苦味が口に広がる。
そして、それと同時にアルコールが体中にまわり、体温が少し上昇する。
幾分温かくなってきたとは言え、まだまだ夜は肌寒い。
だから、これぐらいがちょうどいい。
僕は、もう一口口に含むと、缶を置き、空を見上げる。
都会の光に邪魔されながらも、星は鈍く輝いている。
だけど、それでも、僕には十分だった。
いや、むしろ、それがぴったりだと思った。
田舎の綺麗な、それこそ澄み切った星空は、僕には不釣合いだ。
汚れきったこの身をした僕には。
僕は、ここまで来るまでに、ずいぶん汚い事をした。
友を切り捨て、媚を売り、そして・・・
あらゆるものを騙して、ここまで来た。
別に、今の僕はえらくもなんともない。
それこそ、たんなるしがない会社員でしかない。
だけど・・・
本当なら、僕はその会社員にすらなれなかっただろう。
僕は、いつも手抜きで生きてきた。
何かをまじめに成し遂げたことなどなかった。
大学も、偽者の自分を担任の前で演じて見せて、それこそまじめな生徒のふりをして、推薦枠を手にした。
大学に行ってからも、それは変わらない。
適当に、大学に行って、気分が乗らないときは休んで、その後、適当に知り合いからノートを写させてもらっていた。
バイトもしなかった。
比較的裕福な家だから、その必要がなかったのもある。
だけど、時間があると言うのに僕はしなかった。
ただただ、惰性で行き続けた。
そして、就職もそう。
教授のコネで入れてもらった。
媚を売って、手に入れたものだった。
僕個人として、努力した事はなかった。
そう、一度として。
そして、今もそう。
なにも、変わらない。
僕は、惰性で行き続け、運だけで、こうして生きている。
明日、僕は結婚する。
この結婚もまた、惰性。
僕の妻となる人。
その人が敷いたレールの上を歩くだけ。
あらゆる準備は彼女がした。
告白の言葉も、プロポーズの言葉も。
何もかもが彼女が準備した。
すべてを彼女が準備したのだ。
僕は何もしてない。
努力なんて言葉、僕には必要ないから。
「ここにいたんだ」
不意に声がした。
もちろん、誰かはわかる。
僕の妻となる人だ。
「あぁ。独身最後の日だからな。一人で宴会でもしようと思ってさ」
その彼女に対して、僕は、戯言で返す。
いつもいつも、そうだった。
僕は、彼女と真正面から向き合うことはなかった。
結婚にそんなもの、必要ないから。
結婚と恋愛は別物。
同じように考えてはいけない。
お互い、踏み込んではいけないものがある。
特に、夫婦となるなら。
「そう。私も一緒していいかしら?」
彼女もそれをわかっているのだろう。
あえて何も言わず、そういうと僕の隣に腰掛ける。
それに対して、なんら文句言うことなくうなづくだけ。
身体の距離は近いけど、心は果てしなく遠い。
仮面夫婦。
きっと僕たちの関係を表すならば、そうなるだろう。
「う〜ん。外で飲むビールも格別ねぇ」
彼女は、隣に座り、僕が買い込んだビールのひとつを開けて飲むと、気持ちよさそうにそういった。
その姿は、僕がよく見知った彼女の姿だった。
僕の前で、彼女は常に奔放に振舞って見せる。
他の人間の前では、それこそ淑女然としているくせに。
まぁ、そうせざるを得ない状況だからとも言えないでもないが。
彼女は奔放に振舞うことを許されていなかった。
常に、淑女でなくてはならなかった。
上流階級の人間として。
そう、僕の妻となる人は、いわゆるお嬢様というやつだ。
そして、僕は、その逆でどこにでもいるような一般庶民だった。
比較的裕福だとは言ったが、それはあくまでも庶民レベルの話でだ。
彼女たちのような上流階級の人間とは、雲泥の差がある。
だから、もちろん、問題も浮き上がった。
いくら、綺麗事を言ったところで、やはり身分の差がある。
特に向こう側は認めなかった。
僕と彼女の関係を。
まぁ、僕自身も認めたくはなかったが。
もとより、彼女が無理やり、そうしただけで、僕の意思は何一つ含まれていなかった。
僕自身、何よりも面倒ごとは嫌いだから。
惰性で生きてきた。
だから、面倒ごとに巻き込まれることに慣れていないし、慣れたくもなかった。
だというのに、わざわざ、そんな中に飛び込むわけがない。
実際問題、今でも僕は、この結婚がなしになってもかまわない。
彼女がそれを望むのだったら、僕は喜んで、白紙に戻す。
いくら、なんとか彼女が説得したと言っても、順風満帆にいけるとは到底思えない。
確実に、大嵐を常に警戒しないといけなくなるだろう。
ただ、こうして、僕が彼女といるのは、あくまでも、単なる責任でしかない。
僕と彼女は大人だ。
男と女の関係になった事はいくらでもある。
もちろん、責任と言ったが、子供ができたわけじゃない。
避妊に関しては、しっかりとしておいた。
欲しいわけでもないのに、作るわけにはいかない。
子供だって、つらいだろう。
本当の意味で、望まれて生まれきてた子供ではないだなんて。
だから、そんな事はしたくないから、きっちりとしていた。
僕が言いたい責任はそれではない。
僕は、彼女を抱いた。
それに対する責任だ。
もちろん、抱いたぐらいで責任を感じる必要性はない。
もし、そんなものを考えなければいけないのならば、いったいどれだけの夫婦ができるのだろう?
それよりも、現代は、性に関しては、非常に問題意識が低い。
だから、小学生で、そういう関係になっている者だっている。
だというのに、もし、それを考えろと言うなれば、小学生にして結婚を考えろと言っているようなものだ。
はっきり言って、むちゃくちゃだ。
そんなふうに、考えさせるほうがおかしい。
だけど、僕自身は、そう考えていた。
はっきり言おう。
僕は、そういう行為に全くと言っていいほど興味がない。
むしろ、嫌悪感を抱いていた。
だから、必然的にそういう行為を、したいとは思わなかった。
それこそ、子供を作るとき以外には。
だけど、僕は、それを破ってしまった。
もちろん、僕が望んでしたわけではない。
彼女に押し倒された結果、そうなったわけだ。
けれど、経緯はどうであれ、僕が彼女を抱いたことには変わりない。
だから、それ相応の責任は取らないといけない。
そして、その結果として、これなのだ。
結婚なのだ。
僕は、彼女が望むように愛する。
別に嫌いではない。
むしろ、好きな部類に入る人だ。
愛する事に支障はない。
いくらでも、愛せる自信はある。
「ねぇ?貴方は何を見ているの?」
残っていたビールを一気に飲み干していると、横から彼女が問いかけてきた。
その声は、二人きりの時には珍しく、淑やかなものだった。
もしかすると、これが彼女の素なのかもしれない。
わけもなく、そう思った。
「何も見てないさ。俺には何も見えない。何も見ないで、見ようとしないで、逃げてばかりいる」
そして、僕は、彼女の問いに対して答えた。
普段なら、茶化すだろう。
だけど、なぜか、真摯な言葉で返していた。
「そう」
その答えを聞いた、彼女は声を落とす。
その真意はわからない。
ただ、芳しいものでないのは、間違いないだろう。
いつも思うが、彼女は常に僕の様子を見ている。
心配そうに僕の事を見ている。
それこそ、最初に会ったとき、彼女は初対面の僕に対して。
「何をそんなに苦しんでいるんですか?」
そうたずねてきたのだ。
箱入り娘のせいなのか、どうかは知らないが、ぶしつけな問いかけだった。
僕自身、あきれたものだった。
まぁ、何度も話しているうちに、それは消えていったが。
うっとおしくはなったが。
それでも、嫌いにはなれなかった。
「さぁ、そろそろ戻ろうか?主役二人がいつまでも、酒盛りして、当日二日酔いになってたら、元も子もないし」
僕は、飲み干した缶をすべて、ビニール袋につっこむと、立ち上がり、彼女に手を差し出す。
「う、うん」
彼女はその手をとり、立ち上がる。
そして、僕たちはそのまま夜道を歩く。
暗い暗い夜道。
途中にあったゴミ箱に、空き缶を捨てる。
そばには、噴水がある。
いまだ噴出し続ける水は、淡いライトの光を浴びて、きらきらと光る。
「ねぇ。貴方は、いつまで、昔の恋人を思い続けるの?いつまでも、罪を背負い続けるの?」
それに見惚れていると、彼女が僕にまた、問いかけをして来た。
けれど、内容は先ほど以上に深いものではあったが。
「貴方の親友に聞いた。貴方ってば、どんなに口をすっぱくしても、茶化してばっかりで本当の事を言ってくれないから」
彼女は、そういうと僕の隣まで歩み寄ると、僕と同じように噴水を眺める。
「ねぇ、いつまで苦しんでいるつもりなの?いつまで、自分を傷つけるつもりなの?」
そして、そう続けた。
その言葉は、僕の胸に一つ一つ突き刺さった。
悲しいほど強く突き刺さった。
そう、僕は、今なお罪を背負い続けている。
そして、その罪と言うのは・・・・
恋人を見殺しにした事だ。
僕は、一度、自分の恋人を見殺しにした。
心から愛していると言える人だった。
だけど、僕は、そんな恋人を見殺しにした。
あれは、高校の時だった。
彼女の母親は、夫、つまり彼女の父親の浮気で、心がぼろぼろになっていた。
精神が不安定で、ヒステリックを起こしていた。
僕もそれを知っていた。
彼女がおびえていることも。
もちろん、僕も心配で、相談には乗っていた。
誰よりも愛しい人だから。
だけど、僕の対応は真摯なものではなかった。
簡単に考えすぎていたのだ。
彼女の母親がどんどん追い込まれて行き、彼女はどんどんおびえていった。
僕に助けを求めて、僕の家に逃げさせてくれと言った事もあった。
だけど、僕は、それを・・・
『だめだよ。もう、お母さんには、お前しかいないんだから、ここで、お前までいなくなったら、お母さん本当に一人になってしまうだろう?』
断り、挙句の果てに、諭そうとしたのだ。
結局、彼女は、僕の言った事を聞いて、そのまま家にいた。
そして・・・
その日、彼女の母親に殺された。
もう、彼女の母親は娘の事がわからなくなっていた。
それどころか、彼女の事を、夫の愛人だと勘違いしたのだ。
そして、狂った彼女の母親は、泣いてとめようとする彼女をめったざしにした。
僕が、彼女の電話を聞いて、彼女の家に着いたときは、すでに彼女は虫の息だった。
そして、彼女は体中を血だらけにして、恨みがましい目で、僕を見て
『うそつき』
そう言って、死んだ。
それは、あまりにもグロテスクな世界だった。
子供が目にするには、あまりにも生臭い世界だった。
まだまだ、青臭い子供が見るには、あまりにも残酷だった。
だから僕も発狂した。
狂ったように笑い続け、彼女の母親は殴り倒した。
何もかもが壊れてしまった。
自分のせいで。
自分の浅慮のせいで。
友はみな、僕に同情してくれた。
僕に慰めの言葉ばかりかけてくれた。
誰一人として、僕を悪く言うものはいなかった。
誰も僕に罰を与えてくれなかった。
だから・・・
だから、僕は自分自身で罪を科した。
何も望まないようにした。
何も望めないようにした。
今の僕は何も望めない。
いまさらだから、はっきり言おう。
僕は、妻となる彼女の事を愛している。
深く深く愛している。
でも、だからこそ、僕は望まない。
望めない。
それが、罰だから。
恋人を守れなかったおろかな男への罰だから。
「貴方がいまだに昔の恋人の事を引きずっているのは、わかってる。私はそれを分かった上で、付き合っていたわけだから。でも、これ以上は無理。もうこれ以上、貴方がぼろぼろになる姿は見ていたくない。確かに、貴方は罰を受けるべき罪を犯した。だけど、それから、もう何年が立つと思うの?10年よ。10年も経ったというのよ。もう、これ以上、苦しむ必要はない。貴方は許されていいのよ。貴方が自分に罰を科したなら、私がその罰を解く。貴方がどれほどまで、苦しんで、傷ついてきたのかは、知っているから。だから、もう、許してあげよう?」
彼女は、そういうと、僕を抱きしめる。
女性にしては、やや高めの身長。
けれど、平均的男性の身長である僕よりかは、小さく、その姿はやはりどこかこっけいに見える。
だけど、僕には、それがそうとは思えなかった。
むしろ、包み込まれているように錯覚してしまった。
いや、それは錯覚なんかではないのだろう。
現実的に、彼女は僕の事を・・・
僕の心を包み込んでくれる。
僕の罪を許すかのように。
そうだ。
何事にも、終わりはくる。
こんなふうに罪を背負い続ける日も終わらなくちゃいけないんだ。
僕が犯した罪は、一生消えないだろう。
だけど、それでも、許される時が、来てもいい。
これは、他の誰でもない僕が背負った罪。
だから、他の誰でもない僕が許さなくてはいけない罪。
これが見殺しにしてしまった彼女が刻み付けたものなら、違ったかもしれない。
だけど、彼女は、何も残さなかった。
ただ
『うそつき』
その言葉を残しただけ。
自分勝手だけど、もう疲れた。
もう、彼女はどこにもいない。
どんなに背負ったところで、何も変わらない。
ならば、いいだろう。
勝手に許しても。
「そうだね。許してやるか。いつまでも、どこまでも、何も変わらない。なら、やめてしまったほうがいいか。もとより、俺は面倒な事は嫌いだからさ」
そして、僕は彼女の言葉に答えた。
それを聞いた彼女は抱きしめる力を強くした。
僕は、それを享受する。
なんだか、それがおかしい。
普通なら、男女逆だと思う。
だけど・・・
それも、いいだろう。
彼女は僕の前でだけ奔放に振舞う。
なら、僕だって、彼女の前だけ、甘えてみるのもいいだろう。
それぐらいありだろう。
まぁ、落ちが面倒になってご都合主義になった奴ですww