29,現実……【前編】
濃い灰色の地面が、ボクの姿をぼんやりと映し出している。かろうじて、髪が黒いと分かる程度に。表情など読み取れるはずもなく。
傘の中で考える。〔物語〕を、どうやって聞き出そうかと。
……見た目女子高生のボクのお願いなど、誰が聞いてくれる? そもそも、こんな場所に〔物語〕などあるのか?
「リーテ殿。何か、〔物語〕の心当たりは無いだろうか?」
「ありませんよ」
そんなもの、という言葉を飲み込む。こんな格好では、「ボク」が剥がれてしまいそうだ。
いや、既に手遅れかもしれない。ボク達の間で、雨の音だけがする。
『……この国は、大体の人が黒い髪らしい、ねぇ』
ミランダさんが呟く。黒紫の鍵は制服の中だ。
「はい。皆、形にはまった格好に、同じような髪や目の色です」
また、会話が途切れる。
やはり無理だ。でもここまで来てしまった。のこのこ帰る事も、ボクには出来ない。早く〔物語〕を見つけて帰らなければ。焦りがつのる。まだやって来て1時間も経たないというのに。
「……しかし」
次はミツキ君が話す番のようだ。
「この大雨だぞ? 傘も差している。何も、私まで黒髪黒目にしなくとも……」
「ここでは、人と違うという事だけで、謂れのない暴力を受けます。皆、違いのある人をいたぶって、自分が『普通』であるという確信を得ているんです。最低ですよね」
『リーテ』
ミランダさんが、諭すような声を出した。
『皆が皆、そういう訳じゃないさ。世界が違おうが、人間そんなに変わらないと思うんだがねぇ』
「自らの故郷を、悪く言うものではない……」
ふうん。綺麗事しか言わないよね、2人とも。ああ、〔主人公〕だからか。
2人がボクを呼ぶ。それは少し遠くで聞こえる。
「あなた達には分からない! 選ばれた、愛された、あなた達には! ボクは、この世界も、人も、嫌いだ……!」
『リーテ!』
「待つんだ、リーテ殿!」
何もかもを放り出して、駆ける。鍵が濡れた地面に落ちて、音を立てた。
走った。胸が苦しくなる程に。いや、胸は最初から痛かったかもしれない。
誰も居ない公園で、ブランコに腰掛ける。家出してきたみたいだ。全身ずぶ濡れで、寒かった。
やってしまった。
ボクの長い〔妄想〕は、とうとう終わってしまったのだ。「帰らなければ」なんて、何を考えていたのか。
ボクが居るのは、この世界。たとえどんなに辛くても。〔妄想〕で誤魔化したって。ボクが〔主人公〕でない事なんて、実はとっくに分かっている。
頬を、熱い液体が流れた。雨はとても冷たいはずなのに。
ボクはやがて、補導されるだろう。それまで、誰にも、見つかるものか。
歯を食いしばって、下を向いた。ボクの顔は、ブランコの下の水たまりでも見えない。ただ波紋が幾つもあるだけ。
色彩もない。ボクの顔は白で、髪は黒で、制服も黒だから。
しかしそこに綺麗な色がよぎって、顔を上げる。目の前に白い蝶が飛んでいた。薄い和紙で出来ているようだ。モノクロの世界の中で、何故かオーロラを纏ったように輝く。
あ、これ、〔妄想〕だ。
ありがたい。どうやら辛い思いはしなくて済むようだ。……それでも、どこか虚しいのだろうな。〔語り手の妄想〕はあまりに居心地が良すぎた。
紙の蝶が、付いてこい、とでも言うように瞬く。
ブランコから立ち上がった。ボクは結局、〔妄想〕せずにはいられないから。
黒い道路を、今度は歩く。雨音はどんどん大きくなっているようだ。視界は利かず、でも、オーロラのような煌めきは見える。
辿り着いたのは、日本屋敷だった。そこそこの大きさで、広い庭がある。……蝶は引き戸を通り抜けてしまった。ここに入れ、という事だろうか。
挨拶も無しに入り、玄関で靴を脱ぐ。随分と久しぶりだ。〔語り手の妄想〕では洋風の建物で寝泊まりしていたから。磨かれた床に水滴が落ちる。
紙の蝶が見当たらない。このお屋敷を探索すればいいのかと考えたところで、目の前に人が居ることに気がつく。
「おお、ずぶ濡れじゃの」
後ずさった。いつの間に。
ボクに声をかけたのは、和服姿のお爺さんだった。ここの住人で間違いはないだろう。
「わしは風呂を汲んでくる。お前さん、とりあえず入ってきなさい」
「え、いや」
「遠慮なさるな!」
強引なお爺さんだ。ボクの手を引いて、廊下を進んでいく。ペースに飲まれ、突っぱねる事が出来ない。
「着替えは……そうじゃの」
お爺さんは、懐から取り出した何かをボクの背中に貼る。すると服が一瞬で乾いた。
「わしは女子の着替えなど持っとらんし、せくはら、と言われても困るからの。その服でいいじゃろ」
「はあ……」
「驚かないのじゃな」
そう言うお爺さんは驚いているようだった。黄色くなった白目が見える。
「あなたはボクの〔妄想〕ですから」
「ははは! 何を言うのかね、ここは現実じゃよ!」
此奴を使ったのが悪かったかの。その言葉とともに、お爺さんの右手に紙の蝶が現れる。
ボクはそれどころではない。
何故ボクは〔妄想〕だと口にした?何故それを、目の前の人は否定する?
「ううむ……夢ではない事を驚かれるとは……」
お爺さんは、顎に右手を当てて考えこんでしまう。蝶が胡麻塩のような頭へと移り、数度羽を動かした。
「わしは少し、不思議な力が使えてのお。決して、お前さんが公園で寝こけている訳ではないぞ」
「…………」
こうはっきりと否定されては、ここが〔妄想〕でない事を認めねばなるまい。
「そして、お前さんも、不思議な力に振り回されとるようじゃの」
息を飲む。彼の言う事に、心当たりがあった。「魔力を、外に出す事が出来ない」体質。
「あなた、何なんですか……?」
その質問を遮るように、廊下の奥から電子音が鳴る。
「ほれほれ! 話は後じゃ、身体をあっためてきなさい! ばすたおるはここへ置いておくからの!」
風呂が沸いたようだ。ボクは脱衣所へと押し込まれてしまった。
その後、縁側に面した部屋へと案内される。ちゃぶ台の上には、牛乳瓶と湯飲みに注がれたお茶、菓子器に入った市販のチョコチップクッキーがあった。
梨子――いや、ボクには縁のない物だ。
ボクは、お茶が置かれている方の座布団へと座る。柔らかい感触が脚に伝わってきた。
風呂上がりでもないのに豪快に牛乳をあおったお爺さんは、こちらを見て眉を上げた。
「何じゃ、食べんのか?」
「結構です。それより、質問させて下さい」
答えを待たず、クッキーの上でくつろぐ紙の蝶を指差す。
「これは、何ですか」
「わしの……式神、と言えば分かるかの?」
お爺さんはおどける訳でもなく、神妙な顔で答える。
「あなたの目的は何ですか。妙なものを使ってわたしをおびき寄せて、世話を焼いて。監禁して身代金を要求するんですか? 残念でしたね。うちの親は答えてくれないと思いますよ」
「待った、待った! 何言っとるんじゃ!」
ちゃぶ台を、皺だらけの両手が叩いた。
「監禁するつもりなら、お前さんを鍵のない部屋に連れていく訳がないじゃろう!」
「あ……」
黄色くなった畳と、柄入りの和紙が貼られた障子で造られた部屋だ。横を向けば縁側と雨に晒される庭が見えるのだから、拉致監禁にこれほど不向きな場所もない。
お爺さんは、首を傾げて頭を掻く。困ったようにではあるが、笑みさえ浮かべて。
「参ったのお。まあ、このご時世じゃし、わしのやり方も不味かったかの……」
そこで、はたと、手を止めた。
「そもそも、名乗ってすらおらん!」
すまんかった、すまんかった、と、何度も言う。それから、ボクの手を取って、握手の形に手を握らせた。
「わしは神田 嘉じゃ。お前さんは、なんという?」
「リーテ……」
「りいてか。そうか。わしの事は、ヨシさんでもヨッシーでも好きに呼んでよいぞ」
ヨシさん……ヨッシー……ヨシミさんの顔に笑い皺が出来る。握手した手が軽く振られ、離れた。
ボクがまともに名乗っていない事を、指摘する気はないようだった。
「ヨシミさん。目的が身代金でないのなら、何故ボクをここへ連れてきたんですか」
彼は、自分の湯飲みへお茶を入れる。それも飲むらしい。
「年寄りのお節介、というやつかの」
「それで、あなたになんの得が?」
言うと、ヨシミさんは何故か高笑いを始めた。
「損得ではないのじゃが……強いて言うなら、話し相手ができるかのお。この雨では、誰も来られないじゃろ」
「話し相手……」
このお爺さん、こんな大きなお屋敷に独りで暮らしているのか。
「じゃから、りいての事を聞かせて欲しい。どうして、こんな大雨の日に……」
「嫌です」
言葉を待たず返答する。
「嫌かの?」
「はい」
「どうしても?」
「はい」
その後も、聞いてみたい、話せば楽になる、などと言って話を聞きたがった。
ボクが庭から外へ出てしまおうか、と考え始めるまでになって、ようやく諦めてくれる。
「そうか……残念じゃのう」
彼は口を尖らせた。悪戯に失敗した少年のようだ。
「あの、じゃあ、あなたの話を聞かせてくれませんか。不思議な力についても、知りたいです」
独り寂しく暮らすお爺さんにきつい言葉を浴びせた申し訳なさもあり、代替案を口にする。
「うーむ、仕方ないのお。力を得たきっかけでも話すかの」
ヨシミさんはお茶を飲み、クッキーをボクの方へと押しやった。
そういえば。いつの間にか、〔語り手〕であった時と同じ事をしている。
そうじゃの、お前さんと、歳の同じ頃か。交通事故で、生死の境をさ迷った。……それからじゃよ。人でないものが見えるようになったのは。
いつも橋の下にいる髪の長い女、河川敷で寛ぐ河童、公園の花に止まる羽根の生えた小さな人間。そういうのが、わしを見て話しかけてくるようになった。
最初は、目と耳と頭がおかしくなったのかと思ったの。そいで、母さんと父さんと、病院をあちこち巡った。
それでも原因は分からんかった。兄弟が多いわしの家は、治療費ですっかり傾いてしまっての。
それで、治ったと言ったのじゃ。医者の言う通り精神的なもので、皆が気にかけてくれたから、治ったと。
その日の夜は、お祝いじゃったの。
いつもより少し多い食器の間で、豆粒ほどの小僧どもがはしゃいでおった。
それからわしは、独りになってしまったのじゃ。家族に対しては、おかしくなった自分を隠した。見たものを正直に話すと学友は離れていき、松葉杖が外れる頃には、周りに誰も居なくなった。
踏んだり蹴ったり。泣きっ面に蜂。
ある時は世間の人を羨み、居るかも分からない神を恨んだ。またある時は、おかしな自分が怖くなって泣いた。
わしは……死のうと思った。7人兄弟の真ん中が、孤独なんぞに耐えられるわけもない。溺れようと川に向かった。
そうしたら、橋の下の女が言った。自分のような地縛霊になりたいのか、と。
河川敷の河童も言った。そこの川は流れが急で、死体がどこに行くか分かったもんじゃない、と。
わしは、それでようやく、今までまやかしだと思ってきたモノ達に、目を向けた。
向けて、話を聞いてみるとな。結構面白かったんじゃよ。皆長いことそこに居て、色んな事を見聞きしとって、その話の興味深いこと、興味深いこと。向こうも、誰にも気付かれず寂しかったのか、話し相手になってやると大層喜んでの。
公園の妖精にも、家に住む付喪神にも、その辺にいるモノ何にでも、話をせがんで、仲良くなっていった。そのうち、来れるモノは向こうからわしのいる所へ押しかけて来るまでに、のお。
そいで、色々なことを知った。不思議な力の使い方も、そのうちじゃの。
家族とは、お金を使わせた罪悪感で、少し距離が出来た。学校では不気味な奴として、遠巻きにされておった。
それでも、わしは、独りではなかったんじゃ。




