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おまえは だれだ

作者: つちふる

 


『番号札4番のかた、お入りいください』


 院長のアナウンスが流れると、それまでボンヤリと座っていた老人がもそりと立ち上がった。受付の横をへこへこと通り過ぎ、診察室の扉をスライドさせて奥へと入っていく。

 勇一は受付で渡された自分の番号札を見て首をかしげる。

 5番。勇一の診察はあの老人のあとだ。

 次に、待合室の正面にあるテレビで時刻を確認する。

 九時二十分。

 つまり、診察が始まってから二十分で三人の診察が終わっている計算だ。

 普通の町医者ならごく平均的な数字だろうけれど――

「……今日はやけに早くないか?」

 勇一は読み始めてまだ数ページの本を閉じてつぶやいた。

 

                        ※


 かかりつけの医者を選ぶときに、最もウェイトがおかれる条件は?

 医師の腕前。その人柄。医療設備の充実度。周りの評判。

 いや。

 結局のところ、距離だろう。

 よほどの藪医者でないかぎり、多くの場合 「いかに近いところにあるか」 が、最も大きなウェイトをしめる。

 勇一もご多分に漏れず、医療設備は充実しているが車で十分かかる 『戸波医院』でも、腕が良いと評判だけど隣町にある 『松崎内科・小児科医院』でもなく、徒歩四分で行ける 『田畑クリニック』 をかかりつけにしていた。

 今年で開業七年目になる田畑クリニックは、二つのことで有名だった。

 ひとつは、この辺りには珍しく院長が女性であること。

 田畑亜紀子。四十八歳。既婚。子供なし。くせのあるブラウンのショートヘアと、フランス人形のような大きな瞳が特徴で、若かりし頃は多くの異性から熱心なアプローチを受けていたらしい。…とは、本人談。実際、そうであったろうと納得できる顔立ちではある。

 もうひとつは、とんでもなく話好きということ。

 普通の町医者なら一人あたりの診察時間は十分未満、長くても十分を越えるかどうかといったところだが、田畑院長の診察時間は一人あたり十五分、下手をすると二十分を越えることさえある。

 よほど丁寧に診察をしているのかといえば、そんなことはない。診察時間そのものは町医者の平均か、あるいはそれより短いくらいだ。

 長いのは、そこから始まるコミュニケーションという名の無駄話である。

 最新の医療機器や新薬の開発状況といった、素人では理解がおいつかない専門分野から始まり、趣味の登山、開発したダイエット法、料理の失敗談、旦那の愚痴、親類縁者との不仲、苦かったり甘かったりする思い出話など、話題は多岐におよぶ。

 勇一たち患者一同は、適当に相づちを打ちつつも、どうにかして話を打ち切ることのできる魔法の言葉を考えているのだが、下手なことを言うとそれをきっかけにさらに話題が膨らみかねないため、うかつに口をはさめず、結局、彼女の気が済むまで話を聞かされることになるのだ。

 苦情。もちろん、ある。

 ただ、その苦情が彼女の新たな 『話題の種』 となるため、効果はない。

 我慢の限界に達した者は病院をかえることになるのだが、それでも大きな患者数減とならないのは、近くに別の病院が存在しないためだ。

 このように 『距離』 というのは―― とくに移動手段の限られたお年寄りには―― 病院選びの大きな条件となる。

「今日はずいぶんと早いねえ」

 隣に腰を掛けていた女性が、独り言よりも少し大きな声でつぶやく。いつもここで会っているような、初めて見るようなお年寄りだ。

 勇一は少し迷ってから答えた。

「そうですね。いつもなら、まだ一人目が終わるかどうかですよ」

「先生が替わりなすったかね」

「まさか」

 勇一は笑ってから、そういえば以前、研修医がここへ見学に来たときも模範的なスピードで患者を診ていたなと思い出す。

 ひょっとしたら、今日も研修医が来ているのかもしれない。だとすれば、迅速な診察にも納得できる。

 ……うん?

 ということは、普段の自分が無駄口を叩き過ぎているという自覚はあるのか。

 研修医を常駐させれば、彼女は理想的な町医者になれるかもしれない。何しろ腕は悪くないのだから。

 診察室のドアがスライドして、番号札4番の老人がへこへこと戻ってきた。

 六分と少し。理想的なペースだ。

 勇一は読まずじまいに終わった本をバッグにしまい、居住まいをただしてアナウンスをまつ。

『番号札5番のかた、お入り下さい』

 順番がきた。「今日は一日がかりね」 と妻にからかわれてきたのに、この分だと十時前に帰宅できてしまいそうだ。もちろん、いいことなのだけど。

 勇一は隣の老女に会釈をして席を立った。

 受付の前を通り、診察室のドアを軽くノックしてスライドさせる。

「失礼します」

 診察室は全体的に白っぽい、いかにも診察室らしい小部屋で、入ってすぐ目の前に置かれている患者用の丸イスと、院長の座る背もたれつきのイスだけが事務的な灰色をしていた。

「どうぞ」

 白衣を着た田畑院長はカルテをチェックしているらしく、こちらに背を向けたまま手しぐさで腰を掛けるようにうながす。

 勇一はバッグを手荷物用の台に置き、軽く頭を下げてから腰をおろした。

「先月の血液検査の結果が出てますよ」

 背中を向けたまま、院長が言う。

「ああ、はい」

 人は五十を過ぎると身体のあちこちに不具合が目立ち始めるようになるもので、勇一も昨年の健康診断でついにコレステロール値がひっかかてしまったのだ。以来、薬を服用しながら二ヶ月に一度の血液検査と、月に一度の診察を受けている。

「どうでした?」

 相変わらず背を向けたままの院長に聞く。その後ろ姿からの答えを待ちながら、勇一はふと彼女の髪型が変わっていることに気づいた。

 ブラウンのくせっ毛をアクセントにした見慣れたショートではなく、肩甲骨の下あたりまで伸びる、黒髪のストレートロングになっていたのだ。

 いわゆるイメチェンというやつか。

 伸ばした髪は色を染め直して、くせっ毛はパーマをかけて矯正したのだろう。

 こうしてみると、まるで別人だな。

 髪型ひとつでこうも印象が変わるものかと、勇一は驚く。

 診察時間の短縮も(もちろん、良いことだ)、このイメチェンと関係があるのだろうか。

 そんなことを考えて、思わず笑いそうになる。

「生活スタイル見直しました? 食習慣とか」

「え? あ、私ですか。そうですね…」

 唐突に質問をされ、勇一はあわてて答える。

「肉を減らして、なるべく魚と野菜を食べるようにしてます。それから、卵をひかえるようにしました」

「そう。卵は栄養素もたっぷり含まれているから、一日一個くらいなら良いと思うけど。うん。まあ、ひかえるに越したことはないか」

「あと、豆乳を飲んでます。善玉コレステロールを増やすらしいので」

「運動は?」

「ウォーキングを始めました。一日二十分程度ですけど、それでも体が軽くなった気がします」

「ああ、そう。……うんうん」

 院長はカルテを置くと、イスを回転させてようやく勇一のほうに向き直った。

「コレステロール値はだいぶ改善されてきてますね。なかなかいい感じです。もう少し様子をみて、この調子が続くようなら薬の服用を減らすことも検討しましょうか」

「本当ですか。それは良か――」

 安堵の笑みを浮かべて院長を見た勇一の表情が、そこで固まった。

 ……え?

「じゃあ、血圧を測かりますね。腕をだして」

 院長は血圧計を取り出すと、自分を凝視する勇一の左腕にカフを巻きつけ、ポンプで空気を入れていく。

 左腕がしめつけられていく感覚のなか、勇一は不躾なほどまじまじと彼女を観察する。

 二重まぶたの大きな目が、一重まぶたの切れ長の目に。

 筋の通った高い鼻が、平べったく横に広がる扇鼻に。

 艶のある赤い健康的な唇が、薄くて青白い唇に。

 ――違う。

 まったく違う。

 記憶にある見慣れた田畑院長の顔と、目の前で血圧計を見つめている顔が、まったく結びつかないのだ。

 整形か?

 とっさに思い浮かぶ単語。

 しかし、いくらなんでも変わりすぎだ。

 それに、仮に変われるのだとしても、後者から前者ならともかく、前者から後者への整形を望むとは思えない。

 ということは――

 ああ、臨時で頼んだ知り合いの医師か。

 勇一はいたって現実的な答えを導き出した。 

 髪型を見て別人のようだと驚いたが、何のことはない。

 本当に別人だったわけだ。

「上が122。下が82。下がちょっと高いけど、まあ、許容範囲ね。はい。じゃあ、胸の音を聞かせてください。シャツをめくって」

 言われるままにシャツをめくりあげる。聴診器の冷たい感触が胸に浸透してきた。

「大きく息を吸って。…はいて。もう一度吸って…」

何度か深呼吸を繰り返したあと、背中を向けさせられて同じことをする。

「…問題なしと。はい、診察は以上です。シャツをしまっていいですよ」

「はい」

 普段なら、ここからいつ終わるともしれないコミュニケーションという名のオシャベリが始まるのだけど、彼女にそんな様子はまるでなく、再びこちらに背を向けて今日の記録をパソコンに打ち込み始めている。

 勇一は慣れない沈黙に妙な居心地の悪さを覚えてしまい、どうにか間をつなごうと(いつもならありえないことだが)話題をさがして、この状況でもっとも自然なトピックを口にした。

「今日は、院長先生はお休みなんですね」

 それまでリズミカルにキーボートを叩いていた手を止めて、女医がこちらを振り返った。

「…はい?」

 返ってきた答えは、Yesの 『はい』 ではなく、Whatの 『はい?』 だった。

「何か急用でもできたんですか?」

「……えっと」

「珍しいですよね。こういうときって普通は休診にすると思うんですけど。代理のお医者さんを頼むなんて」

「いや、あのね」

「え、わりとあるんですか?」

「ないですよ。そんなの」

「ですよね」

「私だって、そんなことしたことないです」

「そうなんですか。そういえば、先生はどこで病院を開いているんですか?」

 女医は細い目をさらに細めて勇一を見つめ、次いで天井を見上げて、それから困ったような、怒ったような、あるいは可笑しくてたまらないといったような表情で 「ああ、そうか」 と勇一を見つめなおした。

「……かかりつけのお医者さんが、ほかにもあるんでしょ」

「え?」

「まあ、セカンドオピニオンも推奨されてるから、それも良いと思います」

 言いながら、女医は机の引き出しをあけて、一枚の用紙を取り出した。

 セカンドオピニオン? ほかのかかりつけ?

 何の話をしてるのだろう。

 戸惑う勇一に、女医は手にした用紙―― 病院を紹介する小さなパンフレット ―― を差し出した。

「ここは田畑クリニックですよ」

 当たり前のことを言い、それから左胸につけられたネームプレートを指でつまみあげて言った。


「院長は私。田畑亜紀子です」

 

 勇一はパンフレットとネームプレートを交互に見つめ、最後に女医の顔を凝視した。 


「……はい?」



 物の名前をど忘れしてしまい 「あれ」 「それ」 「これ」 で、その場を取り繕う。

 そんな場面が三十半ばあたりから徐々に増え始め、四十台でさらに増え、五十の声を聞いた今は、はっきりと 「ど忘れすることが増えたな」 と自覚するようになった。

 それは、しかし病的なものではなく、いわゆる年齢的なものであって、深刻な問題になることはなかったし、ときには苦笑まじりの冗談にさえしてきた。

 ただ。今日の出来事は、楽観主義の勇一も悩まざるをえなかった。

 なにしろ、よく知っているはずの医師の顔を、まったく別の顔と取り違えていたのだから。

 黒髪でストレートのロングヘア。一重まぶたの切れ長な目。平べったい鼻。薄く青白い唇。

 それが、田畑クリニック院長・田畑亜紀子だったのだ。

 しかし勇一が何度思い返してみても、これまで見てきた田畑院長の顔は、二重まぶたの大きな目、筋の通った高い鼻、健康的で艶のある(そして、一度話し始めたら止まらない)赤い唇の女性なのだ。

 あの場は彼女の勘ぐった推測を利用して 「ああ、もう一つの病院と間違えちゃいましたよ」 ということにしておいたが、もちろん嘘だ。

 勇一のかかりつけ病院は田畑クリニックしかない。

 いったい俺は、誰の顔と田畑院長の顔を入れ替えてしまったのだろう。

 これは 『程度の甚だしい勘違い』 ですむ問題だろうか。

 ひょっとして、認知症や健忘症といった病気の可能性もあるんじゃないか。近ごろ耳にする、若年性のアルツハイマーというやつだ。

 背中にぞくりとしたものを感じて、思わず肩をすくめる。

 それから勇一は、自分の名前、年齢、誕生日、血液型、妻の名前、二人の娘の名前と、順を追って記憶の確認をしながら、とくに道に迷うこともなく(当たり前だと思いつつもどこかホッとして)築十二年になる我が家の玄関を開けた。



「ただいま」

 勇一がリビングをのぞいて声をかけると、掃除機をかけようとしていたらしい由紀子が驚いた顔で夫を見た。

「おかえりなさい。…え、もう行ってきたの?」

「ああ」

「ずいぶんと早かったわねえ。まだ十一時前よ?」

「そうだな」

「待たされすぎて、順番が来る前に帰ってきちゃったとかじゃなくて?」

「いや、ちゃんと診察してもらってきた」

「あら、そう?」

 それにしては、ずいぶん不機嫌そうな顔している。

 診察が早く終わるのは喜ばしいはずなのに、まるで二時間待たされたあげく無駄話をたっぷりと聞かされたときのような仏頂面だ。

「なあに、その顔。血液検査の結果が悪かったの?」

 思いつくのはそれぐらいだが、勇一は首を振った。

「いや、コレステロールの数値は改善されているらしい。この調子なら薬を減らせるかもしれないって言われたよ」

「あら、よかったじゃない。あなた、頑張ってたものねえ。食事制限をしたり、運動を始めたりして」

「ああ」

「じゃあ、なんなのその仏頂面は」

「…そんな顔してるか?」

「してるわ」

 勇一はそうかとうなずき、目をふせる。

 そして、しばらく考えたのちに口をひらいた。

「お前、田畑クリニックの院長は知ってるよな」

「田畑先生? ええ。女の先生でしょ。知ってるってほどでもないけど」

「どんな顔をしてたか、覚えてるか」

「顔?」

 由紀子は質問の意図がわからずに勇一を見たが、何とも深刻そうな雰囲気を察して考え始めた。

「どんな顔っていわれてもねえ…… 私、ほとんど病院に行かないし」

「何か思い出せるだろ。目はどうだったとか、鼻はどうだったとか」

「どっちもあったわ」

「ばか。そうじゃない。形だよ。二重だったとか、鼻が高かったとか」

「どうだったかしら。……よく覚えてないわ。私、一度か二度ぐらいしか田畑先生に診てもらってないのよ。それに、診察中に顔なんてまじまじと見ないし」

 そういうものだろうか。

 きっと、そういうものだろう。

 勇一も、たとえば総合病院で一度二度診てもらった程度の医師の顔など覚えていない。

 いたって健康体の妻にとって、田畑院長はそれと同じような存在なのだ。

「先生の顔がどうかしたの? それが不機嫌の理由?」

「……何て言うかな。思ってた顔と違ったんだよ」

 それを聞いて、由紀子は思わずといったように吹き出した。

「そりゃ、人様の顔ですもの。あなたの好みにあわせた顔になるわけないじゃない」

「いや、そういう意味じゃ――」

 説明しようとして、勇一は口を閉ざした。

 自分の記憶の中の田畑院長の顔と、実際の院長の顔がまるで違っていた。

 結局、言葉にすればそれだけのことなのだ。

 おそらく話したところで「ただの勘違いでしょ」 と言われておしまいだろう。

 あのときに感じた薄ら寒い感覚を伝えることはできない。

「……そうだな。顔なんて変わって当たり前か」

勇一はあきらめて、笑ってみせた。

「しわが増えたり、皮膚がたるんだりね。ほんと嫌になるわ」

「お前は、あんまり変わらん気がするけどな」

「うーん。それはお世辞なのか、ただの観察力不足なのか、判断に迷うところね。はい、これ」

 言いながら、由紀子は勇一に掃除機のホースを差し出してきた。

「なんだ?」

「さっき電話があって、玲子が今日帰ってくるんですって。連休がとれたから泊まってくって言ってたわ」

「そうか。…で、それとこの掃除機と何の関係があるんだ?」

「私はあの子の部屋の掃除をして寝られるようにしないといけないの。だから、あなたはここをお願いってこと」

「俺が?」

「せっかく診察が早く終わったんだもの。時間は有意義に使わなきゃだわ。どうせやることないんでしょ」

 最後の一言はたとえ正しいとしても余計だと思いつつ、勇一はしぶしぶ掃除機のホースを受け取った。

 由紀子が二階へのぼっていくのを確認してから、鼻歌まじりに掃除機をかけ始める。

 なにしろ、愛娘が(そうとは口にしないが)久しぶりに帰ってくるのだ。嬉しくないわけがない。

 すっかり気分の良くなった勇一は、院長の顔を取り違えたことは単なる勘違い、些末な問題として、頭の隅へおしやることにした。



「お姉ちゃん、帰ってくるんだって?」

 高校から帰ってきた次女の玲奈が、玄関に入ってくるなり言う。

「おかえり。なんだ、もう知ってたのか」

「メールがきたからね。…って、お父さんじゃん」

 どうやら母親が出迎えたのだと思ったらしく、玲奈は意外な相手に目を丸くした。

「仕事はどうしたの? やっぱクビになっちゃった?」

「なにがやっぱだ。今日は水曜日だろ」

「あ、そか」

 勇一はこの辺りでは比較的大きな製造工場の工場長を任されており、水曜が定休日になっている。

 意気揚々と生産数を伸ばしてきた時代は休日出勤も当たり前だったが、それも過去のこと。今はきっちりと定休をもらいつつ、年々増え続ける赤字を横目にして、定年までもってくれと祈る日々だ。

「で、玄関でなにしてるの?」

「大掃除だよ。玲子が帰ってくるとなったら母さんが張り切ってな。俺も手伝わされてるんだ。朝からずっとだぞ」

 リビングから現れた由紀子は、

「私はリビングと玲子の部屋を片付けるぐらいのつもりだったんだけどね。どっちが張り切ってるんだか」

 などと余計なことは言わず、娘を 「おかえり」 とシンプルに出迎え 「あんたもたまには部屋を片付けなさい」 と、玲奈にとっては余計なことをつけ加えた。

 もっとも玲奈は 「はいはーい」 とヘリウムのような返事をして、さっさと二階の部屋へあがっていってしまったけれど…。

「玲子は何時ごろ来るんだ?」

「夕飯には間にあうように帰るって言ってたから、そろそでしょ」

「車か」

「電車よ。あの子、車なんて持ってないじゃない」

「じゃあ、駅まで迎えに行ったほうがいいかな」

「徒歩五分。必要なし」

「そうか?」

「…掃除終わったんでしょ。だったら落ち着いて、ちょっと休んでいてくださいな。心配しなくても、ちゃんと帰ってきますから」

「俺はべつに…」

 言葉を最後まで聞かず、由紀子はキッチンへと戻っていった。夫の見苦しい言いわけよりも、夕食の準備のほうがはるかに重要なのだ。

 

 インタホンが鳴ったのは、一時間ほど経ってからだった。

 勇一はリビングのソファに座ったまま動かない。玄関で出迎えてやりたい気持ちは山々だが、妻と玲奈にからかわれるのは癪にさわる。

 どうせこの部屋に来るのだから、どっしりと構えていて 「ただいま」 と言われたら、ぶっきらぼうに 「おう」 とか言えばいい。

 それはそれで、二人に笑われそうだが。

「おっかえりー」

 真っ先に聞こえたのは、玲奈の声だった。ついで玲子の声。

「ただいまあ。やっぱ電車だと遠いわー。車がほしい」

 うん。元気そうだな。リビングでうずうずしながら、そんなことを思う。

「夕飯、食べてないでしょ」

 由紀子の声。これは、どうでもいい。

「そりゃそうだよ。久しぶりの家庭料理を食べにきたんだから」

「お風呂に入っちゃう?」

「うーん。あとでいいかな。それよりお腹すいたし」

「じゃあ、あとで私と一緒に入ろうよ」

「オーケー、オーケー。……玲奈、あんた太った?」

「太ってないよ! いきなり失礼だな」

「ほら、早く中へ入りなさい。玲子、リビングでお父さんが待ってるから挨拶してあげてね」

「はーい」

「してあげて」 とはどういうことだ。まるでこっちが懇願しているみたいじゃないか。

 内心で由紀子に悪態をつきながら、勇一は全神経をリビングの外に集中させる。

 ドアノブのさがる音。

「お父さん、たっだいまー」

「おっ、おう」

 ぶっきらぼうな返事をするつもりだったのに、すっとんきょうな声がでてしまった。

 かっこわるい。

 自分には威厳ある父親を演じるのは無理だなと実感しつつ、勇一は微かな笑みを浮かべてもそりと振り返った。 

「おかえ――」

 り。

 口元まで出かかった最後の言葉は声にならず、一瞬で蒸発した。

「やーもう、電車がすっごい混んでてねー。ずっと立ちっぱなしだったよ」

 ……なんだ?

「向こうだと電車移動でも不便しないけどさ、帰るとなるとやっぱ車がほしいなあ…って」

 なにが。どうなってる。

 首筋がこわばる。汗が流れ落ちていく。

 ひどく、冷たい。

 由紀子と玲奈がリビングに入ってきた。

 いったい、どういうことなんだ。これは。

「おーい。お父さん?」

 玲子は凍りつく父親をのぞきこんで、茶目っ気たっぷりの笑顔を作った。

「かわいい娘が、おねだりをしていますよー」

「気持ち悪いなあ、もう」

 玲奈の呆れ声が遠くに聞こえる。

「…だれだ」

「ん、なに?」

 勇一は愛嬌ある笑みを浮かべる女を睨みつけるように凝視すると、低く震える声で繰り返した。


「おまえは だれだ」


 目の前にいる 『玲子』 は、勇一の記憶にある長女とは似ても似つかない顔をしていた。



 リビングは一瞬の沈黙につつまれたあと、弾けるような笑いが起こった。

「うっわー。お父さんきっついなあ。ねえねえ、お姉ちゃんだれ? どこの家の子?」

 玲奈はケラケラ笑いながら、玲子をからかう。

「よその子に車を買ってあげる義理はないってさ」

「お父さん、ひどーい。愛娘にそういうこと言うかな。ふつう」

「ひどいのはあんたでしょ。帰るなり何いってんの」

 由紀子に頭を小突かれて、玲子は舌を出す。

「部屋は掃除してあるから。早く着替えてきなさい。すぐ夕飯になるわよ」

「はあい。…あ、お父さん」

 玲子はリビングを出ようとして、父親を振り返った。

 勇一は硬直したまま、その視線を受ける。

「今のは冗談だからね。……えっと、二割ぐらい冗談」

「八割がた本気じゃーん!」

 妹の突っ込みにウインクを返して、玲子はリビングを出て行った。

 由紀子と玲奈が夕食の準備にキッチンへ向かうと、勇一は一人、凍りついたまま残される。

 玲子?

 あれが、玲子?

「…そんなわけ、あるか」

 声がかすれる。

 だって、俺の記憶にある玲子は【あれ】じゃない。

 二十四年間ずっと家族でありつづけた玲子は、あれじゃないだろう。

 なのに、なんで。

 あいつらは当たり前に受け入れているんだ。

 キッチンから聞こえてくる二人の笑い声には、なんの疑念も混じっていない。

 見知らぬ女を、娘として。姉として。

 どうして、受け入れているんだ。

 それとも、玲子なのか。

 あれが、本当の。

 本当に。

 だとすれば、記憶の中の玲子は。

 俺の知っている、玲子は。

 だれだ?

「お父さん?」

 唐突に声をかけられて、勇一は身体を浮かび上がらせた。

 おそるおそる顔を上げると、玲奈が―― 自分の記憶と同じ顔をした玲奈が―― 不思議そうにこちらを見ていた。

「夕飯だよ」

「…ああ。すぐいく」

 心の底から安堵して勇一は答える。玲子だったら、いったい自分はどんな反応をしてしまっていただろう。

「ずっとそこにいたの?」

「ん? うん。そうだな」

 時計を見て、自分がずいぶんと長い間自失していたことを知る。

「ほら、行こうよ」

「……なあ、玲子も一緒に食べるのか」

 言ってからしまったと口をゆがめる。そんなの当たり前じゃないか。

 あいつは家族だ。

 …そのはずだ。

 さいわい玲奈は父のつまらない冗談と受け取ったらしく、そりゃそうでしょと笑うだけだった。

「今日は煮込みハンバーグだよ。お姉ちゃんの大好物」

「そうか…」

 玲奈と並んで食堂へ向かいながら、勇一は自分の記憶にある玲子の好物を思いだそうとした。

 思わず苦笑がもれる。

 そもそも、そんな話をしたことがなかった。



 夕食の間、勇一はほとんど会話に参加しなかった。

 もともと口数が少ないことが幸いしたというべきか、とくに怪訝に思われることもなく、ときどき話を振られたときに相づちを打つぐらいで、あとはうつむいて食事に没頭しているふりをしていた。

 なるべく顔を上げたくなかった。

 正面に玲子が座っているのだ。

 うかつに目をあわせてしまったら、自分が何を言い出すかわからない。

「おまえは だれだ」

 さきほどは冗談ですませることができたけれど、今度はそうはいかないだろう。

 決定的な何かを壊してしまう。

 そんな気がする。

「お父さん、調子わるいの? なんか元気ないよ」

 玲子の気づかう声に勇一は思わず身をこわばらせたが、それでも、どうにか笑みを浮かべて答えた。

「いや。元気だぞ。お前らが騒がしすぎるから、俺の元気がないように見えるんだよ」

「じゃあ、お父さんも一緒に騒げばいいじゃん」

「ばかいうな。お前らにあわせてたら身体がもたん」

 玲奈の軽口には勇一も顔を上げて言い返す。玲子が視界に入らないよう、視界を調節して。

「それで、あんたは何日ぐらいいられるの?」

 玲子におかわりのご飯をよそってやりながら、由紀子が聞く。

「うーん。二日くらいかな」

「それだけ? 長めの連休がとれたって言ってたじゃない」

「リフレッシュ休暇は一週間あるけどねえ。ほら、向こうでやりたいこともあるしさ」

「あ、デートだ。デートでしょっ」

 玲奈がすかさず口をはさむ。思春期と色恋話の関係は、ネコとマタタビの関係によく似ている。

「お姉ちゃん、彼氏いるんだ?」

「そりゃ、いるけど」

「結婚すんの?」

「どうだろ。……まあ、なくはないかな」

「お父さん! あなたの娘がピンチだよ!」

「なんでピンチなのよ」

「ほかの男に盗られちゃうよ!」

「うるさいっての」

 わめき立てる玲奈を、苦笑まじりに小突く玲子。

 由紀子は静かに食べなさいとたしなめながら、自分も笑っている。

 ――もし。

 もし、玲子が勇一の記憶にある 『玲子』 であったなら、心穏やかに聞いていられなかっただろう。

「どこの馬の骨ともつかない奴に娘はやらん!」 というような古風な感覚はないにしても、手放しで祝福できる気分にはなれなかったはずだ。

 なのに今は、まるで他人事のように『娘の色恋話』を聞き流している。

 娘の?

 娘?

 本当に、娘なのか?

 勇一は屈託泣く笑う玲子を盗み見る。

 知らない顔だ。まるで知らない顔。

 でも、彼女は玲子なのだろう。

 娘の。長女の。玲子なのだろう。

 だって、由紀子も玲奈もそう思っている。

 本当に玲子だと思っている。

 なぜなら、本当に玲子だからだ。

……ふざけるなっ。

 勇一は耐えきれなくなって立ち上がった。これ以上、この場にいたくなかった。

「ごちそうさま」

「あら、もういいの? ずいぶん少ないじゃない」

「いや、じゅうぶん食べたよ。お腹いっぱいだ」

「あ、お父さん。お風呂は私たちが先だからね!」

 年頃の娘らしいことを言う玲奈に苦笑して、勇一は 「わかったわかった」 と手をふりながら食堂を出た。

 

 夕食を終えると、娘二人はわきあいあいとバスルームへ向かい、リビングでくつろいでいるのは由紀子と勇一だけになった。

 何となくつけたテレビはバラエティ番組のチャンネルで、芸人たちの大袈裟なアクションが、スタジオを盛り上げているようないないような感じだった。

 勇一は『ここは笑うところですよ』という、ガイドラインの笑い声につられて笑う妻を横目で見ながら、玲子が別人になっていることを―― 自分にはそう見えていることを―― 打ち明けるべきかどうか迷っていた。

 似た話は今朝もあったのだ。

 田畑院長。

 彼女も勇一の記憶とはちがう、別の人間になっていた。

 それなのに誰からも疑われることなく、いつもの田畑院長として存在していたのだ。

 状況はまったく同じだ。

 そのときはまだ、勘違いやど忘れということにして(お互いの関係が親密でないこともあり)、笑い話ですませることができた。

 しかし、今度は自分の娘なのだ。

 離れて暮らしているとはいえ、関係性はこの上なく緊密である。

それに、そう。

 妻も玲奈も、疑うことなくあの女を玲子として認めているのだ。

「玲子が別人になっている」 と打ち明けるということのは、自分の異常を伝えるようなものだった。

「あいつは、二晩泊まるのか?」

 結局、勇一が口にしたのは別のことだった。

「ええ。もっと泊まっていけばいいのにねえ」

「そう、だな」

 もう一日、この状況が続くのか。幸い出勤日だから、顔を合わせるのは夕食だけですむな。

 そんなことを考えいる自分に気づき、舌打ちをする。

 幸いってなんだ。娘だぞ。

「悪いけど、今日はもう寝るよ」

「え、もう?」

 由紀子が驚いて振り返る。まだ九時前だった。

「ずいぶん早いじゃない」

「ああ。ちょっと頭痛がするんだ」

「……大丈夫? 何だか顔色が悪いわよ」

「大丈夫だ。寝ればなおるさ」

「それならいいけど」

「あいつらには適当に言っておいてくれ」

「ええ」

「じゃあ、お先」

「はい。おやすみなさい」

 リビングを出て、寝室へと向かう。

 大丈夫だ。寝ればなおるさ。

 勇一は祈るような気持ちでベッドに入る。

 灯りを消して眼を閉じると、瞼の裏で自分の知っている玲子が笑っていた。



 いつもより二本も早い電車に乗って会社へ向かったのは、玲子と顔を合わせないようにするためだった。

 あまりに早い出勤に由紀子は驚いていたが、急な会議が入ったということにして誤魔化しておいた。

 この時間帯は乗客も少ないらしく、勇一は悠々と座席を確保することが出来た。

 目を閉じて、電車に揺られる。

 脳裏に浮かぶのは、当然のように昨日のことだ。

 かかりつけの医師が、別の人間になっていた。

 自分の中でだけ。

 手塩をかけて育てた長女が、別の人間になっていた。

 自分の中でだけ。

 入れ替わったのは、この二人だけだ。

 今のところ―― と考えて、あわてて打ち消す。これ以上あってたまるか。

 それにしても、なぜこの二人なのだろう。

 彼女たちに接点はあるだろうか。

 年齢もちがう。職業もちがう。背丈も顔立ちも、全然ちがう。

 記憶の中の二人を比較するかぎり、だが。

 それでも、何かしらの共通点があるはずだった。

 たとえばこの現象が脳の障碍によるものだとしても、二人だけが別人に見えるというのはおかしい。

 何かの条件があるはずだ。

 ほかに考えられるのは――

「あ、工場長?」

 仕事場でしか呼ばれない、仕事場では呼ばれ慣れた役職名。

 勇一が反射的に顔を上げると、目の前に、スポーツ刈りよりもやや伸びた髪と、体育会系そのものと言うような濃い顔立ちをした青年が吊り輪に手を掛けて立っていた。

 部下の佐々木だった。

「おう。おはよう」

「おはようございますっ」

 朝から無駄に元気がある。場合によっては頼もしく、場合によってはうっとうしい。

「今日、やたら早くないですか? いつもはこの電車じゃないですよね」

「ああ、ちょっと仕事をやり残していてな」

 まさか 「娘と顔を合わせたくなかったんだ」 とも言えないので、適当な言い訳をしてごまかす。

「お前こそ早いな」

「僕はいつもこれですよ。野球の朝練があるんで」

「ああ。そういえば支社の交流試合があるんだったか」

 勇一の勤める工場はクラブ活動が盛んで、しばしば支社の交流戦がある。野球、サッカー、テニス、バレー。近ごろ将棋が加わったと聞く。

「今回は優勝できますよ」

「えらい自信だな」

「そりゃそうですよ。だって、今日付けで帰ってくるじゃないですか。広瀬君」

「…そうか。出向が終わったのか。一ヶ月ぶりだな」

「仕事は二流でも野球は一流ですからね。エースとして投げてもらうつもりですよ」

「そうか。…まあ、がんばってくれ」

「はいっ」

 逆のほうが俺はありがたいんだがなと思いつつも激励はしておく。

 それから先は仕事と雑談に費やされたため、勇一は自分の問題を棚上げにすることができた。



 勇一の仕事は発注を受けた仕事を整理して、それぞれの製造ラインにまわしたり、新しい機械の導入の検討したり、効率よく進めるためのフローチャートを作成することだ。

 もともと製造ラインから始めた叩き上げなので、仕事の流れはよくわかっている。

 下からの受けが良いのも、そのおかげだろう。

 若い頃はひたすら同じ作業を繰り返す日々に辟易していたものだが、こうして管理をする側になると、自分のしてきた仕事がどういう意味を持っていたのかを理解できるようになり、今さらながら楽しさとやりがいを感じている。

「工場長、広瀬君がもうすぐ着くそうですよ」

「そうか」

 電話を受けたらしい事務員に生返事をかえす。

 工場長といっても特別な部屋があるわけでもなく、皆と同じ事務所で作業をする。

 勇一は新しく入ってきた仕事の納期の短さに目をむき、頭を悩ませているところだった。

 今の仕事はまだ納期に余裕があるから、こっちを強引にねじ込むか。しかし、そうなると運転中の機械を止めて別の機械を動かすことになり、流れが滞ってしまう。

 支店から作業員のヘルプを頼むこともできるけど、あまり借りは作りたくないし……

 上手く折り合いがつくところを模索していると、扉がノックされた。

「失礼します」

 入ってきたのは作業服を着た長身の男性だった。五分刈りに太い眉と大きな鼻というインパクトの強い顔立ちで、一度見たら忘れそうにない。

「出向、ご苦労様」

「大変だったでしょ」

 その男に、事務員が口々にねぎらいの言葉をかけていく。

 出向?

 あいつ、うちから出向してた奴なのか。

 広瀬のほかにいたかな。

 そう考えた瞬間、背中にぞくりとしたものがはしる。

 同時に。

「工場長」

 五分刈りの男が勇一の前にやってきて一礼をした。

「ただいま戻りました」

 ……そうか。

 そういうことか。

 いくつもの混乱と恐怖が駆けめぐるなかで、勇一は二つの事を理解した。

「ご苦労さん。…広瀬」

 ひとつは、この男が広瀬であること。

 俺の知っている広瀬は、お前じゃないけれど…

 でも、お前が広瀬なんだろう?

「一ヶ月の出向はどうだった?」

「はい。最初はよそ者扱いでしたから、きつかったっすね。でも、すぐに慣れましたよ。みんな良い人たちでしたし」

「…そうか」

 もう一つは、これだ。

 一ヶ月という共通点。

 田畑クリニックには月に一度、診察に行く。院長と顔をあわせるのは、だから月に一度だ。

 離れて暮らしている玲子も帰ってくるのは月に一度ぐらいだから、顔をあわせるのも月に一度。

 そして、広瀬もまた一ヶ月の間、顔をあわせていなかった。

 三人に共通しているのは、会ってから次に顔をあわせるまでの期間。

 つまり、こういういことだろう。

 一定以上―― 期間は不明だが、少なくとも一ヶ月―― 顔をあわせていない相手が、別人になってしまうのだ。

 勇一の中でのみ。

 ほかの者たちには―― 田畑院長も、玲子も、広瀬も―― 以前と変わらず、その人として映っているのだった。

 とにかく、原因はわかった。

 いや、原因はわからないが、きっかけはわかった。

 一定期間、顔を合わせていないことだ。

 だとすれば、どうなる?

 一ヶ月以上、顔をあわせていない知り合いなんて、いったいどれほど――

「工場長」

「え?」

 呼びかけられて我に返ると、見知らぬ広瀬が勇一をのぞき込んでいた。

「大丈夫っすか? 顔、真っ青すよ」

「……ああ。いや、大丈夫だ。ちょっと寝不足なだけだよ」

 勇一は笑って答えながら、心の中で広瀬に問いかける。


 おまえは だれだ。



 勇一は、なるべく遅くなるようにと時間をつぶして家に帰った。

 しかし、期待に反して―― そして予想したとおり―― 三人は夕食を食べずに待っていてくれた。

 昨日と同じ時間が始まる。

 由紀子が切り盛りをして、二人の娘は耳の遠い老人が顔をしかめるような大声で笑う。

 勇一は茶碗を手にしたまま、玲子を見ていた。

『おまえは だれだ』

 何度も問いかける。

 見知らぬ玲子がこちらを見た。

 目をそらす。

 玲子の顔がゆがむ。

「…ねえ。お父さん、昨日から変だよ」

「そうか?」

「そうか? じゃないよ。私の顔をじろじろ見たり、私が見ると目をそらしたり。なんなの?」

 勇一は顔をあげようとして、やはり玲子を直視できず、由紀子と玲奈に目をむけた。

 二人とも笑っていない。

 夫の、父親の異変に気づいていたのだ。

「…その、なんだ」

 勇一は声を絞り出す。

「お前の、顔が……」

「私の顔がなに?」

「――ずいぶんと、垢抜けたと思ってな」

 笑って、答える。

 どうにか笑えた。

「きっと、化粧のおかげだな」

「…ちょっと。それって、もとは駄目って言ってない?」

 玲子はふくれっ面をつくって父親をにらみつけた。

 勇一の苦しい言いわけに納得したらしい。あるいは、そうすることにしたのかもしれない。

 盛り上がる会話に上辺だけをあわせながら、勇一は早く食事を終わらせてこの場から逃げることだけを考えていた。



 翌日。

 勇一が仕事から戻ると、玲子はすでにいなかった。

「玲子は帰ったのか」

「ええ。そのうちまた来るって」

「そうか」

 安堵する自分に嫌悪感を抱きながらも、やはりホッとしてしまう。

 勇一は仕事着を脱ぎ捨て、リビングのソファに腰を落とした。

 そのうちまた来る。か。

 次に会うときは、玲子は記憶の玲子に戻っていてくれるだろうか。

 それとも、知らない玲子のままだろうか。

 …その玲子に。

 知らない玲子に。

 俺は、ちゃんと父親として接することができるだろうか。

 勇一は重いため息をつく。

 自信はなかった。



 それからしばらくは、何事もなく日々が過ぎていった。

 もちろん問題が解決したわけではなく、単に毎日顔をあわせる者たちのなかで過ごしていたからである。部下の広瀬は知らない顔をした広瀬のままだし、一月ぶりに診察を受けた田畑クリニックの院長も、知らない彼女のままだった。

 会ってはいないけれど、玲子もきっと、知らな玲子のままだろう。

 それでも、それらに目を閉じれば平穏といって良い日々だったのだ。

 今日までは。

 その男―― 佐藤は、季節外れのインフルエンザにかかって一週間ほど欠勤していたのだが、ようやく今日から出社できるようになった。

「迷惑かけてすいませんでした」

 申し訳なさそうに頭を下げる男。

 しかしその男は、勇一の記憶にある佐藤ではなかった。

 まるで知らない、顔も体型も似つかない別人に変わっていたのである。

 勇一は愕然として、見知らぬ佐藤を睨みつけた。

 ……一週間だぞ。

 半年でも、一ヶ月でもない。

 たった七日顔をあわせなかっただけで、変わってしまうのか。

 …いや、おかしい。

 おかしいじゃないか。

 だって、あいつは――

 勇一は作業着姿で機材を移動させている男―― 小林に目を向ける。

 あいつはこの間まで一週間の研修に行っていたはずだ。

 そうだ。

 だから、あいつが帰ってきたとき、俺はあいつが 『見知らぬ小林』 になってやしないかとビクビクしていたんだ。

 だけど、小林は小林のままで帰ってきた。

 安心したんだ。

 一週間程度なら変わらないのだと、安心したんじゃないか。

 なのに、どうして。

 ……まさか。

 その可能性を考えたとき、勇一はめまいを覚えた。

 それは認めたくない可能性であり、同時に、限りなく確信に近い予感だった。

 

 間隔が、短くなっているのか?

 

                     ※


「工場長。お先に失礼します」

 見知らぬ佐藤が愛想よく声をかけてくる。

 彼は仲間ともよく打ち解けている。

 佐藤と呼ばれている。

 佐藤と呼ばれて返事をする。

 当たり前だ。あれは佐藤なのだから。

「工場長、お先です」

 見知らぬ広瀬が駆けていく。

 彼は仕事はいまいちだが、取引先の受けはいい。何より、野球部のエースだ。

 ただ。

 勇一は、あの広瀬が誰なのか知らない。

 いったい、どうなるのだろう。

 このまま行けば、俺はどうなる。

「工場長。今日、残っていきます? それなら鍵を預けてきますけど」

 事務の伊崎が事務室の鍵を手にしながら勇一に聞く。

 彼女とは、休日をのぞけば毎日顔をあわせている。

 だから、伊崎は伊崎のままだ。

「…なあ。もしもだけど」

 勇一は変わらない伊崎を見て安堵したのか、思わず聞くつもりがなかったことを聞いてしまう。

「君の子どもがある日、まったく別の顔になっていたとするだろ」

「は? ……えっと、何の話ですか」

「うん。とにかく、そう考えてみてくれ。それで、君は子どもが別人になっていることに驚くんだけど、まわりはそうじゃないんだ。つまり、その別人を君の子どもだと思って話しかけたり、遊んだりしている」

「はあ」

「そのとき、君だったらどうする?」

「ええっ。どうするって…… どうしよう」

「まあ、気楽に考えてみてくれ」

「気楽に。…えっと、そうですね」

 ユウちゃんがユウちゃんじゃないのに、みんなはユウちゃんだと思ってるってこと? ……なにそれ。

 伊崎はぶつぶつとつぶやきながら考えこんでいたが、やがてはっきりと答えた。

「でも、わかると思いますよ」

「え?」

「ユウちゃんが―― 私の子が、全く別の顔になっちゃってもですね、その子がユウちゃんなら、わかると思うんです。別の子だったら、きっと違うって思いますよ」

「別の顔になっても、自分の子だと認められるってこと?」

「はい」

「…そうか」

 そう言い切ってしまえるのは、彼女が母親だからだろうか。

 俺には、できない。

 できなかった。

 見知らぬ玲子を、自分の娘と思うことができなかった。

 きっと、この先も。

「すまん。くだらないことを聞いてしまったな」

「いえいえ。それで、どうします。今日は残りますか?」

「帰るよ。戸締まりは頼む」

「はい。お疲れ様です」

 事務室を出て駅へと向かいながら、勇一は何度もため息をついた。

 俺と同じ立場になっても、本当に君はそう思えるか?

 聞くことのできない質問は、コールタールのように胸の奥へと沈んでいく。


              ※


 それからまた、数週間が流れた。

 夕飯のテーブルに三人がそろうのは久しぶりだった。

 玲奈は所属しているテニス部の試合が近いため帰りが遅くなることが多くなったし、勇一も決算月の残業や会議に追われ、帰宅時間が深夜になったりしていた。

 もっとも、三人そろった食卓といったところで、会話をするのは母と娘である。

 今日の出来事。友人の話。部活の話。芸能人の話。出所不明のうわさ話。

 勇一は聞くとはなしに聞くだけで、いつものようにときどき口をはさむ程度だった。

 一変したのは、玲奈の口からついて出た一言だった。

「合同で合宿?」

「そう。ほら、今度の金・土・日って三連休でしょ。そこで清峰高校の女庭と合同練習しようって話になったんだよ」

「へえ」

「でも、清峰とウチってわりと距離あるじゃん? 行ったり来たり大変だよねーって話してたら、ウチの顧問が 「じゃあ、中間にある柏木温泉で合宿するか」 って言い出してさ。ウチら賛成! むこうも賛成! …で、二泊三日の合宿が決まったわけ」

「柏木温泉で合宿ねえ。なんだか楽しそうじゃない」

うかれる玲奈につられて、由紀子も声を弾ませる。

「うん。あそこはテニスコートも良いらしいし、めっちゃ楽しみ」

「おみやげ買ってきてよ」

「お小遣いちょうだい」

「ちゃっかりしてるわねえ」

 ……三連休?

 合宿?

 はしゃぐ二人を、勇一は信じられない思いで見つめていた。

 二泊三日?

 二泊?

 二日間、会うことができないのか?

 まってくれ。

 それは。

 それは――

「だめだ」

 勇一の声は誰も耳にしたことがないほど低く、ひどく震えていた。

「それは、だめだ」

 絞り出すような声。

「…なんで?」

 数瞬前まではしゃいでいた玲奈が、今は表情をこわばらせて勇一をにらみつけている。

 由紀子は何が起きたのかわからず、二人を交互に見つめるばかりだ。

なんで?

 なんでって――

「……き。危険だろう。女だけで合宿なんて、何かあったらどうする」

「は?」

 何の説得力もない言葉は、玲奈の声をますます冷えさせていく。

「あのさあ。あの旅館って、お年寄りがたくさん泊まりにくるところだよ? 子供を連れた家族だってくるし、ウチらみたいに合宿に使う学生もくるの。そこを危険っていうなら、どこが安全なの?」

 勇一は言い返せない。

 わかっているのだ。

 玲奈の言い分はもっともで、自分が馬鹿げたことを言っているのだと。

 だけど、ほかにどうしろと言うんだ。

 玲奈を引き止める、本当の理由を言えというのか。

 お前がお前でなくなってしまうかもしれない。と。

 言えるわけがない。言ったところで、信じてもらえるわけがない。

 この身に起きていることのほうが、よっぽどむちゃくちゃなことなのだ。

「とにかく、だめだ!」

 勇一に残されたのは、理屈のない、感情的な言葉だけだった。

 それすらも、情けなく裏返った声になってしまったけれど。

 玲奈は震える父親をにらみつけたまま立ち上がると、

「私、行くからね」

 冷然に言い放って、リビングから出ていった。


 玲奈が自室にこもってしまった頃、リビングでは勇一と由紀子が向き合って座っていた。

「どういうことか、話してくれる?」

 由紀子は落ち着いた声で、ゆっくりと聞いた。

「いつものあなたなら、あんなふうに怒鳴り散らしたりしないし、玲奈の合宿だってすんなり認めていたはずよ」

 その通りだった。

 いつもの自分だったらあんな馬鹿げたことを言って引き止めようとはせず、むしろ笑って送り出してやっただろう。

 ただ、今はいつもの自分ではないのだ。

「どうして玲奈を行かせたくなかったの?」

「……あいつが、変わってしまうんだ」

 ぽつりとつぶやいた。

「変わる?」

 玲奈が、見知らぬ玲奈になってしまう。

 会わないでいられる間隔はどんどん短くなっている。

 佐藤は七日の欠勤で変わってしまったのだ。

 あれから何週間も過ぎている今、間隔はもっと短くなっているはずだ。

 たった二日でも、変化は起こりうる。

「あの子が変わるって、どういうこと?」

「………」

 ――いっそ。

 全てを話してしまおうか。

 今起きていることを、由紀子にぜんぶ打ち明けてみようか。

 自分の周りにいる人々が、見知らぬ人間に変わってしまったということを。

 娘が。玲子が、別人になってしまったということを。

 そのことに、誰も気づかないことを。

 お前も気づかないでいることを。

 ……由紀子はどんな反応をするだろう。

 勇一の話を信じて、一緒に絶望してくれるだろうか。

 それとも、夫の気が狂ったと一人で絶望するのだろうか。

 どちらにしても、救いはない。

「……いや、なんでもないよ。すまなかった」

「え?」

だったら、取り繕うしかないではないか。

 たとえ見え透いていたとしても、そうするしか。

 仕掛けがばれても手品を続ける、マジシャンのように。

「ちょっと、気が変になっていたんだ。最近、ほら、残業と会議ばかりでイライラしっぱなしだったからな。何かに当たり散らしたくなったんだよ」

「…あなた」

「玲奈が合宿へ行くことだって賛成だ。言っておいてくれ」

 勇一はつとめて笑顔をつくり、明るい声を出す。

 どうか、これでごまかされてくれ。

 由紀子は不安げな顔のまま夫を見つめていたが、やがて勇一の表情から何かを察したように頷いた。

「ええ。伝えておくわね。多分、あの子は合宿をあきらめるつもりだったでしょうから、きっと喜ぶわ」

「ああ」


 由紀子のいなくなったリビングで、勇一は一人、目を閉じて祈る。

 

 どうか。

 どうか。

あの子は、そのままで。

 

                           ※


 金曜日。

 玲奈は意気揚々と合宿へと向かった。

 勇一はそれを見送ることなく会社へ向かい、淡々と仕事をこなしていた。

 ときどきケイタイを手に取って、見つめる。

 待ち受け画面は玲奈の顔写真だ。

 合宿を許可するかわりだと、むりやり撮った写真だった。

 これが、土壇場で思いついた勇一の防衛策だった。

 写真で常に顔をあわせていれば、毎日会っているようなものだ。

 変化は起こらないはずだ。

 日曜日には写真と同じ玲奈に会える。

 それは確信ではなく、願いだった。


 金曜日が過ぎ、土曜日も大きな変化もなく過ぎていった。

 勇一は変わらず仕事をこなし、休憩のたびにケイタイを開いて玲奈の顔写真を眺めていた。周りから親バカ扱いされようとも、やめるわけにはいかなかった。

 


 日曜日。

 勇一は珍しく半休をとって、玲奈の帰りを待っていた。

 午後五時十五分。

 インタホンが鳴った。

 迎えに出る由紀子のうしろを、勇一は祈るような思いでついていく。

 玄関につく。

 由紀子がカギをはずす。

 ドアノブが回る。

 ドアが開く。

「たっだいまー」

 玲奈が、顔を、のぞかせる。

「おかえり。どうだった合宿は?」

「めっちゃ楽しかったよ! 見て見て。テニスのしすぎで日焼けしまくり」

「すごいわねえ。でも、肌にとっては不健康じゃないかしら。それ」

「わかんない」

「とにかくあがって。荷物を片付けなさい」

「はあい。そうそう、おみやげもあるからね」

「楽しみにしとくわ」

「うん。…あ、お父さんただいま!」

 玲奈はようやく父の存在に気づいて声をかける。

「って、なんでそんなとこに突っ立ってんの?」

 勇一は玄関から離れた廊下に立ちつくしていた。

 目を見開いて。

 玲奈を凝視して。

「おーい。ただいまってば」

「……だれだ」

「え?」

「おまえは だれだ」

「はい?」

「おまえは だれだ!」

 勇一は叫ぶと、猛然と玲奈に近寄りケイタイを取り出した。

「なに。え、なんなの?」

「こっちには写真があるんだ! 玲奈の、本当の玲奈の写真があるんだよ!」

「あなた、何を――」

「これを見ろ!」

 勇一はケイタイの開くと、それを呆然と自分を見つめる見知らぬ玲奈につきつけた。

「どうだ!」

 待ち受け画面に写っているのは、まぎれもなく勇一の娘の玲奈だ。

 目の前の、玲奈と名乗る見知らぬ女の顔とはまるでちがう。

 本当の玲奈だ。

 見知らぬ玲奈は、ケイタイに写る玲奈を見て沈黙する。

 由紀子もまた、ケイタイを覗き込んで沈黙していた。

「何か言いたいことはあるか。ええ?」

 勇一は勝ち誇ったように見知らぬ玲奈を睨みつける。

「さあ、答えろ。どこだ! どこにいる! 本当の玲――」

「お父さん」

 勇一の言葉をさえぎって、見知らぬ玲奈は顔をあげた。

 それから、待ち受け画面に写る玲奈に指をおしつけると、ひどくさめた声で言った。

「この子、だれ? なんで待ち受けにしてるの? 私の写真は?」

「―― なにを…」

 何を言っているんだ、こいつは。

 この期におよんでまだしらを切るつもりなのか。

 ああ、たいした度胸だ。

 だけどな、こっちには本当の玲奈を知っているやつがもう一人いるんだよ。

「おい、由紀子。お前もなにか言――」

 勇一の言葉は、妻の青ざめた顔によって途切れた。

 なんだ、その顔は。

 どうしてお前が、俺を見て、そんな顔をするんだ。

 そうじゃないだろ。

 これじゃあ、まるで。

 俺が。

 俺のほうが。

「ねえ。お父さん。その子だれ? どういう関係なの」

 玲奈だ!

 この子は玲奈だ!

 この子が玲奈なんだ!

 どういう関係?

 俺の娘だ!

 お前じゃない、俺の娘の、本当の玲奈なんだ!

「お父さん!」

「うるさい! ふざけるな!」

 勇一は見知らぬ玲奈からケイタイをひったくると、意味不明の言葉をわめき散らして、逃げるように寝室へ飛び込んだ。



 寝室のドアが開く。

 入ってきたのは、由紀子だった。

 由紀子はベッドの上で布団をかぶっている勇一を見て、ゆっくりと近づいた。

「…今度は、ちゃんと教えてくれるわね」

 その声には恐怖も怒りも失望もなかった。

 自分を気づかう柔らかな声にうながされて、勇一は布団から顔をだした。

「あなたが娘の顔を間違えるわけがないし、娘と同じ年頃の子と関係をもつなんてこともありえない。それは、私がよくわかってる。だから、話して」

 いったい、何が起きてるの?

「……俺の言うことを、信じてくれるのか?」

弱く震える声で勇一が聞くと、由紀子は深くうなずいた。

「あなたが本当だと言うのなら」

 勇一は涙をこぼしてひとしきり泣いたあと、自分に起きたこれまでのことを話し始めた。



「…それじゃ、玲奈も別人に見えているのね」

「見えているんじゃない。別人なんだよ! どうして気づかないんだ」

 勇一はじれったそうにケイタイを取り出して、本当の玲奈を写真を見せつける。

「この子なんだ! 本当の玲奈は、この子なんだよ」

 由紀子はケイタイに写る少女を食い入るように見つめ、目を閉じた

「ねえ。よく聞いて」

「これ以上、何を聞けっていうんだ」

「私は、あなたが嘘をついているとは思えないの」

「当たり前だ。俺は本当のことしか言っていない」

「ええ。でもね、私が知っている玲奈はこの子じゃない。これも本当のことなのよ」

「………」

 勇一は由紀子を見た。

 言葉が見つからない。

 何を言っていいのか、わからない。

 もう、何もわからない。

「明日、病院へ行きましょう」

 その瞳を受け止めて、由紀子は抑揚のない声で言った。

「…なに?」

「知り合いに精神科のお医者さんがいるの。その人に診てもらいましょう」

「……俺が、狂ってるって言いたいのか」

「それを知るために診てもらうの。あなたは本当のことを言っている。私も本当のことを言っている。でも、どちらも本当ということはありえない。…でしょう?」

「………」

「だから診てもらうのよ。もちろん、私も診察を受けるわ。その結果、異常があるのは私のほうかもしれないし。ね?」

 長い沈黙が落ちた。

 勇一は視線をあちこちにさまよわせて、どうにか頭の整理をしようとしている。

 由紀子はただ、その様子を見守っていた。

 やがて。

「……わかった」

 勇一は重苦しくうなずいた。

「このわけのわからない現象の原因がわかるなら、キチガイと診断されたっていいさ」

「そんな診断にはならないわ。きっと、解決する方法はあるはずよ」

「だといいがな」

 勇一は由紀子の手を握り、涙をこぼした。

「ありがとう。信じてくれて」

「どんなときも、最後まで信じるのが夫婦ってものよ」

「そういうものか」

「どうかしら。今のはちょっと言ってみただけ。…かっこよかった?」

「おい」

 由紀子が笑う。

 勇一もつられて、久しぶりに笑うことが出来た。



 目覚まし時計が鳴る。

 勇一がベッドから身を起こすと、すでに由紀子はいなかった。

 寝ぼけ眼をこすりながら、いつもの作業に着替えようとして思い出す。

 そうだ。今日は仕事を休んで病院へ行く日だった。

 ふと見ると、ベッド脇に普段着が用意されている。

「えらく派手な服だな」

 勇一は着慣れない服に替えて、食堂へと向かった。

 玲奈と顔を合わせるのは気まずいなと思ったが、幸い彼女は早朝練習ですでにいなかった。

 安堵と、自己嫌悪。

 食堂へ入ると、由紀子がキッチンで朝食の準備をしているところだった。

「おはよう」

 勇一は妻に声をかけて、いつものイスに腰掛ける。

「あら、おはよう。ちょっと待っててね。今、目玉焼きができるから」

「ああ。まあ、ゆっくりやってくれ」

「ゆっくりやってたら焦げちゃうわ」

「じゃあ、急いでやってくれ」

「あなた、半熟嫌いでしょ」

 他愛のないやりとりが心地よい。

 昨日すべてをぶちまけたせいか、勇一の気持ちはずいぶんと晴れやかだった。

 今日の診察で自分に異常があるという結果になっても、前向きに受け止められる。

 そんな気がした。

「病院には何時に行くんだ?」

「電話をして九時に予約を取ってあるから…… そうね。ご飯を食べてから家を出ればちょうどいいんじゃない?」

「そうか」

「あっ、目玉焼きのお皿を用意してなかったわ。悪いけど取ってくれない?」

「ああ」

 勇一はのそりと立ち上がり、食器棚から平べったい皿を取りだす。

「こっちに持ってきてくれる?」

 いわれるままキッチンへと運ぶ。

「ほら」

「ありがとう。ちょっとまってて」

 由紀子はコンロの火を止めて、フライパンをその上に置く。

 それから、勇一から皿を受け取るために振り向いた。

「はい、ちょうだい」

 その瞬間。

 勇一の手から皿がこぼれ落ちた。

 由紀子が慌てて手をのばしたが、間に合わない。

 床に直撃した皿が、音をたてて割れる。

 

 ……だれだ。


「あーあ。もう、何やってんの」

 非難の声も、今の勇一には届かない。

「…だれだ」

「え?」

「おまえは だれだ」

 顔をあげた由紀子が見たものは、血の気の失せた顔。むきだしになった目。

 壊れたように震えている唇。

「あなた。私が――」

「おまえは だれだ!」

「待って。落ち着いて」

「くるな! こっちにくるな!」

 勇一は床に散らばる割れた皿の中から、細長くとがった欠片を拾い上げた。

 それを由紀子に向けたまま、一歩、二歩と後ずさる。

「…ねえ、あなた? 大丈夫よ。これからお医者さんに診てもらうの。それで元に戻るからね」

「由紀子は、どこだ」

「由紀子は私よ」

「ふざけるな! あいつは、あいつはそんな顔じゃない」

「大丈夫。大丈夫だから。ね?」

 由紀子が一歩近づいた途端、勇一は悲鳴をあげて食卓から逃げ出した。

「勇一さん!」

 闇雲に廊下を駆けていく。

 一人になりたかった。

 誰もいないところへ。

 自分でもわからぬまま、階段を駆け上がる。

 二階には玲子の部屋と玲奈の部屋があるだけだ。

 玲奈の部屋にはカギがかけられていた。

 舌打ちをして、今は使っていない玲子の部屋のドアを開ける。

 開いた。

 勇一は玲子の部屋へ飛び込むと、震える手でカギをかけた。

 同時に、追いついた由紀子がドアを激しく叩く。

「勇一さん、開けてちょうだい。ちゃんと病院で診てもらいましょう」

 見知らぬ由紀子の叫び声。ドアを叩く音。

 勇一は剥きだしになっている玲子のベッドに腰を下ろし、耳をふさいだ。

 ……誰もいない。

 俺が知っている人間はもう、誰もいない。

 この先、ずっと。

 もう、二度と。

「ねえ。ずっとそこにいるつもりなの? そんなこと出来ないわ」

 見知らぬ由紀子の声が響く。

「出てこないなら、むりにでもドアをあけるからね!」

 いいさ。

 そのときは、この皿の破片で……。

 勇一は自虐的な笑みを浮かべ、玲子の部屋を見回した。

 彼女の荷物はほとんど持ち出されており、残っているのは勇一のうずくまっているベッドと、本の入っていない本棚、それにタンスぐらいだ。

 もうひとつあった。

 ベッドの横に置かれている――

 

 その瞬間。

 

 勇一は絶叫した。


  ※


 警察に通報したのは、悲鳴を聞きつけた近くに住む男性だった。

 二人の警察官が飛び込んだときにはすでに悲鳴はなく、かわりに二階から女性の叫び声が聞こえてきた。

「警察です。なにがあったんですか!」

「助けてください!」

 由紀子は警察官にすがりつき、どうにか開けようとしてあらゆる物で傷つけた扉を指して叫んだ。

「夫が中で。中で!」

「今、あけます」

 扉は思いのほか頑丈な作りで、専用の工具が必要だった。

 やがて扉がこじ開けられると、由紀子は二人の警察官に守られながら中へと足を踏み入れた。

 すぐ視界に入ったのは、ベッドの上で倒れている勇一の姿だった。

 由紀子は夫に駆け寄って抱き起こし―― そして、絶句する。

 勇一の顔は、真っ赤な血で染まっていた。

 それらの血はすべて、皿の破片で潰された二つの目から流れ出たものだった。

 勇一から少し離れところで、二人の警察官が粉々に破壊されたスタイルミラーを調べている。

「なんで、鏡を壊したんですかね」

 若い警察官の疑問に、上司らしい男が首をかしげる。

 その理由を、由紀子だけは理解した。

 あの鏡で、自分を見たのだ。

 自分を見て、その顔を見て、絶望したのだろう。

 由紀子は夫の顔を持ち上げて抱き寄せる。

 その胸の中で――


「…だれだ」


 勇一のおびえた声が繰り返されている。


「おまえは だれだ」


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― 新着の感想 ―
[一言] 読みました。ありふれた心霊物ではなく、現実としてあり得うる話だったので引き込まれました。 もしも自分や家族がこうなったらと思うとゾッとしました。
[一言]  拝読しました。  相貌失認に取材したお話かと読みすすめていたのですが、予想を上回って、褒め言葉として実に嫌な物語でした。  静かで、けれど覆しようもなく着実に身辺を侵食する異変の展開を素晴…
[一言] 読みました。面白かったです。 最後まで読んでも、なぜそうなったのかわからない。けれど、それゆえに残る不気味な読後感がいいと感じました。 ホラーを読むとき、やっぱりどこかで、自分の身に起きた…
感想一覧
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