自殺願望少年
林檎は何色と問われたら多くの者は赤、と答えるだろう。たまに問いの裏をかき異なった色を唱えたりする者や、多種類である青林檎から緑、と唱える者もいるかもしれないがそれらは排除する。
しかし実際、林檎の中身を見てみればそこには白にくすみをかけた薄い黄色が浮かび上がっている。
つまり赤と答える者たちは外観からの判断だけで答えを導きだしたというわけだ。それは決して間違ってはいない。むしろ多くの賛同を得られたその答えは例え間違った答えだとしても正解になる。
だとしても、ここにあえてまた問おう。
林檎が赤いと誰が言い出した?
青い林檎はないと誰が決めた?
悪と正義は何を基準に分けられる?
架空の存在と思われる神の使いと呼ばれる天使と悪魔。天使が人を助け、悪魔が人を唆すと誰が決めた?
少なくとも、人々の中で周知されている林檎は赤いという答えが、私に出せる唯一の結果だった。
死ぬしかない、死ぬしかないんだ。
少年の心は死という概念ひとつに絞られていた。
想像は自由だ。ここまでくるのにその少年はどうしたら一番楽に死ねるだろうという妄想の中で少なくとも50回以上は死んでいる。
少年の名は八代信行。中学二年生、来年高校受験を控えた学生の性分、勉学に勤しむ真面目な優等生を絵に描いたような少年だ。
何故、そんな彼が今、己の命を投げ捨てるのに必死なのかといえば、それは母親が原因だった。
信行の母はいわゆる教育主義者という奴で小学校の頃から専属の家庭教師をつけ、信行の学業を徹底的に見張り、将来は有名大学を卒業させ大手企業に就職させるという夢を膨らませていた。
どうしてそうなってしまったのかというと、幼い頃、信行の父は外で愛人を作り、信行と信行の母を捨てた。もちろん離婚という形で家族は崩れ、信行は母と生活を共にすることとなった。
それからが悲劇の始まりだったのかもしれない。信行の母は父への復讐を信行を自分の理想に近づけることで成し遂げようとしていた。信行が自分の理想に叶ったとき、彼女はようやくその呪縛から解き放たれる。私たちを捨てたことを後悔するがいい、と。
信行が何故そこまで母の心中を知っていたかといえば、それは彼女の日記を読んでしまったからだ。
寝る前に必ずその日記帳に向かって鬼の形相をする母の姿を、彼は幼い頃からずっと柱の陰から眺めていた。
そして、先日。信行の全国模試の結果が自宅に郵送されてきた。結果は19位。一般家庭の子供であればそれこそ両手を挙げ喜ぶような結果に信行の母は激怒した。
信行を一人で育ててきた14年間分の怒りを爆発させたように。信行自身ももちろん悔しかった。同級生が趣味や部活、恋愛に現を抜かされているのを見ながら自分は机に張り付き、教科書と参考書とにらめっこ。
その結果が、信行よりも努力している人間があと18人もいる現実を突き付け、これ以上何を犠牲に頑張れば自分は報われるのだと信行を縛り付ける。
悔しさに重なる母の激昂、信行は耳を塞ぎたくなるようなその言葉を聞いた瞬間、家を飛び出していた。
「アンタなんか何の役にも立たない!」
役に立たない、それは親が子供に言う台詞だったろうか。高台から広がる自分の生まれ育った街を眺め、信行は静かに考えた。
結局、自分は母の復讐の道具でしかなかった。それは幼い頃からどこか理解していた気がするのに、改めて言葉にされ、もしかしたらという母の笑顔を期待した自分の胸を引き裂かれた絶望感が信行に死を呼び寄せた。
「死にたい……死んだって、どうせ誰も悲しまない」
高台に設置された柵を飛び越えればあとは落ちるだけだった。真っ先にここを訪れたわけだったが、時が経ち幾分か冷静になった頭の中で改めて死に方を考えた。
そしてやはり簡単で楽な死に方。それは高い場所から落ちれば一瞬であるということだった。落ちている途中できっと気絶し、次に目を覚ますことは二度とない。
信行はそっと微笑んだ。
「(落ちる…だけだ。それで僕は…)」
「ほんっとーに死ぬのか?」
「!?」
誰もいないはずなのに声が聞こえた。後を振り返るが誰もいない。
「だ、誰だ!?」
目撃者が出てしまった。出来れば人目は避けて死にたかったと信行の真面目さがそうさせていたのに、全てが狂ったのだ。
「俺らのことじゃなくてよ、お前の話だよ、なあ、本当に死ぬのか?」
「っ…うるさい!死ぬんだよ!お前には関係ない!」
「いやいや関係あんだよ、だから話しかけてんだろうが」
苛立ち混じりにそう叫んだ信行の目の前ににょっと現れた白い翼。
信行の目は限界まで開けられた。そしてその正体と思われるものを、信行は口にした。
「て、天使…!?」
白い翼が人から生えている者、それだけのイメージから連想される生き物はそう天使だ。その答えを出すのは信行だけではないはず。だが、彼が目にしているのは白い翼を生やしてはいるものの、その目付き、風貌は信行の敵となるコンビニの前や駅で屯する不良のようで、髪型もライオンのようにこちらが威嚇されているようなものだった。
口調もさっきのものから判断すればまさに不良。信行は奇想天外の出来事の中、考えついた。
「(ふ、不良天使だ!)」
「失礼なこと考えてやがる顔だ、ぶっ飛ばしてやろうか、ああ?」
「ひい!」
思わず乗り越えようとしていた柵から離れ、奇抜な天使男から離れる信行。だが、後にまた妙な気配を感じ、そっと振り返る。そこには黒い翼を広げた男がいた。
「…どうしてエルはそうなんですか?…その姿は悪趣味だと前に言いましたよね」
「そういうテメーこそ、ニンゲンに羽生やして具現化してんじゃねーか」
「……お前に合わせたんです」
妙な男二人が信行を挟んで言い合いを始めている。その間、信行は二人をこっそりと観察した。始めに現れた不良天使に向かい合った新しく現れた黒い翼をもつ男。
それは悪魔のように見えた。ただ悪魔にしてはそれこそ禍々しいイメージが湧いてかなかった。
整った美形を彫刻のように固まらせ、波立たない静かな声は海のさざ波のように心地よさまで感じさせる。男がもし白い翼をつけていたらそれこそ素直に天使のように感じただろう。
「……俺はお前と違って事を滞りなく済ませたいだけです」
「聞き捨てなんねえなぁ。俺がややこしくしてるみたいに言いやがって」
「……違うんですか?」
信行はハッと肩を揺らした。今のうちに逃げてしまおう。先程まで自分の中で繰り返されていた死を追いかけなければ、彼は静かに二人の視界から外れようと後ずさった。
「おい、待てコラ」
「ぬわああ!!」
いつの間に移動したのか、不良天使の方が信行の背後にいた。見下ろす目はまさに野獣、捕食者の目付きだった。
不良など避けてきた信行にとってそれは人生初となる経験だった。
「……ほら、ややこしくしてんじゃないですか」
「うるせえ、カイム!」
また同じ光景が繰り広げられるかと思いきや、不良天使は信行に視線を戻した。
「よぉ、坊主」
にぃっと口角を吊り上げ、迫ってきた男は信行の思考を遮るように呼びかけた。
「俺たちはお前が想像するような存在じゃあない。けど正体は教えてやれねえ、が、役目は教えてやる」
信行はぎょっとする。まるで自分の心の奥底まで見透かすような男の力強い視線に。
彼らは信行の想像を超えた存在なのだろうか。
「……俺たちはお前に選択肢を与えにきました」
「選べ、お前の意志でな」
白と黒、静と動。対照的な彼らはそう言って信行を見下ろした。
「選択肢……?」
信行のつぶやきが零れる。彼らの正体は分からない。ただお互いをエルとカイムという名前で呼び合っていたことだけ。
「お前はそこから飛び降りてその生を終わらせるのか」
「思いとどまり、再び自分を苦しめる母親の元に帰り、残りの生を全うするのか」
どっちにするのだと二人が同じ視線を投げかけてきた。信行にはもちろん訳が分からなかった。突然彼らは現れ、自分の思考回路をめちゃくちゃにし、どうしたいのだと問う。
そんなこと今さらではないかと小さな怒りを覚えた。
「僕は死にたくてここに来たんだ、お前たちが邪魔するから僕はまだ生きて…!」
「それは違え。俺らの声は迷いのあるニンゲンにしか聞こえねえんだよ」
「……お前は生と死の間に立っています。どちらかを選ぶことの出来る数少ない人間です」
信行の思考がまるで彼らの手の中に収まったかのように、その選択を迫られ、天秤が浮かび上がった。
迷いと彼らは信行に言った。確かに信行は今、悩んでいた。
生死を選ぶこの瞬間を、時を忘れ、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、答えが出せなかった。
行き着く答えが見つからず、自分ではない誰かに答えを求めようと、視線をあげると信行の目に飛び込んできたのは暇を持て余した二人組だった。
「てめ………その手はナシだろが」
「………知りませんよ、使える駒を使っただけですから」
「なにやってんだよ!アンタら!」
信行は思わず叫んでいた。
彼らはどこから飛び出てきたのかモノトーンで基調された椅子に座り、チェスのような遊具を置いたテーブルを挟んで向き合っていた。
信行の渾身の叫びも虚しく、二人は遊戯に夢中だった。
「ぐあああ!卑怯だぞ!てめぇ!」
「……うるさいです、たかがこんな遊戯にムキにならないでください」
「たかがこんな遊戯に確実な勝ち狙いで来てんのはどこのどいつだよ、ああ?」
「………………テロス」
エルの言葉を全て無視し、カイムは長い指先でつまんだ駒を王座と思われる場所へ置いた。
「勝手に終わらすな!」
ダァン!とエルが盤上をひっくり返した。その様子をカイムは静かに見送った。
完全に蚊帳の外にされている信行はようやく収拾のついたと思われる二人に声をかけることが出来た。
「いい加減、僕の話を聞けよ!」
「ああ?なんだ、てめえ選んだのか?」
「違うよ!あ、いやその……」
いざ、相手にされると信行は尻ごみしてしまった。エルの視界に自分が入っていると思うと自然と肩がすくんでしまうのだ。
だから信行は静かな男、カイムに助けを求めた。
「…考えるの、手伝ってほしいっていうか…アンタたちからなんかお告げ的な何かはないのかなって…」
「馬鹿か、てめえは」
取り付く島もないといえよう。エルは信行を鼻で笑った。
「俺たちはお前に選択肢を与えにきたっつっただろうが。そこに俺らが関与することは許されてない」
「……選ぶのはあくまでお前の意思。俺達からお前に送る言葉はありません」
二人は信行に言いたいことだけを言って、そして黙り込む。そんな彼らの態度が信行の怒りを買った。
「なんなんだよ!僕が死ぬのを邪魔して突然現れて言い放題!何がしたいんだよ!僕に何をさせたいんだよ!」
こんな風に声を荒げることは信行にとって初めてのことだった。怒りを誰かに本気でぶつけるという行為に全てを吐きだし終え、初めて気付いた。
「…?」
胸がやけにスッキリしていた。心臓に重たい病を抱えていたかのような違和感が消え去り、大声を出し嗄らした喉は妬けるように痛いはずなのに今ならどんな言葉でも出せる気がした。
少年は初めて気付いた。生きるという証の一つに。
「んなに怒鳴るな、キレる必要なんてねえだろ。てめえは生きるか死ぬか迷ってりゃいいんだ」
「……人間は怒らなければ生きられない生き物です、まだ生きている限りは無理です」
「ああ?……あーもー、さっさと選べよ」
面倒がるエルにカムイは静かな溜息を溢す。信行の胸には不思議な感情が渦巻き始めた。
「…ふふ、はは、あははは!」
おかしくてたまらなかった。簡単なことだったのだ。信行は掠れる喉の奥から笑い声をあげた。
「頭のネジどっかいっちまったのか?コイツ」
「……さぁ」
「あはは……は……分かったよ、僕、分かった」
信行は笑ったことで出てきた涙を擦りながら、呆れる二人を見上げた。
「生きるよ、僕」
二人の表情に変化はない。当然だろう。信行が決めろとそれしか言わなかった彼らなのだから。
「…怒れば楽になれるってこんな当たり前のことが分かってなかった。誰かに怒りをぶつけるのは間違ってると思ってたんだ」
信行の今までは母に言われるがままにしてきた自分、そこに果たして無以外の感情が存在しただろうか。答えは見えていた。
信行の目は目の前の情景を映さず、過去の自分を振り返るように巡る。
「自分勝手に生きることは誰かを傷つけると思った。僕は傷つける側の人間にはなりたくなくて、それ以外の選択肢を見失ってたんだね」
信行の父が自分と母を捨てたのは何でもない自分勝手な気持ちの所為。信行はずっとそう思い込み、囚われ続けていた。
「だから、言っただろ?」
エルの自信に満ちた声。信行は彼らを見た。
「俺達はお前に選択肢を与えに来たんだってな」
「……生きるか、死ぬか?」
信行はおかしそうに言った。
「極端だよ、しかもヒントもなしって」
そう言うが、もう彼らに怒りを覚えることはなかった。信行の見つけた答えが彼をまっすぐに支えてくれるから。
「じゃあな、不良天使と無気力悪魔」
「だから違うっての」
「……無気力…」
「何でもいいよ、もう」
信行は彼らに背を向け、去って行った。その背中を淡い光が追いかけて行く。
その光はこれから彼がどう生きて行くかを表わすものだった。信行は家に帰り、母に怒鳴るだろう。そこから母との関係がどうなるかは予測不能だ。ただ彼は選択した。怒るという行為を通して、自分はまだ生きたいと思った。
自分たちにとっては無人になったエルとカイムはどこからか取りだしたパネルを操作し始めた。
「八代信行、生きることを選択…っと。これで今日のノルマ達成だ、帰るぞ、カイム」
「……エル」
肩を鳴らし、翼を羽ばたかせようとしたエルにカイムは静かに声をかけた。
「八代信行……初めから怒らすつもり、だったでしょう」
「…ああ?何の事だよ」
カイムの鋭い観察眼から逃れるかのようにエルは背を向けた。
「俺達がニンゲンの生死にとやかく言ったり関わるような事をすんのは規則違反だろおが、当たり前のことを言わせんな」
「………そうですか」
カイムは納得したフリをする。いくら自分が意見を言ったところで目の前の男が首を縦に振る事がないのを知っていたからだ。
カイムの黒翼がバサリと跳ねた。黒い羽が舞い、彼の痕跡を残すがそれが誰かに拾われることは決してない。
「そういえば…」
羽音に混じり、つぶやいたカイムの声をエルは拾った。
「…聞きました?彼、お前が不良天使だって……」
「……そういうてめえこそ無気力って言われてたなあ」
エルは青筋を立てながら鼻を鳴らす。カイムは今日初めて口元を緩め、ゆっくり飛翔した。
「御使いの首席が不良……笑い話です」
「落ちこぼれに笑える話かよ」
「…俺は才能を持てあましてるだけなので」
「言ってろ」
白黒の羽が入り乱れて舞い落ちる。彼らの姿が地上から見えなくなったその時、その羽もなかったように跡形もなく消える。
人間の知る天使と悪魔は人を救ったり、陥れたりする。だが彼らは違った。
命を運ぶ者として、両者択一を掲げ、本人の意思で決めさせる。その答えが如何なるものでも彼らは構わない。
選択を忘れている人間たちの頭上を飛び交い、自分たちの声の届く人間の元へ降り立つだけなのだ。
ただ、彼らが如何なる存在であっても彼ら自身を悪か正義か決めようとする者がいるのなら選んでほしい。
彼らが地上に降り立って良いのか、否か。