少年の冒険
夏休みも半分を過ぎたころ、秋翔は、ある地図を描いていた。
団地の自室にある机の上、方眼紙に鉛筆で描いた線はまだ途中で、濃くなったり薄くなったりしている。
それは学校で習うような正確な地図じゃなかった。
でも秋翔にとっては、いちばん“本物”に近いものだった。
始まりは、団地の裏手にある林。
そこからモールの駐車場を通り抜けて、フェンスの穴をくぐり、小さな斜面を下った場所にある、名もない空き地。
周囲には木々がまばらに生えていて、昼間でもほんのり薄暗い。
そこにある石、埋もれかけたパイロン、
割れた窓の残る小屋。
それらは誰にとってもただのゴミかもしれない。
でも秋翔にとっては、地図に記す価値がある“発見物”だった。
今日も朝からじっとしていられなかった。
窓の外でセミが鳴いている。
けれどその音すら、耳に入らないほど気が急いていた。
昨日見つけた“道じゃない道”の奥に、たしかに何かがあった気がする。
見たわけじゃない。
けれど、あの木の根元の空洞の先に、まだ誰にも踏まれていない地面が広がっていると、確信のように思えた。
水筒に冷たい麦茶を入れ、パンを一つポケットに入れて、リュックを背負った。
虫除けスプレーを足首に吹きつけると、母の声が遠くから聞こえた。
「どこ行くの? 暑いから帽子かぶってねー」
秋翔は「うん」と返事をして、でも帽子は玄関に置いたまま、階段をかけおりた。
エレベーターがない団地に住んで十年以上、五階からの降り方には自信がある。
最後の段をスキップして飛び降りるのが、毎回の締めくくりだった。
自転車にまたがると、空気が流れた。
風は少し湿っていた。
アスファルトの照り返しで頬が熱い。
それでも秋翔の目は前を見ていた。
この町の中で、ほんの少しだけ自然が生き残っている場所。
雑草が好き勝手に伸びていて、けもの道のような踏み跡が続いている。
その先に何があるか、誰も教えてくれない場所。
ペダルを漕ぎながら思い出すのは、あの紙切れのことだった。
“ここはまだ、だれのものでもない”と書かれていた、少し泥で汚れた紙。
あれを書いたのは誰だったのか。
男か女か、大人か子どもか、それすらわからない。
でもその一文は、ずっと秋翔の心のなかに棲みついていた。
何度も脳裏で繰り返して、意味を考えて、でも答えは出ないまま。
ただそれが、とても大切なことだという実感だけがあった。
フェンスの穴をくぐり、草むらを進む。
網に絡まる朝顔を手で払いながら、昨日見つけた“道じゃない道”へ足を踏み入れる。
そこには足跡がなかった。
誰のものでもないという感覚は、足の裏から伝わってくる。
草の感触、土の湿り気、枝を踏み折る音、すべてが新しい。
歩きながら、秋翔は考える。
この町のこと、自分のこと、誰にも話していないこと。
団地の仲間たちは、最近はもうゲームの話ばかりで、こういう場所に来たがらない。
地図を描いていることも、誰にも言っていない。
誰かに見せたら、笑われる気がした。
あるいは「別にすごくないじゃん」と言われるかもしれない。
でも秋翔は知っている。
こういう場所に足を踏み入れるのは、ただの好奇心だけじゃできないってことを。
茂みの奥に、木でできた柵のようなものが見えた。
半分壊れて、苔が生えている。
近づいてみると、古い井戸だった。
今は使われていない、小さな石組みの井戸。
中をのぞくと、暗くて何も見えない。
だけど風が、確かに下から吹いてきた。
見えない何かが、そこにある。
秋翔はその前にしゃがみこみ、そっと地面に手をついた。
湿っている。
だけど冷たくて気持ちいい。
音がない。
風も、鳥も、セミの声すら届かない。
ここだけが、町の時間から外れている気がした。
しばらく、動かなかった。
手の中で、土の感触を確かめる。
自分の呼吸の音だけが耳に届く。
それが、とても大切な音のように思えた。
立ち上がったとき、影が長く伸びていた。
気づけば陽が傾きかけていた。
時計は見ていない。
でも時間が過ぎていることは、空の色でわかる。
いつもの、町じゅうに広がる“あの音”が、もうすぐ聞こえてくる。
秋翔はリュックからメモ帳を取り出して、ページの端にこう書いた。
「井戸 誰もいないのに風が吹く」
書き終えたそのとき、遠くの方から、あの音が小さく鳴り始めた。
帰り道、陽射しはもう赤くなっていて、団地の窓に反射する光がきらきらしていた。
商店街のシャッターが半分閉まりかけていて、犬を連れた老人がゆっくり歩いていた。
秋翔は自転車を押して歩いた。
ペダルを踏むには、まだ体が少し重たかった。
でも、胸のなかは軽くなっていた。
今日見つけたものが、きっと自分の一部になるとわかっていた。
たとえ誰にも言わなくても、誰にも信じてもらえなくても、
ここにいた時間は、確かにあった。
その証拠は、ちゃんと手の中に残っている。
明日もまた、新しい道が見つかるかもしれない。
あるいは、何も起こらないかもしれない。
でも、それでも秋翔は歩く。
町の中の、小さな隙間を探して。