薔薇は教え薄荷が告げる
〝運び〟の詰める建物は、人々の予想に違わず紙が多い。予想以上というべきだろうか。契約書に通行証、当番表に雑多なメモ書き、そして運ぶ手紙。紙のない部屋など見当たらないほど、彼らの仕事場には紙が多い。運びの中でも〝文運び〟と呼ばれる手紙専門の運びは、紙に埋もれて暮らしている。離れていても声や意思を伝えることのできる技術が普及しない限りは、これは減ることはないだろう。たとえば、国軍術兵などが持たされている伝板などが量産できるものにならない限りは。
今日も集荷が終わり、袋にたっぷりと詰め込まれた手紙が組合の仕分け部屋へと運び込まれた。布袋に詰め込まれた手紙は意外なほどに重い。そして頑丈で脆い。荷運びと違って壊れ物としての扱いは必要ないが、配慮がなければ酷いことになる可能性は十分に持ち合わせている。預かり物で、価値はどうあれ、雑に扱っていい物ではないと理解してかからなければならない。仕分けをする少年たちも、怒鳴り声と拳という処罰を通してそれを知り始めていた。
本当に上等な、便箋も封筒もあって封閉じがしっかりしているようなものは預かるときから別に分けられるから、隅のこの部屋に集まるのは一般庶民の、特に中流より下の人々の手紙ばかり。封筒があれば上々。何枚かを紐で括ってあるのもそれなりだ。学が無く文字も書けないような人が、〝文代わり〟や近隣の人に頼んで書いてもらった手紙などは本当に、紙切れと呼ぶのがふさわしい物であることが多い。まだらで厚みも一定ではない灰色の粗悪な紙一枚きりにあれこれと書きつけてある。それでも手紙なのだ。
癖の強い字や小さすぎる字と格闘して、下っ端の少年たちは手紙の束を纏めていく。水か汗か、やはり紙が悪いのか、インクが滲んだ文字に目を凝らして、時間は過ぎる。間違いなく、破損なく、そして三時間ほどで終わらせなければ大人たちに怒られるのは決まっていた。夕飯抜きの悲劇だってありうる。インクと紙の匂いに意識を囚われながら、これ以上文字を滲ませることなど無いように汗に気を使って、彼らは黙々と作業する。
丸めた布切れがあると思えば、それにも字が書きつけてある。広げて見ると川を越えた先にある町の名前と人の名前とが並んで書かれていた。距離がそれだけあれば、このような代物でも運ぶにはかなりの金額がかかる。道行きの商人にでも預ければいいところ、わざわざ運びなどに手渡したのは、どうしても届けたいものだからか。
人々の思いを垣間見ながら、少年たちはいつものように手紙を分別し続けた。そうして山が半分に減った頃に外から鐘の音が聞こえてくる。進度は予定通り。しかし繰り返される鐘の音は小さな手を急かした。
そんな少年たちのうち一人、ヤンの手がぴたりと止まったのは、厚い束を丸めて雑に紐で括った手紙を引き抜いて、折り重なっていた手紙の山が崩れたときだった。座って作業する少年たちの中でも一番若い彼は目を瞬いて、恐る恐るといった調子で、丸まった手紙を握るのとは違う手で、そうっと、それを取り上げた。
真っ白な封書。
どうあってもこんなところにあるのは不釣り合いの、まぶしい白色だった。こんなところに置いて、インクを少量でも擦りつけてしまうと言い訳ができなくなるような、汚れの目立つ純白。撫でてみると手触りも他の紙と違う、柔らかな上質紙だ。
また困ったのは、それが本当に真っ白であるということだった。宛名も、差出人の名も、何も無いのだ。几帳面なほどぴたりと糊で封されていて、隙間から中身を覗き見することもできない。中身が入っていることは確か。それも、三枚から四枚、結構な量だ。
ヤンは慌てて立ち上がり、封書を手に仕分け部屋を飛び出した。誰か偉い人の、もしくは裕福な人の手紙が届かなかったとあれば、当人にとっては勿論運び屋にとっても一大事だ。封に何も書かなかった差出人に非があるとしても、手ずから手紙を預かってきた身でそれを指摘できなかったなど。しかもこんな、見るからに分類の違う手紙の山に迷い込ませて。
「親方……」
それは彼らのように仕分けを任される下っ端よりは上の年長組の、集荷の少年たちの失態には違いなかったけれど。見つけてしまうと己がやらかしたようにも感じられたのだ。彼は胸のあたりにじんわりと広がる不安を抱えながら、廊下に出て上司を呼んだ。
呼びかけたはいいが、その人の姿は広い廊下の何処にも見当たらなかった。仕方なくうろうろと廊下を辿って手紙預かりの受付を覗くと、背の高いその人が天秤に手紙の束と錘を載せながら客人と揉めているのが見える。ここで話しかけてもただ怒鳴られるだけだと経験で知っているヤンはほとほと困り果てた。
判断を任せられそうな兄貴分たちも、皆外の仕事へ出てしまった後だ。今日は丁度月初めで、市が立って道が混む上に、町の外に出る運びとなると通行証の更新手続きなども重なっている。すぐに帰ってくるとは思えなかった。
はあ、と溜息を吐いて、ヤンは大事に手にした白い手紙を見下ろした。柔らかい紙の感触。誰が誰に届けようとしたものなのか。この中身には何が書いてあるのか。ともかく、このままでは誰かが困るのは明白だった。今手にした彼自身が困っているように。彼は元から下がり気味の眉を更に下げて、もう一度溜息を吐いた。
「なにしてんの」
声をかけられ、ヤンはびくりと肩を揺らした。見れば肩から文運びの鞄を下げた、年長組よりもまた少し年上の、青年と呼べそうな年頃の少年が立っている。
春の終わりに、ヤンたちよりも遅れて入ってきた新入りだ。細くひょろりとしていてどうにも頼りなさそうだというのが最初の印象だったが、働かせてみるとそうでもないのだと、ヤンは兄貴分から聞いていた。なんでも要領がいい上に外面の作り方がすこぶる上手いとかで、出先での受けがいいらしい。素性もろくに知れず、最初は少しばかり年下の少年たちに混じって集荷だけ任されていたが、すぐに手紙を配って歩くようになった。名前はフェイルと言った。
手紙の受け渡し以外で彼と話すのは初めてのことで、幼い少年は面食らっていた。
それでもフェイルの態度は気さくで、声は綿毛のように軽かった。事あるごとに圧力をかけてこようとする集荷組の少年たちに比べればなんともやりやすい相手だと、ヤンに思わせる声だ。目を丸く、身を竦めていたヤンはおずおずと手にした手紙をフェイルに見せる。
「これ、なんも書いてなくって……」
「集荷係がトチったのか。それは困った」
小声で言ったヤンの、はっきり終わらなかった言葉の端を絡めて、フェイルは独り言のように言った。その言葉もあまりに軽く、なんとも心許ない感じがした。ヤンは三度目の溜息を吐く。
「まあ悪いのはお前じゃないから、夕食にはありつけるだろ」
溜息を吐いて落ちた肩をバシッと叩いて、フェイルは折ったシャツの袖から伸びる細い腕を挨拶でもするように動かした。
そういうことじゃない、と、ヤンが思ったことをそのまま口に出しそうになった、その瞬間だった。
「あっ」
フェイルの手が閃くように動いて、ヤンの手からするりと封書を奪い取る。引き攣った傷跡が甲に目立つ左手は、その手負いの見目に反して実に素早かった。昼下がりの窓から注ぐ日光がその薬指の付け根で反射して眩しく見え、それでヤンは、フェイルが指輪をしていることに気づかされた。
スリのようだ、とうっかり感心してヤンが動きを止めた間に、フェイルは封書をひっくり返しながら眺めて、思いついたように口元へと近づける。
「おい、ちょっと――」
さすがに動揺したヤンを余所に、フェイルはにこりと笑った。伸びてきた小さい手も手紙と同じように簡単に掴んで、小さな子供が友人同士でやるように繋ぎ、大幅に振って引く。
「ワングレイの屋敷の婆さんだな。あそこいつも十通ぐらいまとめて出すから、一つ書き忘れても気づかないんだろ。婆さんだし」
引かれるまま、思わず、と足を前に出してフェイルと共に歩き出すことになったヤンは、その言葉を理解するのに暫くかかった。
「えっ、なんで、分かんの?」
はっとして顔を上げたヤンは、またフェイルの笑顔を見ることになった。特別美男というわけではない顔立ちのフェイルだが、配達先の受けがよいという話も、子供心に納得がいく顔だった。理由は、と聞かれても答えられはしなかっただろうが。ヤン自身はあまり外回りが得意なほうではなかったから、どうしたらそんな顔が作れるのか想像もつかなかった。
「詰め仕事で鼻が馬鹿になってるかな。薔薇の匂いしない?」
その彼に比べて、フェイルは何かを話すのも滑らかだった。
言いながらヤンの鼻先で手紙をひらひらと動かしてみせる。ヤンは薔薇の花などまじまじと嗅いだ事もなかったが、確かに、手紙からはほのかな良い香りが感じられた。
「あの人いつも便箋に香水染ますから。この匂いなら間違いない」
確信を持った声を発して、人の手を引いたまま何処に行くのかといえば、受付だ。揉め事も解消されたのか、彼らの親方――組合長は天秤をしまっているところだった。自分たちに気づいて向けられた視線に、ヤンは慌てて背を伸ばした。
フェイルは此処でも笑顔を浮かべて話を切り出した。ただ、声だけは先ほどの軽薄なものではなく、どこかに錘を入れた落ち着きのある印象のものだった。ヤンはぽかんとして、手を繋がれたまま大人二人の成り行きを見上げているしかない。
こういうわけで、と簡単に事情を説明し、「匂いもそうだが、この糊の付け方はきっとワングレイの婦人の手紙に違いない」と物怖じしない態度で断言する。一つだけではなかった根拠に驚いたのはヤンだけではなく、組合長も半ば呆れたような、感心した顔をしていた。集荷の少年などは件の手紙をいつも見ているはずではあるが、気づくかどうか定かではない。気づいたとして、ここまで強気に出れはしないだろう。
なるほど、わかった、しかし。前置いて、組合長が指摘する。
「ワングレイはいつも、色のついた封筒だろう」
「これは最近の流行だからだと思う」
思いがけない指摘にヤンが声を上げる前に、フェイルは返した。動揺など微塵もない、指摘を予想していたような対応だった。深められた笑顔はしたり顔にも見える。
「白封筒。流行ってるでしょ。なんだっけ、歌劇かなんかで。ワングレイのお屋敷ならそういう趣向だと思うけど」
たしかに、ワングレイの屋敷から出される大量の手紙がいつもなら薔薇色の封書である、というのは、フェイルの記憶にもあったのだ。それでも彼の確信が揺らがなかったのは、匂いと糊付けがいつもと変わらないという自信と、少々の知識があった為。
彼は肩を竦めて続けた。
「ワングレイの他の分はもう出しちゃったんでしょ、届け先が町の外なら門も出たんじゃない? 確かめようとしたらかなりかかるよ。さっきの分終わったし、僕がお屋敷まで行って確かめてこようか」
手紙をゆらりと動かして薔薇の香をうっすらと漂わせ、むうと唸った組合長を前に。流れるように言いきったフェイルは黙って返事を待った。
組合長が悩んで頷くまでは、そんなに長い時間ではなかった。彼も長年〝文運び〟として働いてきた勘が備わっている。恐らく間違いではないとして、彼はフェイルを送り出すことに決めた。
フェイルは頷いて、それでは、と手紙を肩に提げたままだった鞄に滑り込ませた。予定より早く仕事を終えて戻ってきた後とは思えない、疲れを感じさせない軽い足取りで外に出ようとして――ヤンの手を握ったままだったのに気づいて、それと思いきり上に振り上げてから放し、小首を傾げる。
「一緒に行く?」
一連の流れに気をとられていたヤンは、問われると我に返り、ぶんぶんと首を振って上司の横に戻った。いってらっしゃい、と小声で言って、また笑顔になって出て行く他の先輩運びたちと似つかない人を送り出す。
今のは夢だったのでは、と思うほど。幼い〝運び〟にとっては奇術のような時間だった。まだ集荷も配達も任されたことのないヤンも、手紙をしっかり届けることの大切さは日々感じ取っているつもりだったが、〝運び〟の仕事がまさか匂いや封、癖どころか流行にまで気を配るものだとは考えもしなかった。
ヤンにとって〝文運び〟は兄弟が増えて楽に暮らせなくなったが為の、必要にかられて探した仕事だった。字は読めるし、走り回って手紙を集めたり配ったりなら、自分にもできると。
けれど、思ったよりも深みのある仕事に足をつっこんだのかもしれない……と、彼はこのとき感じたのだった。新入りの、時間で言うならこの場所では自分よりも後輩になる運びに気づかされたのだ。
「こら、さっさと仕事に戻らんか!」
ぼうっと突っ立っていたところに大声で怒鳴られて、ヤンは親方の拳が降ってくる前に弾けるように駆けだした。
「これお前の分」
夕食の後になって、本当に大丈夫だったのかとやきもきしていたヤンの気も知らず、フェイルは上機嫌で帰ってきた。鼻歌交じりに、手土産まで持って。
「なに?」
「薄荷嫌い?」
受付台を掃除していた手を止めて、ヤンは差し出された小さな包みを受け取った。薄い紙の端は綻びないようにと綺麗に折り込まれていた。
かさかさと音を立てながら開けると、昼間の手紙のように白い棒状の砂糖菓子が何本も並んでいた。フェイルの発言から匂いを嗅がずとも薄荷菓子だと理解して、ヤンは首を横に振った。むしろこれは彼の好物だった。
「なんかあったの」
ヤンはフェイルが自分の好物を知っていたとは考えなかったし、タダで菓子を貰えるとも考えなかった。うまく礼を言えないまま、先に問いかけをして相手の表情を窺う。
「聡いね」
フェイルはやはり昼間のように笑った。このような町の運び屋には似合わないような顔だと、ヤンには思えた。
それは一種の直感だったのかもしれない。
「経緯を説明したらワングレイの主人のほうに甚く気に入られて、他の仕事が貰えそう。だからまあ、お礼かな」
フェイルは受付台に肘をつきながら、薄暗い中で内緒話でもするような声音で言った。昼に手紙を持っていた手は今は空で、ひらりと動いた先はワングレイの屋敷の方向だろう。満ち足りたような顔をしている。
「此処出てくってこと? 運び辞めんの?」
「此処は出てく」
つられたように潜めた声で問いかけると、問うたヤン自身も予想した通り、すぐに返答があった。
「アンタ仕事早いから、親方気に入ってたよ」
ヤンは言葉を重ねた。なんとなく、もう何度もこんな風に会話をした仲のような気がしていた。勿論錯覚なのだが、なんとなく、だ。何か近しいものを、ヤンは彼から感じ取ったのだ。
言われて、フェイルはどこか困ったように笑った。
「来月まではいるよ。此処の親方ともそういう契約だからね」
「三月だけ?」
「五千だけ貯めさせて、って頼み込んだから。だからもうそろそろだった。ちょうどいい。お前のお陰」
春の終わりから夏の終わりまで。それきりの仕事だったとフェイルは言う。白く細い手はヤンの肩を叩く代わりに台を叩いて、撫でるように横に流された。指輪がぶつかって硬い音を立てた。
「お前はもう少し此処にいて、仕事しな。きっと上手くなるから」
その言葉は、昼に発されたものに似て軽かった。しかしなげやりなのではなく、何か確かなものを含んだ声でもあった。適当に少年を励ましたときと、手紙について言ったときとが、綯い交ぜになった半端な声。
言った本人もどっちにしようか図りかねている、そんな雰囲気がヤンには感じ取れた。フェイルの言葉は誰かを丸め込み、自分の好きに振る舞えるだけの力を持っているが、今はそのようには使われなかった。
ヤンはそのことも薄々感付いていた。そして、それは昼も手を放した人の気遣いかもしれないと考察する。幼く拙いながら、その思考はこのとき的確なところを突いた。
「ありがと」
菓子ではなく言葉に礼を言って、ヤンは笑った。それはまだ彼が目の前に見ていた運びの笑い方ではなく、屈託のないただの子供の笑顔だった。
§
手にした、いつかのように白い封筒の宛名を確かめようとして、ヤンは甘い香りに気づく。それは薔薇のような華やかなものではなく、清楚な鈴蘭の匂いだった。差出人も見た彼は、芳香が意味するところに気づいて頬を緩めた。
フェイルは言葉通り、あと一月を勤め上げて組合を後にした。ヤンは彼と色々と話したが、左手の傷と指輪のことは聞いてもはぐらかされて終わった。組合を出た後の仕事のことも同じように例の軽い口調で誤魔化されたが、その後も運びを続けている、とは、風の噂と、年単位のときどきで顔を出す本人からヤンが聞くところだ。
あの時渡された薄荷菓子の包み紙を、ヤンはまだ持っている。護符のようなものだった。薄荷の残り香さえなくなってしまったが、当時の記憶は薄れることなく彼の中にある。
あの日、ヤンの将来は決まってしまったのだ。薔薇の匂いの封書の偶然と、薄荷菓子の後押しで。
ヤンは今日も町を走り手紙を配って回っている。彼は町の運びの誰よりも早く、一つの問題もなく手紙を届ける。客からの受けもよく――親方として世話してもらった人の娘との縁談もまとまって、次期文運び組合長の席は確かなものとなった。順風満帆、まったく充実した人生である。
今日も彼は、誰かに微笑みかけて言うのだ。
「お待たせしました、〝運び〟です。手紙のお届けにあがりました」