9.下町で美少女と出会ってしまった
「ええと……今から?」
俺の言葉にはっとした顔で、メアリーは慌てて手を離して椅子に戻った。ベッドで眠るウィリーをチラ見して、にっこりと笑いながら首を振る。
「ううん、今日はウィリーの看病もしたいし、あんたも足を怪我してるし。またそのうちね」
「いいから行けよ」
低い声は俺じゃなくて、壁際のベッドから聞こえてきた。ウィリーはいつの間にか起き上がってて、相変わらずむっつりと不機嫌そうな顔でメアリーを見ている。
「おまえはどうせ先延ばしにして、あれこれ理由を付けて行かねえんだろ。行くと決めたらとっとと行ってこい」
「やだよ! あんたはそう言ってまたここを抜け出して泥ひばりをするつもりでしょ!!」
「しねえよ。おまえがガミガミうるせえからな」
「言ったね! じゃあもし次抜け出したら、あんたをベッドに縛りつけてやるんだから!」
俺は片肘をついて、半目でごくごく紅茶を飲んだ。
なんつーか。
他人の痴話喧嘩っつーのは、当人たちは真剣なんだろうけど側からみたら腹いっぱいだ。
「あ……っと、でもやっぱいい! 今日は花売りも休んだし、家事を片付けないと!」
メアリーの視線が俺の足へと動いたのを、俺は見逃さなかった。くそ。まだ痛むんだぞ。だけどあんな打ち明け話を聞いた後じゃ、こう言うしかないじゃないか。
「行こうぜ、メアリー。俺の足もおまえの母さんのおかげでだいぶ良くなったからさ」
ぱあっと目を輝かせたメアリーは満面の笑みを俺にむけた。ムカついた顔をするウィリーに内心でざまあみろと思い、俺は紅茶を飲み干した。
◆
スラム街--ここはロンドンの東側、イーストエンドというらしい--を通り過ぎて、俺たちは大通りを歩いている。南側の空にぽつんとロンドン大火記念塔の先っぽが見えてきて、俺は「あっ!」と声を上げた。
「どうしたの、アトス?」
「忘れてた! トムを置いてきちまった」
そうだった。あの貴族から逃げるのに必死ですっかりトムのことを忘れてた。
俺たちは道を左に曲がって、先に河岸に寄ることにした。通り沿いの階段を下りてみたが、トムの姿はどこにもない。ちょうど川から上がってきたヤツに聞いてみても「知らない」と首を振られた。
「収穫物を売りに行ったのかも。うちに寄ったらウィリーが伝えてくれると思うよ」
「そうだな、ひとまず先に街に向かうか」
悪いことしたな。この件が片付いたら飯でもおごって……いや、そもそも金がないから仕事を見つけるところから始めるか。
そんなことを思いながら、俺はメアリーとまた大通りを西に向かって歩きだした。
メアリーいわく、チープサイドはロンドンでも一、二を争うような大通りらしい。立派な身なりの男たちや、でかい馬車が行き交っている。
そこから外れて何度か道を曲がった後で、メアリーはふいに足を止めた。小さな通りには3、4階立ての住宅や店が連なっている。そんな店の一つを彼女はぼんやりと眺めていた。
「もしかして……ここがメアリーの父さんの店?」
「うん……あそこ、今配達の男の子が立ってる階段で、あたしもよくお客さんたちと話してたなあ。母さんも一緒に。そっか、薬局になったんだ」
窓辺に置かれたガラス瓶を見つめ、メアリーは淋しそうに呟いた。俺はどうすることもできなくて、ただ隣に立っていた。
(……失敗だったかな。やっぱ来ない方がよかったんじゃ)
後悔しかける俺の右手をぎゅっと握って、メアリーは心の内を読んだように首を振る。
「ありがとう、アトス。来れてよかった。あの町で暮らすうちに段々ここでの暮らしが夢みたいに思えてたんだ。違ったね……ちゃんと覚えてたよ」
目尻をぬぐって、メアリーはいつもの元気な顔で笑ってみせる。俺は一人っ子だけど、もし妹がいたらこんな感じだったのかな。俺の手を握る小さな手を俺もぎゅっと握り返した。守りたいと思ったんだ。
◆
俺たちはさらに北西へと進んでいった。
メアリーが通っていた小学校は、さっきの薬局から数十分程の場所にあった。
周りをぐるりと柵に囲まれた、味気ない鉛色の建物だ。敷地は手狭で、校舎は二階建てだが数クラスも入れば満員になりそうだった。
門の前には馬車が一台停まっていた。
メアリーは柵の間から校舎を覗いて、ふるふると首を振る。
「もう授業が始まってるみたい。中には入れないし、まわりをぐるっと回ってみてもいい?」
「ああ。昼休みか下校時間までどっかで時間潰してもいいし。とりあえず歩いてみるか」
あの馬車の側は避けて(孤児がうろついてるって告げ口されたら面倒だしな)俺たちは反対方向から柵に沿って歩きだした。
柵の周りには青々と葉をつけた街路樹が植わっている。昨日と違ってシャツも着てるし、今日は晴れてるからそこまで寒くない。たぶん季節は春先だろう。
数分も経たないうちに、俺とメアリーは学校の周りを見終えてしまった。あの角を曲がれば、一周回ってまた門の前に戻る--という手前で、その角んとこに人影が見えた。
女の子だ。
背が低くて、メアリーよりも年下みたいだった。
こっからは後ろ姿しか見えないが、金髪にラベンダー色のドレスを身につけて、白い靴下に黒い靴を履いている。遠目から見ても俺たちとはまるで違う「いいとこのお嬢様」といった少女である。
ぴた、とメアリーの足が止まった。
「……ビー?」
独り言のように漏れた声に俺は首をかしげる。
「知り合いか?」
「うん……なんであの子がここに?」
あきらかにメアリーは動揺していた。
ひょっとすると、あの女の子が彼女の友だちなのかもしれない。だったらまさかこんな所で遭遇するとは思わないだろう。驚くのも無理はない。
ビーと呼ばれた少女はあきらかに身を隠していた。こそこそとした様子で、ときどき角から門の方角をのぞいては、またぱっとひっこんでいる。
「……ビー、どうしたんだろ」
「あの門の前に馬車が停まってたよな? なんか関係あるかもしんねーな。声掛けてみる?」
俺の提案にメアリーは迷うような顔をしたが、結局こくんとうなずいた。友だちの心配の方が勝ったみたいだ。
少女を驚かさないように、俺たちがいることを知らせようと足音を立ててゆっくり近づいた。それでも彼女はビクッと飛び上がって、おそるおそるこっちを振り向いた。
「えっ…………メアリー?!」
「ビー! 久しぶりっ!!」
二人は互いに見つめ合うと、がばっと抱きついた。
よそよそしさは全然なくて、心から再会を喜び合ってるのが部外者の俺から見ても分かった。
(いいな、こんな友だちがいて)
心があったまりながらも、半分メアリーをうらやましく思っていると--。
突然、ビーはきゅっと顔をこわばらせて、また門の前を盗み見た。
「ねえ、どうしたのビー? あの馬車が気になる?」
「……うん。会いたくない人がいるの」
そう言うと、ビーは人見知りするようにチラと俺の顔を見上げた。友だちの隣にいる年上っぽい知らないガキが誰か気になってるんだろう。
メアリーも気づいたように俺を見て、にっと笑う。
「ビー、この人はアトス。あたしの友だちなの。っても昨日知り合ったばっかだけど、いい奴なんだ。アトス、この子はベアトリクス。まわりの子はビーって呼んでる。校長先生の娘なんだよ。あたしたちと違ってお嬢様なんだ」
ビーは恥ずかしそうにもじもじと首を振った。
「そんなことないよ。私もメアリーも何も変わらないから……」
か細い声で言って、ビーは俺を見上げて微笑んだ。
(うっわ…………!!!!!)
正直…………めっちゃくちゃ、可愛い!!!
俺はけしてロリコンじゃない。
この10、11歳ぐらいに見える彼女に一ミリだって恋愛感情は生まれちゃいない。
でも単純に、ビーは可愛かった。
長い金髪はゆるくカーブして、上の方は後ろ頭で束ねて黒いリボンで結わえている。目はくりっと大きくて、泣いてもないのに潤んで見えた。瞳の色は宝石みたいなグリーンだ。色白で頬はばら色に染まって、唇は赤くぷっくりとして口角が上を向いている。
天使かな。
そう、まるで前世の同級生の、
あの子みたいな--。
いつも読んでくださりありがとうございます。体調に波があるので更新が滞る時があります。必ず完結させますので、お待ちいただければ幸いです。