8.ティータイム
俺は窓辺に置かれた鉢をながめた。
陽当たりの悪さにもめげず、緑の葉をふさふさと繁らせている。
メアリーの家はスラム街のオアシスみたいだ。
部屋は狭くて日中でも薄暗くて、壁紙は所々はがれかけている。だけどよく手入れされてるんだろう。レンガの床には泥も埃もないし、カーテンも俺たちが昨夜借りた毛布もほつれて年季が入ってたけど清潔だった。部屋にベッドは一つだけで、今はウィリーが眠っている。普段はメアリーと母親が一緒に使っているらしい。
俺とメアリーは向かい合わせでテーブルに座っている。紅茶をひと口飲んで、ほっと息を吐いた拍子に俺は思わず顔をゆがめた。
「ごめん、熱すぎた?」
「いや美味いよ。ちょっと……」
つい気がゆるんで右足に思いっきり体重を掛けちまっただけだ。俺はテレビドラマの外国人みたいに大げさに肩をすくめてみせた。
「……ちょっと、会いたくないやつを見かけたから」
「だから戻ってきたんだね。アトスはずっとこの町に住んでるの? これまで見かけなかったよね?」
そんなこと、俺の方が聞きたい。
やっぱり【俺】はこの町の住人じゃないのか?
「そうだな。メアリーはずっとここで暮らしてるの?」
「ううん、2年前に引っ越してきたの。あたしたちね、以前はシティに住んでたんだ」
メアリーは両手でカップを持って紅茶を飲むと、懐かしそうに窓の外をながめた。
「シティ?」
「うーんとね、チープサイドの近くだよ。父さんはそこで雑貨店をしてたんだ。結構人気だったんだから。ジンジャービアとか、こーんな大っきいハムとかも売ってたんだよ」
カップを置くと、メアリーはにっと笑って両手を広げてみせた。
「いいな。つまみ食いし放題じゃん」
「へへっ。そうだよ。学校から帰ってお腹が空いたらこっそりキャンディーを食べて、母さんにバレてよく怒られてたんだ〜」
メアリーはふざけた調子で言って、ふっと真顔になった。
「でも父さんは後であたしを呼んで、こっそりもう一個くれたの。父さんお人好しなんだ。だからツケ払いしてたお客さんが逃げたり死んだりして、借金がどんどん増えて店も潰れちゃった」
「大変だったな……」
「ううん! こっちに引っ越してきて、父さんは知り合いに誘われてどぶさらいを始めたの。父さん、商売よりからだを動かす方が性に合ってたみたいで楽しそうだったよ。死んじゃったけど、きっとあたしたちを天国から見守ってくれてるよ」
そう言うと、メアリーはチラと横目でベッドを見た。ウィリーは布団をかぶって黒い頭だけがのぞいている。
「母さんもやりくり上手だし、何とか暮らしていけてるんだ。だからそんな心配そうな顔しなくて大丈夫だよ、アトス。ごめんね、あたしの話ばっかで。あんたは大丈夫? 会いたくないやつから逃げてこの町に来たの?」
「いいや……学校の知ってるやつを見かけたと思ったんだ。でも人違いだと思う」
冷静になって考えてみれば、あいつが転生してるわけがないのだ。俺とはただの幼なじみだし、特別親しかったわけでもない。あの貴族はこの時代の人間で、俺みたいなスラムのガキが見慣れない機械を持ってたから、声を掛けてみただけだろう。
--だったらなおさら逃げて正解だ。
盗難の犯人扱いされたり、どこで手に入れたかと問い詰められたらたまったもんじゃない。
「そっか……アトスも学校に通ってたんだね。分かる気がするな。昔と違う今の自分って、あんま友だちには見られたくないよね」
共感するような目を向けられたが、俺はうなずけなかった。俺は別にこの【俺】のみじめな姿をあいつに見られたくないわけじゃない。それはあいつを信頼してるからじゃなくて、そもそも友だちとは思ってないからだろう。メアリーは父親を誇りにして元気に振る舞っているけれど、やはり思う所はあるに違いない。
「大事な友だちだから、いい自分を見せたいってこと?」
「うん、まあね……いい子だったし、今のあたしを見下したりとかは絶対にないって分かってるけど、でも……憐れまれたらしたら辛いなー。あの頃のあたしのまま覚えといてほしい」
「会いたいとかは思ったりする?」
「そりゃ会いたいよー! 学校でいちばん仲良かったんだもん! 夜逃げしてきたから挨拶もまともにしてないし」
「会いに行く?」
「えっ?」
「あ……いや……」
ぽかんと口を開けるメアリーの前で、俺も自分に驚いていた。いやいや今の自分を見られたくないって言ってるじゃないか。なのに俺はなにを言ってるんだ?
「その……別に会わなくても、ほら、こっそり遠くから眺めるとかさ」
ああそうか。
口に出しながら、俺はすとんと腑に落ちる。
俺は見たいんだ。
俺が--アツシがいなくなった世界で、あいつらがどんなふうに生きてんのか。
もう二度と見られないけど、俺の幼なじみや--ちょっとだけいいなと思ってた女の子がどうしてんのか、もし覗いて見られるんなら見てみたい。
「ごめん、ただの思いつき。気にしないでくれ」
「そっかあ……会わなくてもいいのかー」
メアリーは天の啓示を受けましたとばかり目を輝かせて、じっと俺を見つめる。
なんだろう。
なんだか--嫌な予感がする。
いや、嫌というより--厄介事の匂いがぷんぷんするぞ。
ぐっとテーブルに身を乗り出して、メアリーは俺の手を握りしめた。
「ありがとうアトス! あんたって勇気があるし頭もいいんだね! あのさ、もし良かったら……あたしと一緒に街まで付いてきてくれないかな?」
--ビンゴだ。