7.お貴族様とは関わりたくない
翌朝、俺とトムはまたテムズ川にやってきた。
昨日と同じく、俺は階段の端に座って泥の中を漁るトムを眺めている。
川にはトムの他にも数人の少年少女たちがいて、眠そうな顔であくびをしながら腰をかがめている。その右上ではロンドン橋が朝陽を浴びて、何台もの馬車が行き交っている。水面がきらきらと輝いて、まるで観光地のポストカードみたいな光景だ。
だけど橋の下では、こうして服もまともに着てないやつらが泥の中を漁ってる。俺もそんな貧しいガキの一人だ。皮肉な景色だな。
まあいい。お綺麗な橋の上のやつらなんて、今の俺には別世界の存在だ。
俺は周囲に人がいないことを確認して、ズボンのポケットからスマホを取り出した。昨夜はスマホを開くタイミングがなかった。俺とトムは夕食を食わせてもらって、その後すぐに寝落ちしたのだ。
『なあ、D。ヴィクトリア時代のテムズ川で釘が刺さった時の治療法を教えてくれ。あ、病院に行くのは却下な。金がないから』
『それは大変ですね。まず、落ち着いてください。釘が刺さった場合の応急処置をお伝えします。
**1. 釘を慎重に取り除く**
釘が浅く刺さっている場合は、慎重に取り除きます。ただし、深く刺さっている場合は無理に引き抜かないほうが良いです。
**2. 傷口の洗浄**
清潔な水で傷口を洗い流します。当時の清潔な水を確保するのは難しいかもしれませんが、できるだけ汚れを取り除きましょう。煮沸した水を冷まして使うことが理想です。
**3. 消毒**
消毒液が手に入らない場合は、アルコールや酢を使うことが考えられます。それでも手に入らない場合は、できるだけ傷口を清潔に保つよう努めてください。
**4. 止血と包帯**
清潔な布や衣類を使って傷口を覆い、出血を止めます。布をしっかりと固定して、感染を防ぎましょう。
**5. 高さを保つ**
傷口を心臓より高い位置に保ち、可能な限り動かさずに安静にします』
メアリーの母親の手当ては、荒っぽかったがほとんど正解だったのだ。俺は改めて感謝しながら、画面をスクロールする。俺のAI--Dは医療機関の受診を強く推してくれているが、そんなの俺だって受けれるもんなら受けたいに決まってる。だけどスラムのガキにそんな金あるわけねーだろ!!!(泣)
今は破傷風にならないのを願うばかりだ。前世の俺はともかく、この【俺】はワクチンなんて打ってるわけがないからな。
まったく--こんな事態は想定外だ。
俺は自分の身の危険を冒してまで、ウィリーを助けるつもりはなかった。結果的にそうなっただけなのに、メアリーに感謝されて、飯と治療と寝床を提供してもらった。この怪我が元で死んだりしなければ、むしろラッキーな事態と言えるだろう。右も左も分からないスラム街の住人に恩が売れたんだから。
俺はガリガリと頭をかいた。
自分が素直にただウィリーを助けたいと思って動けるようなやつだったら、こんな計算高い考えに自己嫌悪を感じたりしないんだろな。
前世でも、今世でも俺は--。
突然、スマホの画面が薄暗くなる。
低電力モードにしてるわけでもないのに、と首をかしげた俺はギョッとして飛び上がりかけた。
背後で人の気配がしたのだ。
ぱっと振り向くと--やたらと身なりの立派な男が立っていた。
「ああごめん、驚かせたかな? ねえ、きみがその手に持っている物だけど」
男が言い終わらないうちに、俺はがばっと立ち上がる。目を丸くする男を見上げて--全速力でダッシュした!!!
「えっ……ちょ、ちょ、ちょっときみ?! おい、待ってくれよ!」
待てと言われて大人しく待つわけねーだろ!!!
俺は二段飛ばしで階段を駆け上がって、河岸から道路を渡ってスラムの路地を目指した。あの辺りなら道が入り組んでるし、あんな貴族みたいな男は絶対に近づこうとはしないはずだ。
幸か不幸か、前世の俺も、この【俺】--アトスのからだも逃げ足だけは早い。ひたすら走り続けて後ろを振り返った時は、もう影も形も見当たらなかった。
◆
ぜいぜい、ハアハア……。
あーーーくっそ疲れた。
マシになってた右足もクソ痛ぇ……。
俺はメアリーの家の前で座りこんだ。
あいつは一体誰なんだ。やばいな。スマホを見られたかもしれない。スラムのガキがなんであんなもん持ってるんだ?と疑われたらどうしよう。
(……いやでも、さすがにここまでは追いかけて来ないだろ)
はーーーっと俺は深く息を吐き出して、ぐったりと背中から倒れこむ。
(やっぱあの見た目は……貴族だよな、きっと)
男は二十歳前後の風貌で黒いシルクハットに黒いコートを身につけて、おまけに杖まで持っていた。髪は茶色だけどトムとは違ってシャンプーのCMタレントみたいに艶々で、顔立ちもさっぱりと整ってて背まで高かった。
俺は前世でもそんなやつを知っている。
--俺の幼なじみだ。
「いや………………まさかな」
いくらなんでも転生して二日目で前世の知り合いに会うなんて安直すぎるだろ。いやでも転生なんて神の采配みたいなもんだから、逆に会うほうが当然なのか?
「まじかよ……会いたくねえ……」
正直、前世で会いたくないやつ一位、二位を争う相手である。俺は衝動的にスマホを手にして高速で指を動かした。
『なあD、転生で会いたくない相手に遭遇したら』
消去。
『引越した街に会いたくないやつまで引っ越してきた場合は』
消去。
『相手が転生者かどうか確かめる方法を』
消去。
はああああ、ともう一度深いため息をつく。
何をやってるんだ俺は。
こんなこと聞いてどうする。
ぼんやりとスマホの画面を見上げながら、ふと俺は嫌な予感がした。
(電池が……残り96%?)
いや待て。
待て待て待て待て。
チートアイテムだろうこれは。
永久に電池が減らない仕様とかじゃねーのかよ?!
俺は低電力モードに切り替えようとしたが、スマホの設定が開けない。いっそ電源を切るか? いざという非常時だけに使うことに……いやでも一度電源を落として二度と立ち上がらなかったら洒落になんねーぞ。
ガチャ。
いきなり軒下の扉が開いて、俺は飛び起きた。
「びっくりした。どうしたの、アトス。そんなとこで寝ないで家の中で寝なよ」
「いやちょっと休んでただけ。メアリーは出掛けるの?」
「ううん、今日はウィリーが心配だから家にいるよ。窓を眺めてたらあんたが見えたけど、いつまで経っても家に入んないからどうしたのかなって思って。おいでよ、お茶を淹れたげる」
「うん、ありがと」
とりあえず電池問題は保留にしとこう。
俺はスマホを持った右手ごとポケットに隠して、メアリーの後に続いた。