6.スラム街で家族だんらん
ぱちぱちと暖炉で火の粉が爆ぜている。
俺はその真ん前の椅子に座って、両手をオレンジ色の炎にかざした。
「はあ〜あったけえ〜〜」
「ほんとにありがとう、アトス!」
少女--彼女はメアリーと名乗った--は壁際のベッドから離れ、俺の隣にやってきた。ベッドではウィリーが寝息を立てている。
小一時間前、俺たちはこのメアリーの家に来た。
この家は、テムズ川から数十分ほど歩いたスラム街にある。俺が最初に目覚めた大通りからもそんなに離れていない。
あのとき、ウィリーを探しにきたメアリーは俺とトムから事情を聞くと、感激した顔で「ありがとう!」と俺たちに抱きついた。真っ赤になって口ごもるトムには目もくれず、少女はすぐさまウィリーの傍に飛んでいき、自分一人で運ぼうとする。どう考えても体格的に無理だろう。
結局、俺たちは三人がかりで彼女の家までウィリーを運んだ。無事に家まで着くと、トムは「収穫物を売ってくる」と一人でさっさと出て行った。
この家は二階建てだが、メアリーの家族だけじゃなくて、血縁のない四世帯が同居してるそうだ。一階の廊下を挟んだ左側の部屋が、彼女たち一家の住居である。十畳ぐらいの狭い部屋だ。この部屋に彼女は母親と二人で暮らしているらしい。
部屋の扉を開けた左手には通りに面した窓があり、鉢植えが置かれている。右手には俺が火にあたってる暖炉があって、鍋がふつふつと煮えている。
そして正面のベッドには--ウィリーが死んだように眠っていた。
「まあーったく! バカな子だよ! 高熱で朦朧としてんのにテムズに入ろうだなんてね!」
メアリーの母親は大声で怒鳴りながら、暖炉の鍋をかき混ぜている。彼女はその鍋をチラとのぞきこんで、暖炉の側の食器棚から皿を取り出した。
「怒らないでよ、母さん。無事だったんだから」
彼女は窓辺のテーブルにパンと皿を並べながら、こっちを振り返る。
「アトスのおかげだよ。ごめんね、足まで怪我させちゃって」
心配そうに俺を見るメアリーに「こんなの大したことないって」と笑ってみせる。
冗談じゃない。
めっっちゃくちゃ痛かったし、今も死ぬほど痛い。だけどそんな罪悪感いっぱいの目で女の子から見つめられたら、そう答えるしかないじゃないか。
メアリーは、トムやウィリーと同じ11、2歳ぐらいに見えた。オレンジ色がかった金髪をまっすぐに肩の下あたりまで垂らしている。濃い緑のワンピースもシミのついたエプロンもほつれてはいるが、この辺りの住人にしては立派なものだ。勝気そうな大きな目でハキハキと物を言う、元気な印象のかわいい女の子だった。
「平気さ、あたしがちゃーんと手当てしたんだから! 明日の朝には治ってるよ」
豪快に笑い飛ばす母親に、俺はひきつった笑いを返す。
ウィリーを運び終えた後、俺は力が抜けて床にへたりこんだ。釘の刺さった右足がズキズキと脈打つように痛み出す。気を張り詰めてた間忘れてた痛みが一気に主張し始めたみたいで、左手の捻挫もずっしりと重く疼き始めた。その上、テムズ川で泥まみれになったからだが冷えてきて全身が震え出す。
メアリーの母親は、そんな俺をてきぱきと手当てしてくれた。
ありがたい。
ありがたい、が。
「うっっっっ………くうっ!!!」
「なんだい、ちょっと釘を抜いただけでそんな情けない声出すんじゃないよ」
「いやだって痛っ………あっ熱つつつつつ!!!」
「なに言ってんだ、洗濯メイドが洗うお湯はこれよりもっと熱いんだよ」
「いっててててててて!!!」
「しっかり縛っとかないと止血できないだろ。うちの旦那がどぶさらいでネズミの大群に襲われた時もこれで治ったんだからね」
「……………………」
俺は内心で(後で絶対AIに聞いてみよう)と思いながら、手当てを受けて服を着替えたのだ。
軽く部屋をノックする音がして、トムが得意げな顔であらわれた。その右手には小さな包みが握られている。トムはテーブルにぽんと包みを放った。
「ほら、おばさん。やるよ」
「ベーコンじゃないか。どうしたんだい?」
「ハンマーを拾ったから水夫と交換してきたんだ」
へえやるじゃないか、とメアリーの母親に褒められて、トムは満更でもなさそうに鼻の頭をかいた。だけどテーブルの横に立つメアリーから「ありがとう、トム!」と満面の笑みで言われると、「別に」と言い捨てて逃げるように俺の隣にやってきた。
暖炉の火にあたるその横顔は耳が真っ赤になっている。
俺はこれまでのメアリーの挙動を思い出した。
どう考えても、恋愛のフラグはトム相手ではなく別の男に立っている。
(…………俺はおまえを応援してるからな、トム)
◆
テーブルには豆のシチューとパン、それに炙ったベーコンが並んでいる。トムと一緒に俺まで相伴にあずかることになった。
「うっま!!!」
「おやそうかい。おかわりもあるよ」
「えっ……いいんすか?!」
スラムの貧困家庭なんて、自分たちの食事だけで精一杯のはずだ。さすがに気が引けたが、メアリーも母親も当然のような顔をしてるからありがたく貰うことにした。
「トムも食べるでしょ、ほらお皿貸して」
「いらないよ」
「今日はウィリーを運んでくれたし、このベーコンだって持ってきてくれたじゃない。ね、ほら貸してったら」
「……じゃあ少しだけ」
やっぱりトムもメアリーたちに遠慮していたようだ。いいやつだな、と改めて思いながら、俺は壁際のベッドをチラ見した。ウィリーはまだ目を覚まさない。
「ウィリーもここで暮らしてるんですか?」
道すがらのメアリーの説明では、彼女の父親は半年前に亡くなったらしい。母親以外に家族はいないようだから、たぶん兄や弟ではないだろう。
「そうしろって言ってるのに、いつもふらりとどっかにいっちゃうんだ。ウィリーは父さんと一緒に働いてたの。父さんがよく面倒見てたから家族ぐるみの付き合いだったんだよね」
「働く……ってどぶさらいって言ってたっけ?」
「そうそう。下水管の中で金目の物を集めて売る仕事。父さんは優秀でけっこう儲かってたんだから」
自慢気に話すメアリーに俺はとまどった。正直、どう反応していいか分からなかった。泥ひばりも衝撃だったが、下水管の中で廃品回収するのも想像を絶する過酷さである。それでもメアリーの態度には父親への尊敬が伝わってきて、俺はなんかいいなと思って笑顔を返した。
あったかい飯を食いながら、みんなで笑って食卓の雰囲気が和やかになった時--。
ゲホゲホゲホッ!!!と激しくむせた後で、
「ふざけんじゃねーよ。どこが優秀だ。おまえの父親は世界一の間抜け野郎だ」
と低くうなるような声がした。
あまりの言い様に俺はあぜんとしてウィリーを見た。少しも悪びれる様子もなく、ウィリーはテーブルの俺たちをにらんでいる。
「そんなこと言わないで、ウィリー」
怒っても当然なのに、なぜかメアリーは悲しそうにヤツを見ている。母親はそしらぬ顔でシチューを飲み続けていた。
「おれとあの人だったら、おれは絶対あの人の命を選ぶね。あの人にはおまえとおばさんがいて、おれには誰もいないのに。たかが孤児を助けるために自分が死ぬなんてどうかしてる。あの人はとんだ間抜け野郎だよ」
「ウィリー!」
メアリーはスプーンを置いて、激しく咳こむウィリーの背中をさすりに行った。
「ほんとにね。あの子の言う通りさ。間抜けな旦那だよ。人助けをするだけしといて自分の命は助けられずに、ああやって小さな子どもに罪悪感を植えつけちまったんだから」
「命の恩人なんだから素直に感謝すればいいんだ。ウィリーがひねくれ者なんだよ、おばさん」
トムは不愉快そうにチラとベッドの二人を見て、ベーコンにナイフを突き立てた。だいたいの事情は察せられたが、俺は何も言えなかった。
脳裏に前世のある場面がよみがえる。
小さな子ども。
助けようとした少女。
助けようとした少年。
助けられなかった少年。
俺は--。
今さら思い出したところでどうする。
俺は転生して、もう21世紀の高校生じゃないんだ。
何もかも忘れたくて、俺は冷めたシチューを口に運んだ。