5.テムズ川で釘を踏んづけて死ぬほど痛い
目の前には川がある。
テムズ川。俺も名前ぐらいは知っている。
大英帝国の血脈だ。
それなのに、汚くて臭い。俺は潮が引いた泥だらけの岸辺にいる。おそるおそる、隣に立つトムに声をかけた。
「……ほんとにこの中に入るのか?」
トムによれば、泥ひばりとはテムズ川のガラクタを拾うやつらの呼び名らしい。川沿いにはドックという船の溜まり場があって、その船から落ちた石炭やら鉄くずやらロープなんかを集めて売るそうだ。
俺たちが来たのはドックから離れた橋の近くで、岸辺には小さな船がいくつか停まってるだけだ。泥ひばりの数も多くない。ドックに行くやつらとトムは、あまり仲良くないらしい。「俺がチビだからってあいつらバカにしてるんだ。のろまのくせに」と息巻くトムだったが、その口の悪さにも問題はあると俺は内心で思った。
「あんたそんな格好だから、てっきり泥ひばりだと思ったのにな。まあいいよ、オレ一人が入るから。その代わり、このヤカンをここで見張っててくれ。俺の帽子はすぐいっぱいになるからさ。分け前はナシだぞ。さっき前払いで食わせたんだから」
「いいけど……」
「なんだよ、なんか文句あるのか?」
「俺がこのヤカンを持ち逃げしたらどうするんだ?」
「裏切る気なのか?」
すうっと冷めた目をするトムに、俺は首を横にふる。
「いや、しない」
「ならいい」
ほっとしたような顔をして、トムはズボンをまくり始めた。スラムの凶悪なガキというよりは、近所の悪ガキといった方がしっくりくる。
(……最初に出会ったのがこいつでよかった。あのまま一人きりでスラム街にいたら淋しくて死にそうだったかもな)
階段の端に腰かけて、俺はぼんやりと川を眺める。
くっそ寒いし左手首はズキズキと痛むけど、さっきの紅茶とうなぎのゼリー寄せで腹が温まったから、気分はいくらかマシだった。
(……前世じゃ、一人なんて大歓迎でクラスの誰とも関わらないようにしてたのにな)
トムが何度か川から上がって、ヤカンの中身が半分ほど埋まった時だった。遠くの空が少しずつ赤くなってきて、俺がそっちを見ていると、背後からドタドタと足音がする。
「どけ」
低い声に反射的にからだを避けると、またガキが俺の横を通り過ぎていく。
トムと同年代に見えるが、肩まで伸びた黒髪にぎょろりと大きな黒い目、浅黒くて薄汚れた皮膚に頑丈そうなからだつきで、トムよりも威圧感がある。
だけど目は充血して、からだは左右にふらふらと傾いで、どことなく顔も赤い。
(……酔っ払いか、クスリでもやってるのか?)
そのガキは右手にカゴをつかんで、どばどばと川の泥に踏みこんでいく。入れ違うようにトムが川から上がってこっちにやってきた。
「ちぇっ、やなやつが来た」
「おまえが言ってたドックのやつらか?」
「いや、あいつも徒党は組まずにやってるんだ。でも生意気だから気に入らない」
おまえも人のことは言えないぞ、と思ったが口には出さない。
数人の少年少女たちが、一定の間隔をあけて川に立っている。あのガキもその中に交じって泥を漁り始めた。
「あっ……」
俺はとっさに立ち上がる。
あのガキのからだが思いきり斜めに揺れたかと思うと、ぐらりと頭から泥の中に倒れこんだ。
それなのに周囲に散らばってるやつらはガキをチラ見しただけで、何事もなかったかのような無表情で、また黙々と手を動かし始めた。
「おい……大丈夫なのか?」
「ウィリーなら自分で起き上がれるだろ」
当然のような口ぶりだから、俺もそうかと納得しかける。確かに頑丈で運動も得意そうだもんな。
だけどトムが帽子のガラクタ--いや、お宝をヤカンに移し終えてもまだウィリーと呼ばれた少年は泥から出てこない。
「あれ……おかしいな。あいつ何やってんだ?」
トムがいぶかしげに川を振りかえる。
俺はさっきから嫌な予感が続いていた。
前世の運の悪さのおかげか、この予感はほぼ百の確率で--当たる。
「…………くそっ!」
ヤカンと階段の間に隠すようにスマホを置くと、俺は立ち上がった。
俺は命がけで他人を助けるようなキャラじゃない。
そもそもモブがヒーローを気取ったところで、あっけなくやられるのがオチだ。
今は干潮で、泥は俺の膝下ぐらいまでだ。
川に入ったところでせいぜい泥まみれになるだけで、死ぬ可能性はほぼゼロだ。
これがもし満潮だったら、悪いが助けを呼びに走るだけで、川になんか飛びこまない。
泥は俺の足にまとわりついて、思った以上に歩きにくい。
あのガキ--ウィリーが沈んだ辺りまで来ると、俺は右手を突っこんだ。人間の腕の感触を見つけて、そのまま手で探りながら、ウィリーのものらしき腰をつかんで力いっぱい引き上げる。
「…………ふはっ!!!」
ウィリーは苦しそうにむせて何度か咳をした後で、ようやく俺と目の焦点を合わせた。
「……誰だおまえ」
「いいから、早く上がるぞ」
右肩に手を回させて、ウィリーのからだを支えながら泥の中を引き返す。あと少しで岸辺に着くところだった。ウィリーが激しく咳きこんで、その拍子にまたからだが斜め前に倒れそうになる。俺は慌てて両手を広げて--捻挫してる左手首にウィリーの全体重がかかり、痛みでよろけてしまった。
「…………っくう!!!!!」
激痛が右足の踵を襲った。
焼かれるような熱さを感じながら、それでもここにいても仕方ないから、とにかくウィリーを支えて岸辺に上がる。
「なんだよ、アトス。さっきの悲鳴は……げっ、痛そうだな。大丈夫?」
「大丈夫……じゃねえ……」
俺の踵の内側には数ミリの釘が刺さってた。
長さは三センチぐらいで、その三分の一程が突き刺さっている。歩く度にズキンズキンと脈打つように激痛が走る。左手首の捻挫なんて、この痛みに比べりゃかわいいもんだ。
「困ったな。とりあえず抜くか……ったく、おまえのせいだぞウィリー! 黙ってないで手伝えよ!」
「いや、こいつ気絶してるみたいだ」
ウィリーは岸辺で横たわったまま、ぴくりとも動かない。まさか死んでるんじゃないだろな、と顔に手をかざしてみると、息を感じてほっとした。
「ウィリーの家族はいないのか?」
「こいつもオレと同じ孤児だよ。でも家族みたいなひとなら……」
トムが言い終えないうちに、また階段に人影が見えた。
少女だ。
華やかで張りのある声が岸辺に響いた。
「ウィリー!!!」
転がるように階段を駆け降りると、少女は俺たちの前で足を止めた。