49.駅馬車宿の朝
真っ白な光に包まれた。
気づいたら俺は昼間の路地をさまよっていた。
歩こうとするのに上手く足が動かない。
いや--足なんてない。
俺は何でここにいるんだ?
俺は何をしてたんだ?
足がないのに……俺はどうやって歩いてるんだ?
【………………ない】
声が聞こえた。
俺は通り沿いの古いアパートを見上げた。
3階の奥の窓からだ。
【…………死にたく……ない……】
男か女かも分からない嗄れた年寄りの声。
自分の奥が掻きむしられるような声。
【……死にたくない】
(……死にたくない)
【……死にたくない】
(……死にたくない)
【……死にたくない】
(……死にたく、ない)
3階の窓の外から、薄暗い部屋を眺めた。
窓際のベッドに年老いた婆さんが寝そべっている。指先がゆっくりと宙をかき、ぱくぱくと歯のない口が開いていた。
ひび割れた窓を通り抜けて、俺はいつのまにか天井から婆さんを見下ろしていた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
まるで共鳴する歌声のようだ。
母さんと一緒にハミングしたガキの頃みたいに--俺は抗いようもなく吸い寄せられていく。
◆
目を開けた。
ぜいぜいと荒い息が俺の両隣から聞こえてくる。
まだ夜は明けきってねぇが、東の空にうっすらと白い線が伸びていた。
身体中がきりきりと軋むように痛む。
痛みを無視して起き上がってみると--まるで嵐が通り過ぎた後みてえな有り様だった。
「ウィリーっ?!」
俺の正面に、街道と中庭を隔てる低い石垣がある。腰ほどの高さのそれにメアリーが腰掛けていた。スカートの膝の上で、ウィリーが頭を乗せてぐったりと横たわっている。
メアリーは俺を見てほっとした顔をした。
「大丈夫、気を失ってるだけだよ。アトスこそ……大丈夫?」
問いかけの意味が分からず、俺は曖昧にうなずいて周囲を見渡した。
石垣に腰掛けたメアリーと横たわるウィリー。
ヒギンズが乗ってきた馬を落ち着かせている馬丁。
ざっざっと馬が土を掻く音がする。
その横では、これまた気を失ったヒギンズが後ろ手に縛られて石垣に上体を凭せかけていた。
ウィリーとヒギンズが暴れたせいか、道のあちこちで掘り返されたように土が盛り上がっている。
それから--
俺の両隣には、ビーとブラックリー卿がいた。
2人とも座り込んで荒い息を上げている。
ビーの金髪はぐちゃぐちゃで、ドレスも乱れに乱れていた。レースの襟は引きちぎれ、リボンは無惨に破れて、黄色の滑らかな生地は泥まみれになっている。顔や手には無数の引っかき傷ができている。そんなビーを守るようにトムが背中から抱きかかえていた。
ブラックリー卿も帽子がどこかに吹き飛んで、茶色い髪がボサボサになっていた。黒いコートやズボンには泥が染み込み、シャツはボタンが外れている。しかもあろうことか、その胸元や首すじには血の乾いた切り傷があった。
「おめーら……何でそんな……」
呟いた瞬間、ガバッと両横から抱きしめられた。
「篤っ!!!」「田中くんっ!!!」
自分が本当の母親だと証明せんばかりにぎゅうぎゅうと右に左に抱き寄せられて、俺は身の危険を感じて叫んだ。
「うぉい!! 一体何なんだよ?!!」
「よかった!!! 帰ってきたんだな篤っ!!」
「田中くんっ……もう戻って来なかったらどうしようかと思った……!!」
埒があかないと思った俺は、ビーの傍に座るトムに目をやった。俺の視線に気づいたトムは困惑した顔をする。その表情が--何かを物語っていた。
「トム、教えてくれ。一体何が……いや。俺は一体何をしたんだ?」
チラチラと俺の両隣の2人を見上げたトムは、意を決した様子で口を開いた。
「……オレたちがやってきたら、ヒギンズの上にアトスが馬乗りになってたんだ。側ではウィリーが倒れてて……ヒギンズも泡を吹いて気を失って……アトスはナイフを振り上げて、かと思えば今度は放り投げようとしたりして……正直俺はあんたが何をしたいのか分からなかった」
…………なるほどな。
この身体に入ったアトスと俺の意識とが、反発し合ってたってわけか。
「そうそう。でもこうして無事に事が済んで良かったよ! 終わりよければ全て良しだ!」
無理やり話をぶった斬るようにブラックリー卿が割って入った。俺は聞こえなかった振りをして、トムに続きを促した。
「で? それからどうしたんだ?」
「田中く……アトス、もういいでしょ! トム、話はもうこれで終わ……」
「話してくれ、トム! 俺がしたこと全部だ!」
トムは迷うようにブラックリー卿を見た。血のついた白いシャツを見つめると、今度は反対側に首を回す。引っかき傷のできたビーの頬を、自分が痛むかのように辛そうに見つめた。
「…………ブラックリー卿が止めに入ったんだ。アトスは暴れてナイフを振り回して……それで……それが……ブラックリー卿に当たって」
「ただのかすり傷だよ。それにきみは一瞬正気に戻って、すごく悲しそうな顔をした。だからその隙にナイフを奪えたんだ」
俺はブラックリー卿から目を逸らして、ビーを見た。こいつも満身創痍の顔をしている。
「……おめーは?」
「……おまえは暴れてる内にアレを落としたんだ。俺が拾おうとしたらいきなり掴みかかってきて……悪ぃなって返したら、今度はアレを地面に叩きつけて壊そうとすっからさ……まじビビって……小鳥遊と2人で何とか回収したってわけ」
アレ--。
ビーの視線がブラックリー卿へと注がれる。
俺が見つめると、ブラックリー卿はコートのポケットから数センチだけ黒い物体をのぞかせた。
そう--俺のスマホだ。
「そうか…………サンキュ。助かった。てかほんと……まじ悪ぃ。迷惑かけてすまなかった」
「いいんだよ! きみが無事だったんだから!」
「そうだ、謝んな。で……無事なんだよな? 篤……その、あいつは今はいねーんだよな?」
トムが1人、意味が分からないという顔をしている。
俺はにかっと満面の笑みを作った。
「ああ、もう大丈夫だ。心配すんな。トム、おまえもほんと色々と……ありがとな」
トムもにっと俺に笑顔を向けた。
「そっか。よく分かんないけど、アトスがそう言うならいいや。ウィリーも無事だしヒギンズも捕まったし。これで一件落着……なんだよな?」
明るく笑ったトムの目に、一瞬、違う色が見えた気がした。だけどほんの束の間で確かめる術もなかった。
「ああ、これで……終わりだ」
ようやく馬が落ち着いたのか、馬丁が厩舎へと連れて行く。メアリーの膝の上で、ウィリーがもぞもぞと身じろぎしている。
東の空では、濃紺から淡い青のグラデーションが生まれていた。
長い一日が終わった。
夜が明けていく。
◆
しばらくして警察官が2人やってきた。
駅馬車宿の主人が呼んでくれたらしい。目を覚ましたヒギンズは抵抗する気力もないようで、大人しく連行されていった。
警察官たちの話では、ロンドン警視庁からも電報が届いたばかりだという。どうやら--ダイアナは素直に自白してくれたようだ。
去っていく馬車を見送っていると、ウィリーが悄然とした顔で中庭に歩いてきた。隣でメアリーが肩を支えている。
「ウィリー、馬車の準備が出来るまで部屋で休んでろよ。呼びに行くから」
「悪かった、アトス。それに……ブラックリー卿も」
驚く俺たちをよそに、ウィリーは深々と頭を下げた。疲れ切ってメアリーの支えなしじゃ歩けねえってのに、わざわざそれを言うために、2階の部屋からここまで出てきたのだ。
「いいって! そんな……おめーのせいじゃなくて元はと言えばアトスが……」
「きみが無事で良かった」
ブラックリー卿は迷いなく前に進んで、ぎゅっとウィリーを抱きしめた。
「お母さんがいなくなってから、ずっと辛かったね。こんな形の再会なんて今も辛いだろうけど……でもきみが生きてて良かった。本当に、良かった」
かすれた獣じみた声が漏れる。
ブラックリー卿の黒いコートの奥から、ウィリーの小さな嗚咽が聞こえた気がした。
ツンツンと背中をつつかれる。
振り返ると、ビーが周囲をうかがいながら、俺にスマホを差し出してきた。
「小鳥遊から預かってきた」
「ああ……サンキュ」
手を伸ばした俺の前で、エサをかっさらうトンビのごとく、ビーはさっと手を引っ込めた……。
「……龍太? 何の真似だよ?」
「おまえさ、何でスマホを壊そうとしたんだ?」
俺たちは黙って見つめ合った。
ビーの頬はつるんとして真っ白なのに、不恰好な赤い引っかき傷がいくつもある。前世の龍太相手なら女子にやられたのかって揶揄えるけど、今は笑えもしない。
10歳の少女にはあまりにも不似合いな傷で、しかも--傷つけたのはこの俺なんだから。
「さあな。揉み合ってる内にアトスも訳分かんなくなったんじゃねーの?」
「じゃあ質問を変えるぞ。なあ、篤。もし……このスマホが壊れたらどうなると思う?」
俺たちはまた黙って見つめ合った。
いや、はたから見れば「睨み合ってる」の方が正しいかもな。厩舎の扉の前では、トムが心配そうに俺たちを盗み見ている。
俺は降参するように両手を上げた。
「いいよ。何ならおまえが持っててくれ」
「答えになってねーぞ」
「俺も答えは分かんねえ。でも……Dに聞けば教えてくれるかもな」
さして面白くもなさそうに、ビーが笑う。
目の前に右手が差し出された。握りしめた手が開かれて、黒いスマホが現れる。ビーの小さな手には収まりきれず、四方の角がはみ出していた。
「なるほど。この世界の創造主様にってか?」
「ああ、そうだ」
今度は邪魔されなかった。
ビーの手からスマホを取り戻して、俺はロックを解除した。
あと3話ほどで完結します!
もうしばし、お付き合いいただけたら嬉しいです。
(夏の間に終わらせる…と言ったのはどの口でしょうね。最高気温が28度の10月なのでどうか許してやってください…)