48.アツシ
窓の外では青空に鰯雲が泳いでいる。
教室の中では担任の体育教師が声を張り上げていた。俺はシャーペンをカチカチと鳴らした。カチカチ。カチカチカチカチ。担任の声がでかいから誰も気にしちゃいない。
「よし! じゃあ男子は騎馬戦のグループを決めるぞ……ん? 田中、どうした?」
「俺は騎馬戦、出ません」
挙げた手を下ろして、俺は授業中と同じトーンの声で言った。担任の声はいつもより数オクターブ高い。去年の小4の時もそうだった。秋の運動会になると、担任は唾を飛ばす勢いでクラス団結を呼びかけていた。
「出ない? 何でだ?」
「出たくないからです」
俺の答えにクラスがざわめき出す。
それアリなわけ。出たくないっつってんならいいじゃん。そうそう、やる気ねー奴いたって仕方ねえし。そういえば田中くん、去年落馬してなかった? あーそれは怖いかもね。そんなんビビりじゃん、だっせ。
「出たくないから出ないじゃ答えにならんぞ、田中。騎馬戦は4年から6年の男子全員参加の競技なんだ。おまえが出なけりゃクラス全員の士気にも関わる。な、5年生にもなってそんな我儘言うな」
駄々っ子を宥めるような甘ったるい口調だった。
胸焼けがする。
「じゃあ当日休みます。体育の時間は保健室に行くんで、よろしくお願いします」
俺の言葉が体育教師の脳天に届くまでに、10数秒の間があったようだ。体育教師は怒りを抑えるように、どん、と震える拳で教卓を叩いた。
「いいかげんにしろよ、田中っ!! そんな教師をなめた態度を取るつもりなら親御さんに連絡……」
「うっす、先生。朝から元気だなあ!」
空気を一変させたのは龍太だった。
ランドセルを片方の肩に掛けたあいつは、ふざけるように手を振りながら教室に入ってくる。
「おいおい龍太、しゃちょー出勤かよ!」
「ばあーか、それ重役出勤っつーんだぜ」
「大河、お兄さんは大丈夫か?」
体育教師が気遣わしげに龍太を見下ろす。
こいつの兄貴は足の怪我で入院して、今朝は母親と見舞いに寄ってから登校すると聞いていた。
兄貴は俺らの小学校の卒業生で、体育教師が顧問を務める野球クラブに所属していた。龍太も兄貴も、この若い体育教師のお気に入りだ。
「おうよ! ピンピンしてるぜ! あいつ殺しても死なないんじゃねーか」
「こらこら大河。そんな縁起でもないこと言うな」
「で? さっきの雰囲気なに?」
龍太は体育教師から目を離すと、チラッと俺に視線をやった。
あいつは幼稚園、俺は保育園に通ってたから、家が隣同士でもそんな交流があったわけじゃない。小学校に入学した後も、同じクラスになるのは小5の今年が初めてだった。あいつはクラスの最上位グループで、俺は数人の男子や女子と同じはぐれもんだった。当時の俺らは朝の通学路で会うだけの、顔見知り以上友だち未満って関係だ。
「ああ、大したことじゃない。田中が騎馬戦に出たくないって駄々をこねるから、みんなで説得してたんだ」
「へえ……」と無機質な声を出して、龍太が教室の入り口から俺を眺めた。前列の窓際に座ってる俺は、あいつとは真逆の位置に立っている。
すたすたと教壇を横切って、龍太は俺の前まで来た。組んだ両腕を頭の後ろに回して言う。
「去年落馬したから出たくねーの?」
俺は迷った末にうなずいた。
龍太は頭で手を組んだまま、軽い調子で言う。
「おまえ下手したら首の骨が折れて半身不随になってたかもしれねーんだろ? いや〜ビビるわ」
教室がざわめき出す。
慌てたように体育教師が教壇から声を張った。
「おいおい大河、それは大げさだろう! みんなを怖がらすのは良くないぞ!」
体育教師は冗談めかすような口調だった。龍太の顔色を窺うようにさえ見えるのは、自分よりも龍太の方が集団のボスザルタイプであることを本能的に知っているからかもしれない。
「篤のおばさん、市役所に勤めてんだろ? 教育委員会には報告しなかったのか?」
俺の目をじっと見て、龍太は言った。
母さんが俺に無関心なのはこいつも知ってるはずだ。去年の運動会だって祖母ちゃんしか来なかったのに。
龍太のでかい目を見ながら--俺はふと閃いた。
チラと体育教師の顔を窺うと、訝しげに太い眉を寄せていた。クラスの人気者で自分の気に入りの児童が、俺とどの程度親しいか計りかねてるんだろう。
「……母さんは報告しなかったんだ。先生が熱心に指導してくれてるって知ってるから」
「さっすが! 篤は優しいよな。先生のために大事にしねーようにしたのか」
この会話の矛先がまだ見えてないようで、体育教師は黙って俺らを眺めている。クラスの奴らもこっちに目と耳を向けていた。
「でもよ、さすがに今年も何かあったらヤバいよな」
「ああ、その時は教育委員会に報告するかも」
「去年は練習ん時も本番も先生たちほとんどいなかったし、学年混合団体戦のぶつかり合いだったもんな」
「今年は先生たちもしっかり見ててくれるだろ。それに落馬じゃなくて帽子を取ったりする学校も多いみたいだし、ルール変更も考えてくれてると思うよ。俺らが安全に競技できるように……」
俺はゆっくりと体育教師と目を合わせた。
「……ですよね、先生?」
「あっ……? いや……」
「さっすが先生! それならみんなも安心だよな!」
ダメ押しのように龍太が笑って叫ぶ。
龍太のグループの奴らが調子を合わせると、クラスの他の男子や女子も同意の声を上げた。
翌朝、玄関を出たら門の前に龍太が立っていた。
「よお、篤」
「……うす」
俺たちは、どちらからともなく並んで歩く。
「…………昨日はサンキュ」
「別に。うちのお袋も去年おまえの落馬のこと気にしてたし。つか言えばよかったのに、あいつらに。死ぬとこだったんだーって」
「運動部とか、楽しみにしてる奴らもいるだろ。俺のせいで中止になって逆恨みされるのも面倒いし」
龍太は呆れたように眉を跳ね上げて、何を思ったか「ふは」と笑った。
「なんだよ?」
「おまえってさ、おばさんに似てるよな」
「はあ? 俺の母さんに何の関係があるんだ?!」
「なんつーか……取り繕うのが苦手であえて悪役になろうとするとこ?」
「は? 意味わかんねーし」
俺は速度を上げて、こいつを引き離そうとした。
だけど息も切らさず龍太も余裕で追いついてくる。
くそ。さすが野球クラブだ。
「それにさ、あいつムカつくじゃん」
「は? 誰がだよ」
龍太の口から体育教師の名が飛び出して、俺は思わず足が止まった。
「何言ってんだ。おまえ気に入られてんだろ?」
「関係ねえよ。クラブん時もだけど、あいつ相手によって態度が変わるんだよな。ダサいだろ、そーゆうの」
いつの間にか龍太も立ち止まって、俺らは大通りに出る交差点の手前に立っていた。
「篤は言葉足らずだけど、誰が相手でも媚びたりしねーで自分を貫いてんじゃん。そーゆうの格好いいよな」
俺は酸欠の魚みたいに口を開いては閉じた。
(言葉足らずって何だよ、褒めてねーだろ)
(別にそんな格好いいもんじゃねーし)
(いや、そうやって他人を庇えるおまえの方が格好いいだろ)
正解が分からずに声にならなかった言葉たちは、行き交う車の排気ガスと混じって消えていった。
交差点の向こう側で、龍太のグループの1人がこいつに気づいて手を振った。
「……おまえも行かね?」
「や、いい」
信号が青になった。
チラと俺に目を走らせて、短いやり取りなどなかったように龍太は走り去っていく。
信号が赤になっても、俺は交差点のこっち側にいた。グループの奴らが俺を指差すと、そいつらのランドセルを「とっとと歩け」とでも言うように龍太が押しやっていた。
その日以来、体育教師もクラスの奴らも俺への当たりが柔らかくなった。教室内のグループに属さなくても「龍太のダチ」という特別枠に収まったらしい。
龍太が否定しなかったから、俺もそれに甘んじた。
もしこれが少年マンガなら、俺たちは無二の親友になったりするんだろうか。
でも、俺は付かず離れずの距離を崩さなかった。
龍太の慈悲に縋りたくないっつー自分のみじめなプライドのせいか。
助けた相手から藁みてぇに掴まれるのはこいつだってゴメンだろっつー遠慮のためか。
…………どっちもかもしんねえな。
だけどこの時から、俺は心のどっかでこいつには敵わねえと思ったんだ。
◆
北風の吹き荒ぶ、薄曇りの午後だった。
いつもの通学路が工事をしていたから、俺はめずらしく国道沿いの歩道を歩いていた。
教室を出た時から嫌な予感がしていた。
階段を降りる時も、背後で鈴の鳴るような声と耳慣れた低い声が聞こえてたんだ。
--小鳥遊静香と大河龍太。
(そういや昨日から龍太の兄貴が帰省してたっけ。今日は高校も終業式だし、部活は休むのか?)
下足箱に上履きを突っ込んでスニーカーに履き替える。自分史上最大速度の早足で校門を出た。
(……いや、今日はクリスマスイブだろ。ふつーにこの後デートかもな)
いつもの国道から分岐した通学路に曲がろうか?
脳裏をかすめた考えを俺はすぐに却下した。中1のとき穴に落ちて以来、俺は極力工事現場を迂回するようにしてたのだ。
ま、そのうち引き離せるだろ。
そう思いながら歩いてるのに、いつまで経ってもあいつらの声が背中から離れない。
「……へえ。よく描けてんじゃん」
「…………下手だけど……でもママたちに……」
俺は競歩かっつーぐらいの速度で歩いてんのに、あいつら一体どうやって付いてきてんだ?
俺は思わず背後を振り返った。
--ばっちりと、小鳥遊と目が合っちまった。
すぐに頭を戻そうとしたのに、よりによって龍太が俺に向かって叫んだ。
「おう篤! なあ見てみろよこの絵! すげえ上手くねー?!」
「ちょ、ちょっと……大河くんっ!!」
龍太が頭上で振る紙を、小鳥遊がぴょんぴょんジャンプして取り返そうとしている。
こっからでも小鳥遊の頬が赤く染まってるのが見えた。それが寒さのせいなのか、照れてんのか、分かんねえ。
小鳥遊がチラッと俺に振り向いた。
俺に見られんのを嫌がってんのか、照れてるだけなのか、くりっとした目を見ても--分かんねえ。
だから俺は、そのまま背を向けて歩き出そうとした。
「あっ」
驚いたような龍太の声と、ひらりと舞い上がる紙--
たぶん美術の課題の画用紙だろう。
突風に煽られて、画用紙は国道の対向車線へと飛んでいく。
片道二車線の国道は、高速を降りたトラックがばんばん走ってくる。幸い、次のトラックはまだトンネルの向こうにいて間があった。
「わり、小鳥遊」
「あっ……大河くん!」
龍太は迷う間もなく、素早く左右を見渡して走り出した。
小鳥遊はその場から動かない。
困ったような顔をしているが、不安な様子はない。
龍太なら無事に画用紙を回収して戻ってくると知っているからだろう。
俺も放って帰ることもできず、小鳥遊から1メートルぐらい離れて突っ立っていた。
その時--
黒い物体が対向車線を渡ろうとした。
何を思ったか、その物体……黒猫はよろよろと歩道から龍太に向かって歩き出す。
画用紙をエサだとでも思ったのか。
あいつを飼い主に相応しいとでも思ったのか……。
龍太はすでにこっちの車線に戻りかけていた。
そのまま戻って、小鳥遊に画用紙を手渡して「わりーな、小鳥遊」っつって片手で拝むように謝って、小鳥遊が「もう! 私の課題なんてどうでもいいのに。危ないことしないでね、大河くん!」って頬を膨らませて怒った顔をして、でもほっとしたようなまたあのヒーローを見つめるような目をして……そしていつもの一日が終わる。
……………………はずだった。
龍太は対向車線をぽてぽて渡る黒猫を見た。
それから、トンネルから出たトラックを。
こっちの歩道で待つ小鳥遊を見た。
それから、俺を。
俺と目が合った。
それから、もう一度だけ小鳥遊を見て--
あろうことか、また反対車線に戻った。
トラックは制限速度ギリギリの速さであいつ目掛けて突っ込んでくる。
おい。
待てよ。
おまえはヒーローだろ?
絶対に死なねぇ役回りだろ?
そこで死ぬなら俺だろ?
待てよ。
なあ待て。
いくらおまえの身体能力でももう間に合わねえだろ?
龍太、おまえだって分かるだろ?
なのに何で--
そこで戻るんだよっっ!!!!!!!!!!!
俺は左横に振り向いた。
小鳥遊静香と目が合った。
その目は限界まで見開かれていた。
思い出す。声。冷ややかな、声。
……田中くんはずっとそこにいたんだね。
もし。もし。
もし………………龍太が死んで。
俺と小鳥遊だけが生き残って。
そんで………………もう一度、あの視線を。
あの声を。教室で俺に向けられたら…………
……………………耐えられない。
「ばか野郎っ!!!! 何してんだっ篤っ!!!!」
どこか遠くから、龍太の怒鳴り声が響いた。
俺は自分でも何をしてるのかよく分かっていない。
ただふらふらと吸い寄せられるように……走った。
「だめえっーー待って!!!! 田中くんっ!!!」
あり得ない。
至近距離から小鳥遊静香の悲鳴が聞こえた。
俺は後ろを振り返った。
スローモーションみたいだ、と思った。
必死に俺へ手を伸ばして駆けてくる、小鳥遊。
黒猫を抱えたまま、呆然と俺たちを見上げる龍太。
轟音。
トラック。
ああ。
そうか。
死ぬのか。
ここで。俺は。俺たちは。
今日が。俺の。俺たちの。
最後の--
泣きそうに顔を歪める、小鳥遊静香。
俺がいいなと思ってた、初恋の女の子。
真っ青な顔でこっちを凝視する、大河龍太。
もしかしたらこの先ダチになれたかもしれない、俺の幼なじみ。
--こいつらに俺の気持ちを伝えられる日は。
--もう永遠に。
俺はぎゅっと目を閉じた。
ああ。
誰か。
誰でもいい。
神様。仏様。イエス様。
どんな神様でもいい。
誰か。
誰か。
こいつらも。
俺も。
救ってくれないか。
死にたくないんだ。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にた