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47.アトス

今話には、児童虐待や暴力描写が含まれます。

ご注意ください。

今日は母さんに殴られなかったから、いい日だ。


おまけに晩めしには、羊の足と焼きジャガイモにまでありつけた。昼間の客から貰ったものらしい。久しぶりに腹いっぱいになって眠った。今夜は客を取らなかったから、母さんも俺と一緒に寝てくれた。


母さんは甘ったるくて饐えた汗の匂いがした。

毛布の中でその匂いを腹いっぱい吸いこんだ。


今日は、いい日だった。






髪をつかまれて、腹を蹴り上げられた。


俺が男に殴られるのを母さんは黙って眺めている。飽きたのか、諦めたのか、バタンと扉が閉まる音がした。部屋を出て行ったんだ。


別に俺だって客と鉢合わせるつもりはなかった。



だけど今夜は腹ペコだったし身体も怠くて、せめて冷たい路上じゃなくて家の中で眠りたかった。母さんが仕事中でも邪魔にならないように、玄関で寝ようと思ったんだ。


それはよくあることだったし、客の中にはニヤニヤと俺に見せつける奴もいた。


でもこの客は違ったみたいだ。



俺が扉を開けた途端、がなり立てて髪を引っ掴んできた。目が血走ってて口が酒臭かったから酔っ払ってたんだろう。

しこたま蹴られて殴られて、気絶して、目を開けたら朝だった。母さんは窓辺で酒を飲んでいた。朝陽を浴びた母さんの髪は金色できらきら綺麗だった。


「死んでなかったの? 運がいい子ね」


俺は母さんの傍に行った。窓の桟に座った母さんは、俺を膝の上に乗せた。昨夜の男と同じ臭いがしたけど母さんの方がずっといい匂いだ。


母さんは歌を歌った。



アパートの窓の下に人が集まってくる。薄汚い路地に不似合いな歌声に、みんな耳を澄ませてる。母さんが歌うのは気まぐれだから、通りがかった奴らは運がいい。




「あたしは昔、劇場で歌ってたんだよ」


これが母さんの口癖だった。得意げな顔を見る度に、俺は胸がいっぱいになった。


「あんたさえ生まれなきゃまだ舞台に立ててたのに」


これも母さんの口癖だった。恨めしそうな顔を見る度に、俺は胸がいっぱいになった。



でも時々、母さんはこう続けた。


「だからあたしがどれだけあんたを愛してるか、分かるでしょ」


そう言われてぎゅっと抱きしめられると、どんな食い物を貰うよりも腹が満たされた。



でも機嫌が悪い時、母さんは俺を殴りつけた。

頭を、頬を、腹を殴られながら、俺は明日がいい日であるようにと願った。





その頃の俺はまだ、明日を信じていた。






背丈が母さんの肩に近づいた頃、俺は家に寄り付かなくなった。


母さんの気まぐれに付き合うのはもううんざりだった。どこで食い物を手に入れればいいか、俺はもう知っていた。




食堂の裏手のゴミ箱は狙い目だ。スープの出汁を取った骨やら野菜クズが捨てられている。だけど他のガキとの争奪戦だから、俺が行くのはたいてい夜明け前だった。ほとんどが残り物だが、運がよければ肉片の付いてる骨もあった。


夜中の酒場では、たまにパイ売りが男たち相手に銭投げをする。呼売のガキも客も賭けに夢中で、肝心の売り物を見ちゃいない。そんな時、俺はさりげなく近付いて、ミートパイやフルーツパイを拝借して逃げていった。


もう少しでかくなったら、ビリングズゲートやレドンホール・マーケットまで足を伸ばした。盗んだ魚や肉を盗人御用達の宿屋に売り払ったら、それなりにいい値段になった。


他の奴らと組んだ方が効率がいいと分かっていたが、上手く付き合うのは苦手だから俺はいつも単独行動してた。




たまに気が向いて、劇場まで足を伸ばした。

安劇場は週末になると客でいっぱいになる。


卑猥な歌が建物の外まで響いていた。



気分がいい時は、俺も一緒に口ずさむ。

歌っていると腹が減ってるのもイラついてたのも忘れて、そんな時は、母さんの朝陽を浴びた金髪が頭ん中でちらついた。


なんでか知らないけど、そんな時は、ガキみたいに泣きたくなった。




俺はたいていイラついていた。

毎日飯を探して、飯を食って、明日の飯はどうしようかと考えていた。冬はそれに加えて、凍死しないように寝る場所にも気を使わないといけなかった。



明日がいい日であるように。

俺はもうそんなことは願わない。


明日はただの明日だ。

明日も食い物を探すだけで、食い物が見つからなくて飢えて死んだらその明日はもう俺には来ない。



それだけのことだ。




苛立ちが収まらない時は夜のテムズに行って、対岸のビッグベンを眺めた。煌々とまぶしいガス灯が水面を輝かせている。


おかしくて笑えてくる。



川のあっちとこっちにいるだけなのに、俺たちの世界は一生交わらないんだ。


あっち側の奴らの頭を食堂のゴミ箱に突っ込んだら、どんな顔をするだろう。


道端で小便をかけられて目覚めたことなんて、あいつら一度ぐらいあるだろうか。


手の中でぴちぴち跳ねる魚を他のガキに奪われた時の絶望と怒りは知ってるか?





溜まりに溜まった怒りを、川に向けて叫ぶ。

俺のちっぽけな声なんてばかでかい蒸気船の汽笛にあっけなくかき消されてしまった。






その日も一日中路上にいた。


季節外れの雪が降ってきて、歯がガタガタと震え出す。いつもこんな夜は安宿で一晩過ごした。1ペニーも払えば泊まることができたし、同部屋の女を抱く奴らもいた。だけど俺がその気になることはなかった。ガキの頃に散々見た母さんと男たちの姿を思い出して、吐きそうになるからだ。



何で宿に向かわなかったのか分からない。

俺はその日、数ヶ月ぶりに家に戻った。




道はぬかるんで、破れた靴底から泥が滲みた。

この一帯は低地だから、いつも大雨が降るとテムズが氾濫して泥まみれになる。


ボロアパートの階段を上がって、薄い扉に耳を当てる。静かだ。今夜は客がいないんだろうか。

そっとドアノブを回した。

寝室だけの狭い部屋の隅で、テーブルにロウソクが灯っている。その傍に男が立っていた。足元には何かが転がっている。



「だっ、誰だっ?!!」


慌てたような声で、男がこっちを振り返った。


ロウソクの炎を反射して手元が光る。その手には、ナイフが握られていた。男の靴先が当たって、床に転がった何かがうめく。


何か--広がった長い金髪は俺の母さんのものだ。



とっさに男の股間を蹴り上げた。

ぐふう、と生臭い息が俺の顔面に吐き出される。

臭い。

臭くて腹が立ったから男の手からナイフを奪って、胸に突き立てた。硬い骨を削って肉を抉るようにねじこんだ。


男はバタバタと手を振り回していたが、やがて諦めたように動かなくなった。じょわ、と湯気が股間から立ち上がる。

汚い。

べっとりと血と肉片がこびりついたナイフを床に捨てた。汚い。



手足が震えて、どうしても母さんを見れなかった。


部屋を出た。階段を駆け降りた。







それからどうしたんだろうか。


とにかく逃げようと東に向かった気がする。

いや……その前に警察に寄ったのか。

いや……顔見知りのガキに警察を呼べと怒鳴ったんだっけ。


よく覚えていない。




逃げて、逃げて、逃げて、走って、走って、

走った--。




気付いたら、知らない町を歩いていた。

何日歩き続けたのか分からなかった。


手や服にこびりついた血は、他の汚れと一緒に紛れてしまった。何度か転んだのか、膝や腕にはスリ傷や青あざができていた。



疲れ切って、公園の石段に座り込んだ。



雨が降って、上がった。

警察官にどやされて、また歩き出した。

靴はとっくに壊れて用無しになったから捨てた。



俺は何で歩いてるんだろう。

俺はどこに向かって歩いてるんだろう。

俺は人殺しだから、もうあの町には戻れない。

警察に捕まったら死刑になるんだろうか。

きっとなるんだろうな。


どうせ死ぬなら、もう歩かなくてもいいんじゃないか?





その夜は、建物の軒先に座り込んだ。

こんなスラムのガキが行き倒れた所で、誰も気に留めやしないだろう。



ウトウトとしかけた時、ガタンと扉が開いた。


家主に殴られるかと思って飛び起きた。

家の中から声がする。


「どうしました、クーパーさん?」

「いえ……何でもありません」



男が戸口に立って、じっと俺を見下ろしている。

ガス灯で帽子の影が落ちて、表情もロクに分からなかった。


「……何見てんだ?」

「いや、すまない。メガネが壊れてしまってよく見えないんだ」


男はしばらく黙りこんだ後、意を決したように口を開いた。


「きみは帰る家はあるのか?」

「…………はあ?」


機嫌悪く言い返すと、男が一歩後ずさる。


「……路上で暮らしてるのか? 仲間や友だちは?」



重たい身体を引きずって立ち上がった。


冗談じゃない。

こんな大人がいるらしいと聞いたことはある。俺たちみたいなスラムのガキを捕まえて、救貧院に押し込もうっていう魂胆だ。通りを掃除するために。




「待ってくれ! まだ話は……」

「救貧院には行かない! 大人しくずらかるから、それでいいだろ!」



くそ。

静かに死なせてもくれないとは、今日は運が悪い。



「救貧院? いや、そうじゃない。もしきみが路上暮らしで帰る家も家族もないなら、慈善学校に行ったらどうかと思ったんだ」

「……慈善学校?」


耳にしたことはある。前の町でも何人か行ってる奴はいた。でもあんなばかげた格好死んでもしたくない。


「殴られるのも笑われるのもごめんだ。そんな所、絶対に行くもんか!」




男は何も言い返さず、胸元から何かを取り出した。

さらさらと手を動かしている。ペンで書き付けているようだ。


「はい」と手渡されたのは、小さな四角い紙切れだった。




「ここから川を渡って北に向かった先にあるんだ。寄宿制の学校だから、食べ物も寝る場所も心配せずに勉強ができるよ」


「……勉強しても無駄だ。俺は…………だから」

「え?」

「俺は……」


「人殺しだから」と言うだけなのに、のどが張り付いて声が出なかった。男は何を勘違いしたか、俺の頭をくしゃりと撫でる。


俺の頭を撫でたのだ!

……そんなことされたのは生まれて初めてだった。



「大丈夫、誰だって最初は無知だ。多くを持って生まれる人もいるし、何も持たずに生まれる人もいる。だけど1つだけ確かなのは、学んだ知識は必ずきみの役に立つってことだ」


「…………でもいいのか?」

「なんだ?」

「俺が…………でもいいのか?」

「……ああ。きみがスラムの住人でも身寄りがなくても、どんな子どもでもいいんだよ」



どうしてもそいつの目を見ることができなくて、俺は紙切れを奪い取って、その場から駆け出した。



俺は人殺しなんだ!

それでもいいのか?!

あんたは人殺しでもいいっていうのか?!!


ダメだろう!

俺の正体を知ったらあんたは警察に通報するんだろ!



何でもっと早くこの紙切れをくれなかったんだ!

何で俺があの男を殺る前にくれなかったんだ!

あの男は何で俺の母さんを殺したんだ!

母さんは何であんな男を客に取ったんだ!

何で俺が殴られてる時母さんは助けてくれなかった!

何で俺はあいつを殺ったんだ!


くそ!くそ!くそ!くそ!くそ!くそ!くそが!



「くそがああああああーーーーーーーっ!!!!!」




ロンドン橋を渡る奴らが、ぎょっとした顔で俺を振り返った。




俺は文字が読めない。

この白い紙切れに綴られたミミズみたいなインクが何て書いてあるのか分からない。


どうせ俺はこんな学校、行かない。

ぐしゃっと紙を握りしめてテムズに投げ捨てる。


投げ捨てるつもりだったのに。

俺の手は俺の意思とは無関係に、ポケットの中に突っ込まれた。




いつのまにか、夜が明けていた。

きらきらと光る金色の水面が綺麗だった。

どこからか母さんの歌声が聞こえてくる。

--しばらくして、自分が歌ってるんだと気付いた。






フラフラする足でその通りを歩いていた。

前いた町と大差ない、薄汚いスラム街の路地だ。


ポケットから紙切れを取り出した。

シワの寄った紙をもう何度こうして見たことか。


「……………………川を渡って、北に向かう」



あの男の言葉だけを頼りに、俺はここまで歩いてきた。誰かに聞けばよかったんだろうが、俺はそういうことが苦手だった。





突風が吹いてきた。

紙切れが俺の手から逃げていく。



「待てっ!!!!!」


俺は紙切れを追いかけた。


あれがないと、学校の場所も名前も分からないんだ。


あれがないと--


俺は人殺しで--


ただのスラムのガキで--


でも、あれがあれば--


もしかすると、俺は明日を信じて--


もしかすると、明日はいい日で--






車輪の音がした。

馬のいななきがした。


馬車が俺に向かって突っこんできた。




明日はいい日で--。


だから--。


俺は--。




死にたくない。



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