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30.黒い影

殺害現場の路地裏は、ホワイトチャペルの狭い通りに面したパブからほんの僅かの距離だった。



パブの看板の文字は剝げかかって、黒く塗られた扉のガラス窓は割れて新聞紙が貼られている。前世の街中で見かけたようなサッカー中継が流れる陽気な雰囲気はカケラもなくて、どんよりと重暗い空気が店の内外から漂っていた。


もっとも、それは殺人事件の現場近くだから余計にそう感じるのかもしれねえな。



このパブの周囲にはぐるりとロープが張り巡らされて、警察官たちが店の傍の路地を忙しなく行ったり来たりしていた。


ロープのこちら側には、野次馬が溢れかえっていて(その顔は心配しているというより好奇心で輝いていた)そいつらを押し返すように警察官たちがじろりと睨みをきかせている。



「だめだ……全然近寄れないや」



悔しそうに唇を突き出すトムの横で、俺は現場付近をざっと見回した。




当然ながら、俺たちはコナ◯でもなけりゃホームズでもない。前世の俺に高校生探偵さながらの洞察力や推理力があればよかったが、俺はいたって普通の脳みそしか持ち合わせていなかった。


だけど、それでも--。


あの女性と最後に言葉を交わしたのは、俺たちだったかもしれない。


(……捜査に少しでも協力できたら、このざわついた嫌な気分もいくらかはマシになるんじゃねーかな)


唇を噛み締めてるトムをちらっと見た。

たぶん、こいつも同じ気持ちなんだろう。




動き回っている警察官たちを一人一人眺めながら、話しかけやすそうな奴を物色していた俺は--ぴたりと視線を店の扉の前で止めた。



(んんん?!!)


今、まさに扉を開けて出てこようとしてる男は--



つい3日前、ブラックリー卿を父親の元に連行してった、あのサミーっていう幼なじみじゃねえか!!!




「おい! あのっ! サミーさんっ!!!」


出せるだけの大声を振り絞って叫ぶと、なぜかサミーだけではなくて、他の奴らまで一斉にぎょろりとこっちを振り向いた。



「なんだなんだ?」

「今、めちゃくちゃいい声がしなかったか?」

「まさか! 天井桟敷でもあるまいしこんな寂れた通りに役者様がいるわけないだろ」



一斉に喚き出した野次馬たちをコソコソとかき分けながら、俺はトムの肘を引っ張って、サミー目掛けて突進していった。






黒いコートにシルクハットと、いかにも上流階級の出立ちをしたサミーは、メガネの奥の目を丸くして俺たちを見下ろした。



「きみは……アトスだったかな? それにきみもリオンと一緒にいた子だね。よりによって何でこんな所に……」


「あなたこそ何でここに? 貴族がわざわざこんな朝っぱらからスラム街までやってくるなんて……警察官ってわけでもなさそうですけど」



半ば強制的にブラックリー卿を連れてった印象からか、無意識に皮肉めいた口調になっちまった。


だけどムッとした様子も見せず、サミーは穏やかな顔を向ける。



「ぼくはジャーナリズムに関心があってね。たまにイーストエンドを訪れているんだ。もっとも、今日は自宅謹慎中の友人のためにきみたちを訪ねようとしていたんだけど……なじみの新聞社から事件の報せを受けて、急遽ここに立ち寄ったんだよ」


「被害者の女性は俺たちの近所の人だったんです。だから、俺たちも気になって……あの、現場を見せてもらうことは出来ませんか?」



サミーの目が戸惑うようにまた見開かれる。



「アトス……被害者たちは刃物に刺されて亡くなったんだ。現場はまだ発見された当初のままになっている。はっきり言って、きみたち子どもが見るべき姿じゃない。ぼくも……事件のご遺体を見たのは初めてで、正直今も吐きそうなんだ」



口元に手を当てて、サミーは現場を思い出したように眉をひそめた。

俺は背伸びして、警察官たちに聞こえねーようにサミーにこそっと呟いた。



「……俺、一昨日あの女性から聞いたんだ。あの一緒に死んだっていう旦那のことを」



あからさまに顔色が変わったサミーから一歩離れて、俺はにやっと笑った。


「それに俺、こう見えても16歳なんだ。な、頼むよ、サミー。少しだけでいいからさ」







現場でサミーと別れて、テムズ川を漁れるだけ漁った俺たちは、夕陽が水面を染める前にメアリーの家に戻った。



扉を開けると、ふわっとトマトの酸っぱい匂いが鼻にまとわりつく。


メアリーの母さんがかき回してる鍋には、真っ赤なスープがぐつぐつと煮えていた。



俺は「うっ」と小さく呻いて、両手で口元を押さえながら、今入ってきたばかりの扉を蹴り開けて、裏庭のトイレへ走った。






朝に見た殺害現場は--ひどい有り様だった。


せっかくの貴重な食糧をまた吐き戻すのはごめんだから、記憶にモザイクをかけて思い出してみるが、やっぱり最低最悪な気分になるのは変わらない。



メアリーの母さん曰く「まるまる太ったブタみたいな小男」の旦那は、腹を刺されて内臓が飛び出していた。一方の妻は、首をかき切られていた。


警察は、夫婦間の怨恨による犯行として捜査を進めているらしい。


サミーによると「犯行時刻はおそらく深夜から明け方だ。あの男はこのパブで酒を飲んだ後、閉店間際に妻を呼び出したらしい。何人かの客が店の近くで怒鳴り合っている二人を目撃している」そうだ。


凶器の包丁は、現場の路地裏に落ちていた。

あの女性の自宅にあったものらしい。


男は常習的に暴力を振るっていたらしく、女性は護衛のために持って行ったのだろう--というのが警察の見解のようだ。






やっとの思いで口を拭ってトイレから出ていくと、トムが暗い裏庭にぽつんと立っていた。



「平気か、アトス?」

「ああ……大丈夫だ」



俺は無理やり眉を上げて、おどけたように腹をさすってみせる。


「今日は昼飯も食いっぱぐれたからな。腹が抗議してんだろ」

「現場は酷い状況だったんだろ? おまえだけに任せてごめん」


しょぼんとうなだれたトムの背中を、俺は気にすんなって気持ちをこめて叩いた。







あの時、サミーが警察官とかけ合って現場を見せてもらえることになった。俺と一緒に足を踏み出したトムを、俺とサミーは二人掛かりで止めたのだ。



高校生の俺はともかく、前世の日本ならまだランドセルを背負ってる年齢のトムに殺害現場を見せるなんて、さすがに気が咎める。

(何度も言うが、某名探偵くんと少年探偵団は例外だ。単行本百数巻分も殺害現場を眺めてりゃ、鋼のメンタルにもなるだろう)



それはサミーも同意見だったらしい。

不服だと訴えるトムに、サミーは現場の悲惨な状況を身振り手振り交えて伝えた。


だんだんと蒼白になったトムは、ついに折れて、店の扉の前で俺たちを待つことに同意したのだ。







トムと並んで裏庭を横切ってると、いくらか迷うような声が隣から聞こえてきた。


「あのさ……アトスは結局……オレたちが一昨日、あの人から聞いた話を警察にもサミーさんにも話さなかったんだよな? ほら、あの旦那を許さないって言ってた……それって何でなんだ? 今日一日考えてたけど分かんなくてさ」



俺は湿気った草の上で足を止めて、ぼさぼさの頭を搔いた。

トムにどこまで話そうかと一瞬迷ったが、別に隠すようなことでもねえかと思い直す。



「警察の見解では、カッとなった旦那が女性が手にした包丁を奪って首をかき切って、彼女が身を守ろうと包丁を奪い返して旦那の腹を刺した。そうして揉み合うなかで包丁が内臓を深く抉ったんだろう……ということらしい。つまり、たとえ過剰防衛だったとしてもあの人はあくまで被害者で、旦那が加害者として見られているみたいなんだ。そんな時に、俺たちが聞いたことを警察に言ったらどうなると思う?」



薄い月明かりに照らされて、トムはなんとも言い難い表情を浮かべた。



「そりゃ……あの人が最初から……旦那を殺すつもりだったんじゃないかって……疑われるだろうな」


「あの人はつい三日前に母親を亡くして、旦那も死んで自分も死んじまった。あの人が被害者なのか加害者なのか、本当のとこはもう分かんねーけど……一昨日のあの様子から考えても嘘を吐いてるようには見えねえ。今朝現場で見た顔も殴られて腫れてたし、あの旦那にこれまでも酷い目に遭わされてきたのかもしんねえ。だったら……被害者だと思われてんなら、被害者のままでいーんじゃねえのって、思っちまったんだ」



言い終えて、俺はトムの横顔をうかがった。


自分でもこの判断が正しかったのか分かんねえ。

サミーと警察官には「亭主はひどい男だ。自分も母親も不幸だ」と、当たり障りのなさそうな部分だけ伝えておいた。

二人とも明らかにがっかりした目で俺を見たが、気づかないフリをする程度の図太さは備えている。なにしろ、二度目の人生だからな。





「そうか……うん。アトスがそう考えて自分で決めたなら、オレはそれでいいと思う」



トムは鼻の頭をこすって、足首の高さまで蔓延った雑草をずざっと蹴った。


「オレさ……なんか英雄みたいな気分だったんだ。重要な秘密を知ってて、オレたちが事件の鍵を握ってるみたいなさ。でも……アトスの話を聞いてて、自分が恥ずかしくなった。おまえはオレとそんなに歳も変わんないのに、ずっと大人なんだな」



気恥ずかしそうに苦笑いしながら、それでも、トムは目を逸らすことなく俺を見つめてくる。




いや、実際おまえは小学生で、俺は高校生だしな。

それに俺だって、コナ◯くんはともかく、少年探偵団の気分で現場に向かって走ってったぞ。



内心のそんな本音を出せるはずもなく、

--俺はもう一つの本音を引っ張り出した。



「……俺もおまえを凄いと思うぞ。俺は前世でも……ごほ、いや……これまで自分の気持ちを誰かに素直に話したことがあんまねーんだ。おまえみたいに誰かを好きになったり自分が反省したりしても、それを伝えたことがねえ。おまえは初めて会った時から、見ず知らずの俺に飯をおごってくれて、俺を泥ひばりに誘ってくれただろ? おまえは……他人を信頼できる奴なんだよな。それって凄ぇことだと思う」



言いながら段々恥ずかしくなって、ここが薄暗い夜の裏庭でよかったと心底思った。


トムは「……ありがと、アトス」と嬉しさを抑えるようにぽつりと溢して、威勢よく雑草を蹴りながら歩き始めた。






俺はゆっくりとトムの後ろを歩きながら、壁に囲まれたちっぽけな夜空を見上げた。



さっきまで裏庭を照らしていた月は、今は重たい雲に隠れている。真っ暗な闇夜のなかでは、心なしか空気まで一変して重くなったような気がした。




あの女性--。

今朝、殺害現場で目にした彼女の遺体からは、2日前に見かけた黒い影はまったく見当たらなかった。


だけど--。


殺害現場から戻ってトムと合流した俺はふと、ロープの向こう側に群がっている野次馬たちが気になった。


あの瞬間、目の端に映った()()に、ちりちりとこめかみがひくついた。



老若男女、ボロを纏った集団の誰かに--あの黒い影が見えたような気がしたんだ。



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