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29.弔いの鐘が鳴る

みなさま、長らくお待たせしました。

本日より連載再開します。

その日の夜半から降り始めた雨は、朝にはバケツをひっくり返したような土砂降りになっていた。




俺とトムは窓辺で内職をしながら、ときどき首が痛くなって通りを眺めた。この雨じゃテムズの水位が上がって泥ひばりもできないし、どぶさらいも危険だ。


仕事に出かけたメアリーの母さんの代わりに、厚紙を貼り合わせてマッチ箱を作りながら、俺はちらと薄暗い部屋の中を見た。


暖炉の傍では、メアリーが繕い物をしている。

ウィリーは雨漏りで水が溜まった茶碗の中身を裏庭に捨てて、また室内のあちこちに置き直していた。



「……昨日はあんなに晴れてたのにな」



厚紙をテーブルに置いて、トムは水滴が斜めに流れる窓に目をやった。


「ワイト島でみんなでピクニックしたのが嘘みたいだ。オレの見た夢じゃないよな、アトス?」

「ああ、ほんとに俺たちは昨日まであの島にいたんだ。また行こうぜ、みんなでさ」


俺は当然だろって顔をして、にかっと笑ってみせた。浮かない表情をしてたトムも、元気を取り戻したようにまた手を動かし始める。


スラム街の住人がワイト島にピクニックなんて、前世の俺がユー◯ューバーになってバズるのと同じぐらいあり得ない話だ。だけど俺たちにはブラックリー卿という心強い財布……いや、ダチがいる。俺の分は当然自分で稼ぐとしても、こいつらの旅費代なんてあいつなら止めても出そうとするだろう。



俺は手を休めて、ちらと小汚い通りを眺めた。


昨日の夕方に桟橋で別れてから、まだブラックリー卿から連絡はない。父親に睨まれてるみてーだし、この大雨だし、今日はこっちには来れねえかもな。


ビーも途中で馬車を降りて、ウエストエンドの自宅に戻ったきりだ。あいつも婚約解消の件でおばさんたちに心配されてるだろーから、しばらく動きづらいだろう。




窓の外を、よろよろと黒い塊が歩いている。

(……なんだ?)

俺はじっと目を凝らした。


よく見れば、ただの黒い服を着た女だった。


昨日亡くなったマーサ婆さんの娘だ。膝が悪いのか、まるで老婆のような足取りだった。

亡霊のように歩く女の傍を、後ろから、屈強な若い男が酒瓶を片手に通り過ぎようとしている。


どかっ。


酔っ払いだ!

俺とトムはがばっと椅子から立ち上がって、部屋を飛び出した。




酔った男に突き飛ばされた女は、通りにうずくまっていた。辺りにはもう男の姿はない。路地のどこかに入りこんだのだろう。


「大丈夫ですか?」


女の顔をのぞきこんだ俺は、ぱっと目をそらした。

落ち窪んだ両眼は--生気に乏しい姿からは想像がつかないぐらい、ぎらぎらと狂気のような熱を放っている。



女がちっと舌打ちをする。



「…………ゆるさない。あの男だけは……あたしゃ、絶対にゆるさないよ」


俺とトムは顔を見合わせた。


「あ……っと、今からでもあいつを追いかけますか? それか警察に行って……」



突然、右腕がぎゅうっと痛んだ。

細い体からはあり得ないぐらいの握力で、女は俺の腕をつかんでいる。



「…………あの男……あのろくでなしの宿六が……」

「おばさん?」

「どうしてあたしもかあさんも不幸になって、あの男だけがのうのうと生きていられるもんか……ああ、次に会ってごらん……絶対にゆるさないから……」


ぎり、と爪を食い込ませて女が俺を見上げる。


「ぼうや、なんだかあんたは懐かしい感じがするね。あたしにガキがいたら、あんたぐらいの歳だろうね」



俺は反応に困ってとりあえず笑ってみたが、ひきつった笑顔になっちまった。赤の他人だと思ってたこのおばさんが、俺の……いやアトス(仮)の母親かもしれねーって? 前世の母親にだって、よその家族みてえな愛着はなかったけど、でも……まったくの他人だと思ってたこのおばさんを見ても、それ以上に何の感慨も湧かなかった。



チラッと隣にしゃがんだトムを見る。

驚いた様子もなく平然とした顔だ。

俺はほっと胸が軽くなった。

やっぱりこのおばさんは俺とは無関係みたいだ。


(そりゃそうだよな。もし俺がこの人の子どもだったら、とっくにトムやメアリーたちも知ってるはずだ。それにこの辺の住人たちだって)



俺とトムに両側から肩を支えられて、女はのっそりと立ち上がった。ずぶ濡れになった黒いドレスの泥をはたいて、ようやく正気を取り戻したような顔で俺たちを見る。


「ありがとうね、ぼうやたち。あんたたちなら、あのろくでなしの亭主みたいにゃならないだろうよ」



ほんの少し、女の唇の端が上がる。

そうやって笑うだけで女はぐっと若返った。

だけど遠ざかっていく後ろ姿は、背中が曲がって、まるで母親と変わらない年老いた婆さんのようだ。



俺はごしごしと目をこすった。



「どうしたんだ、アトス? 目にゴミでも入ったのか?」

「いや……俺の気のせいだと思うんだけど。なんかあの人の周りがぼやっと黒い感じがしねえ?」


トムはじいっと通りを見つめて、首を振る。


「別に? 雨のせいじゃないか?」

「ああ……そうかもな」




パチパチと瞬きをして、俺は空を見上げた。

重たい灰色の雲がのしかかって、幾筋もの冷たい雫をこの薄汚れた街に打ちつけている。



カーン。カーン。カーン。

カーン。カーン。カーン。



雨音に混じって、どこからかまた弔いの鐘が響いた。







がやがやと通りが騒がしくなったのは、2日後の早朝のことだ。




外に様子を見に行ったメアリーの母さんは、めずらしく蒼白い顔をして戻ってきた。



「どうしたの、母さん?」

「……マーサ婆さんの娘さんが殺されたそうだよ」


俺とトムは同時に「「えっ?!」」と叫んだ。

だってつい一昨日会ったばかりじゃないか!!


ウィリーもスプーンを持つ手を止めて、じっと耳をそばだてている。母親が行方不明だって言ってたもんな……こんな事件を聞いたら心配になるよな。




「角のパブからそう離れてない路地裏で、あのろくでなしの旦那と一緒に死んじまったそうだよ。警察が今現場を調べてるとこさ」


「旦那って、ガタイのいい若い男ですか?!」

「いいや、まるまる太ったブタみたいな小男さ」



俺はトムと目を合わせて、こっそり首を振った。

どうやら、あの酔っ払いとは別の男みたいだ。



「とにかくあんたたち、しばらく1人で出歩くんじゃないよ。メアリーはあたしと一緒に店番においで。ウィリー、あんたは親っさんたちと離れるんじゃないよ。トムとアトスも日が暮れないうちに帰ってくるんだ。いいね?!」


メアリーの母さんの迫力を前に、俺たちは子ヤギみたいに大人しくうなずくしかなかった。






メアリーに見送られて、俺たち3人は家を出た。

南のドック地帯に向かうウィリーと途中で別れると、俺とトムは同時にぴたりと足を止める。



「やっぱ気になるよな?!」

「当然だろ! だってオレたち、あの人と一昨日会ったばかりなのに!」



俺たちはくるりと踵を返して--同時に走り出した!



約1ヶ月半お待ちくださったみなさま、本当にありがとうございます。連載再開とともに、血なまぐさい第三章が始まります。少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。ではまた、なるべく近い内に!

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