28.蜜蜂とライオン
翌朝、俺たちは宿を発った。
馬車は港町のライドにはまっすぐ向かわずに、海岸を見渡す丘の上を目指している。
春の陽射しは暖かく、潮風と混ざり合って日向のいい匂いがする。
一面の草原が、ざざざっと横になびいた。
俺たちは馬車を降りて、青っぽい空気を鼻いっぱいに吸い込んだ。
「うわあ……っ!」
メアリーが顔をかがやかせて眼下の景色を眺めた。
村はミニチュアみたいに小さくて、その先には砂浜と海が広がっている。そんな彼女をにこにこしながらビーが見つめていた。
「気持ちいいな……」
トムは見惚れるように草原を見渡している。その隣では、ウィリーが空を見上げて目を細めていた。
俺とブラックリー卿は、大木の側にシートを広げて朝食の支度を始めた。宿の主人が用意してくれた籐籠には、サンドウィッチやパイ、ゆで玉子やハムやジャムにケーキがたっぷりと詰め込まれている。
そう、ピクニックだ!
「うわあ! 美味しそう!」
メアリーの歓声に、トムやウィリーも駆け寄ってきた。みんなで座って、水平線を見下ろしながら頬張るサンドウィッチは最高の味がした。
俺の横では、ビーとブラックリー卿がラスいちのプラムケーキを賭けてじゃんけんしてる。
(……おいおい、ガキかよ)
前世の遠足じゃ、二人とも大人の余裕で玉子焼きやオムレツをお裾分けしてくれたのに、今はガチな顔でパーやらチョキやら出し合ってる。
だけど今のこいつらの方が、あの頃よりもっと楽しそうに見えた。
背中越しに、ウィリーとメアリーの会話が聞こえてくる。
「……空が青い」
「ね、ロンドンから離れたらこんなに空気が美味しいんだね!」
「なんかさ……変な感じしねえ?」
「うん? どんな?」
「おれらの現実はあの汚ねぇスラムの中なのに、ここにいたら……なんかこっちが現実みたいな気分になる」
「あっ、分かる。でもさ、いつかうーんとお金を稼いだら、また一度ぐらいは来れるかもしれないよ? ねっ、ウィリー。また来ようよ!」
「ああ……また来てえな」
なんか込み上げてくるもんがあって、盗み聞きしちまった罪悪感と一緒に俺は唾を飲み込んだ。
そんな俺の肩をぽんと叩いたのは、トムだった。
「これすっごい美味いぞ! アトスはもう食べた?」
差し出された仔牛の挽肉パイは、目玉が飛び出そうなほど美味かった。ぶんぶんとうなずく俺を見て、トムは満足そうに笑って駆けていった。
コポコポと紅茶を注いで、ブラックリー卿が優雅にカップを傾けている。
じっと見つめる俺の視線に気付くと、カップを持つ手が止まった。
「田中く……アトスも飲むかい?」
「いやいい。あのさ……ありがとな」
ぱちぱちと瞬きするブラックリー卿から視線を動かして、俺はゆっくりと丘を見渡した。
風にそよぐ草の音、日向の匂い、白く輝く海、それから--メアリーたちのはしゃぎ声。
「おめーがあいつらを連れてってくれたおかげだよ。こんな時間を……幸せって言うのかもな」
くせぇこと言っちまったって顔が熱くなってそっぽを向いたら、がばっと横から肩を抱かれた。
「分かるっ! 分かるぜ篤っ!! 俺も今すっげーー幸せ!!!」
ほんのりと頬が赤くなったビーは、どうやらワインを飲んだらしい。俺はこいつからグラスを奪って残りの液体を飲み干した。白の辛口。美味いじゃねーか。
「あーずるいアトス! あたしも飲む!」
「メアリーは子どもだろ」
「アトスもじゃない! それにビーも!」
「はいはーい。お酒は二十歳になってからね」
ブラックリー卿にグラスと瓶を回収された俺たちは、頬を膨らませてぶうぶう文句を言い合った。
◆
ワイト島を出航したのは午後だった。
遠くにポーツマス港が見えた頃には、もう海に夕陽が隠れかけていた。
船から降りた俺たちはのんびりと桟橋を歩いた。
突然、隣を歩くブラックリー卿の足がぴたりと止まる。
「ん? どうしたんだ?」
俺の背後で、ブラックリー卿は固まったように動かない。
その視線の先を見ると--
こいつに似た格好の--つまり貴族と思しき上流階級の若い男が一人、桟橋の手前に立っていた。
俺たちを、いや、主にブラックリー卿をまっすぐ見つめて、男は毅然とした足取りで近づいてくる。
「ど、どうしたんだ、サミー? こんな所で会うなんて奇遇だな」
「奇遇なわけがないだろう」
サミーと呼ばれた男は、にべもなくそう言うと左脇に挟んでいたものをブラックリー卿に突きつけた。
--新聞である。
「なんだ? 何か面白い記事でも……」
「いいから読んでみろ」
鼻先に突きつけられた新聞を目にしたブラックリー卿の顔が、みるみる強張っていく。
俺とビーも背伸びして、両隣からのぞきこんだ。
(一体どうしたんだ? あの男がスキャンダルでもリークしたのか?!)
だが、そこに載っていたのは--
スキャンダルでも、
ゴシップでもなく、
一編の詩だった。
要約すると、こんな詩だ。
美しくて気高い皆から愛されている蜜蜂は、
ある日、気まぐれなライオンと出会った。
ライオンは遊びのつもりで蜜蜂をからかうが、
その崇高な魂に魅了されて、ついに本気の愛を知る。
そしてこれまでの所業を深く反省したのである。
「……蜜蜂とライオン」
俺は思わず詩のタイトルを呟いて、首を右にまわした。
ベアトリクス嬢--Beeと、
ブラックリー卿--Lion
……当事者2人とも無言で新聞をガン見している。
「リオン、そちらのベアトリクス嬢はロックウッド氏の縁の方だろう? きみはまさか彼女と……ごほん、とにかくここに書かれていることは本当なのか? お父上がきみの口から聞きたいと仰っているぞ」
サミーは心配そうにビーを見てから、呆れた視線をブラックリー卿にやった。
「あいつ……くそ、こんな仕返しをしてくるとはね。いや、違うんだサミー! 僕はけしてビーを横取りしたわけじゃ……あ、いや、まあ……してなくもないけど…………ああああっ、待って!!」
「釈明はぼくじゃなくお父上にしてくれ」
ブラックリー卿の肩をつかむと、サミーは引きずるように桟橋の先に停まった馬車へと連れて行く。
俺たちは慌てて追いかけた。
「ちょっと! あんた、何を勝手に……!」
「きみたちの馬車も用意している。今日はそれに乗って帰りなさい」
閉まりかかった馬車の扉をこじ開けて、俺は顔を突っ込んだ。
「こら、危ないだろう」
「そいつはっ……俺のダチなんだ! あんたは誰だ?! 一体そいつをどうするつもりだ?!」
改めて、この男をじっと見た。
年の頃は20代初めぐらい、痩せぎすな体型、色白で短い黒髪の、メガネをかけた神経質そうな印象の男だ。
だけど今、男の目は驚いたように丸くなっている。
なぜかその向かいで、ブラックリー卿も目を見開いていた。
「……僕はサミュエル。彼と同じ大学で幼なじみだ。友人からはサミーと呼ばれている。きみがリオンの友人なら、そう呼んでも構わないよ」
さっきとは違う柔和な顔つきで、サミーは俺を見た。
「ぼくらが向かう先はリオンの屋敷だ。彼の父上から頼まれたものでね。これでいいかな?」
俺は曖昧にうなずいて、反対側の座席を見上げた。
ブラックリー卿はなぜかやたら嬉しそうに俺を見た後で、サミーにべっと舌を出した。
--どうやら本当に気心の知れた仲らしい。
「ありがと、田中く……アトス。でも僕は大丈夫だから。また明日そっちに行くよ。きみたちも気をつけて帰って」
「ああ、またな。おまえも気をつけて」
数歩後ろに下がると、馬車はみるみる遠ざかっていった。
もう一台の馬車に乗り込んで、俺たちはイーストエンドに向かう帰路についた。
カーン。
カーン。
カーン。
カーン。
カーン。
カーン。
薄暗い夜道に鐘が鳴り響く。
トムが馬車の窓を開けると、饐えた匂いの冷気が入り込んできた。
通りには古びたアパートが並んでいる。
その内の一つを見上げて、トムがぽつりと呟いた。
「ああ……マーサ婆さんが亡くなったんだ。窓の明かりが消えてる」
先週見かけたアパートだ。
3階の角の窓は黒いカーテンに覆われて、一筋の明かりも漏れず静まりかえっている。
俺は馬車の座席にもたれ、目を閉じた。
カーン。カーン。カーン。カーン……
教会の弔いの鐘を聴きながら。
今回で第二章が終わります。いつもご覧いただきありがとうございます!次の第三章が最終章で、5、6月には完結予定です。みなさまにアトスたちの行く末を見届けていただけましたら幸いです(^^)
ではまた三章で!
【4/28(月)追記】
次回の更新は、5月下旬~6月になります。詳細については活動報告をご覧ください。
しばしお待ちいただけますと幸いです。




