25.ワイト島の夜(1)
ざあああん。
ざあああん。
真っ黒な水平線から目を離して、俺は背後を振り向いた。
小鳥遊静香--ブラックリー卿は俺と目が合うと、気安い笑みを浮かべる。
「へへっ、バレたか」
「こんな夜中に何してんだ、小鳥遊?」
白い寝巻きに群青色のガウンを着たブラックリー卿は、いつもよりラフな印象だ。ぽすんっ、とガウンに砂がつくのも構わずに俺の隣に座り込んだ。
「それはこっちのセリフ。扉が開く音が聞こえたから後をつけてきたの。どうしたの、田中くん?」
「まじかよ。全然気付かなかった……なんか寝付けなくてさ」
軽く頭をかいて、俺は正面を向いた。
波は静かに寄せて返しを繰りかえしている。
「あいつらの親の話とか聞いたんだ。この時代のスラムのガキなんて、みんな似たり寄ったりの境遇だとは思うんだけどさ……でも、なんか……辛えよな。本人たちの前じゃ絶対言えねーけどさ……」
「そっか……男子はそんな話をしてたんだね」
「おめーらは? てかメアリーと龍太を残してきていいのかよ?」
「二人ともよく寝てるよ。私たちは髪をブラッシングし合ったりとかー、紅茶を飲みながら好きな本や劇の話をしたりとかー、楽しくガールズトークしながら寝落ちした感じかな」
(……ガールズトーク?)
爽やか好青年な顔で笑うブラックリー卿と、
中身が龍太の可憐なビーの姿を脳裏に浮かべて……
俺は心の中の疑問にスルーを決め込んだ。
「優しいね、田中くん」
柔らかな声に誘われて、俺はそっと横を向く。
俺の隣でブラックリー卿が唇の両端を上げていた。
「別に。優しくねーよ」
「そんなことないよ」
「なくねーって……知ってるだろ、小鳥遊?」
俺が言うと、小鳥遊の微笑みが泣きそうに歪む。
そんな顔をさせた申し訳なさに胸がチクリと痛んだが、心のどこかで奇妙な満足感もあった。
『……田中くんはずっとそこにいたんだね』
あの日の冷えた小鳥遊の声は、今も少しも消えちゃいねえ。
「……ごめんね、田中くん」
「おまえが謝る理由なんて1ミリもねーだろ」
ブラックリー卿の声を遮るように早口で言う。
俺の顔をじっと見て--ブラックリー卿はごろんと砂浜に寝転がった。
「おいおい、お高いガウンが汚れるぞ」
「いーんだよ別に。洗濯すればいいし落ちなければメイドの子にあげればいいし」
「おまえほんとに小鳥遊だよな?」
「ははっ……我ながらヒドイ奴だと思うけどね。多分、今の私は元のブラックリー卿の記憶にも影響を受けてるんだ。前世では躊躇ってできなかったことも、今はなんか……やっちゃえばいーじゃんって気分になるんだよね」
星空を見上げて、ブラックリー卿はよく通る涼やかな声で淡々と語る。
なるほどな。
ビーに偽装婚約を持ちかけたり、
メアリーたちの家屋を改装したり、
無茶振りで俺に歌わせたブラックリー卿のこれまでの所業を振り返って、俺はすとんと腑に落ちる。
「そんじゃ……アレもか?」
「うん? アレって?」
「アレだよ、アレ……だからほら、龍太にさ……」
くるりとブラックリー卿は半回転して、砂浜に左肘をついた。
「キスのこと?」
「ああ……」
どこか面白がるようなイケメンの顔を前にして、俺は聞かなきゃよかったと後悔する。
「そうだね。アレも流れでつい……ほら、元の僕は猿かってぐらいメイドから未亡人まで手を出しまくってたでしょ? だからあのくらいスキンシップの一環っていうか……いやでもダメです。もちろんダメ。後から大河くんにすごく怒られたし」
ロックウッドの屋敷で石像みたいに固まってたビーの姿を思い出す。
気の毒に思う反面、俺は驚いてもいた。
「おめーらってさ……その、付き合ったりしてなかったのか? 前世の話だけど」
「まさか! 全然!?」
目を丸くしてるブラックリー卿は、とても嘘をついてるようには見えない。
「私、自慢じゃないけど彼氏もいたことないんだよ。大河くんのことは知らないけど」
「ああ……や、少なくともあいつも高校に入ってからはいねーはずだ」
今世はともかく、前世の龍太は小鳥遊静香のことが好きだった。あいつの名誉のためにも、身の潔白は強調しといた方がいいよな。
「じゃあ私と一緒でファーストキスだったのかな……だったら悪いことしたな。大河くんはモテるからもうとっくに経験済みだと思ってたけど……」
「……おまえはファーストキスだったのか?」
「うん…………うん? でも今の僕のファーストキスは6歳の頃にナースメイドと……あれ、この場合はどうなるんだろ? ね、田中くん?」
無邪気に小首を傾げるブラックリー卿に「知るか!」と怒鳴りたい衝動を押し殺して、俺はこめかみに手を当てた。
「まあとにかくブラックリー卿はともかくおまえ……小鳥遊のファーストキスは龍太だったってことだろ」
「そっか……そうなるのかな。そんなロマンチックな感じじゃ全然なかったけど」
はあっとため息を吐いて、俺も浜辺に寝転がった。
今着てるこのシャツもズボンも、ワイト島に来る前にブラックリー卿が手に入れてくれた物だ。汚れるかもしれねーが、当の本人がシルクのガウンを砂まみれにしてるんだから構いやしない。
「田中くんは?」
「は?」
「好きな人はいたの? 付き合ってた人とか?」
「…………いねーよ」
「……そうなんだ」
体勢のおさまりがよかったのか、砂浜に片肘をついた横向きのまま、ブラックリー卿は俺の顔をのぞきこんでくる。
のぞきこんで--。
俺の顔に影を作ったブラックリー卿は、
ふわり、と
寂しそうに笑った。
笑いながら--。
低い青年の声で言う。
「ね、田中くん。今スマホ持ってる?」
「ああ、持ってっけど」
「そのスマホ、音楽は聴けないんだっけ?」
俺がうなずくと、ブラックリー卿は残念そうに眉を下げた。
「ねえ、この歌知ってる?」
ブラックリー卿が口ずさんだのは、年の瀬にリリースされたヒットソングだった。
「ああ。小説を元にした歌じゃなかったっけ?」
「そうなの! 私、この歌好きなんだ」
うっとりと目を細めるブラックリー卿を見て、俺は思わずまばたきする。
「まじか? その歌……確かバッドエンドだったよな? 死にたい女の子とそれに誘われちまう男の話で……」
いや、と俺は思い直す。
この歌はめちゃくちゃヒットしてるし、そのリスナー全員が心中を望んでるわけがない。
小鳥遊だって、この歌が好きって言ってるだけだ。
俺は何を深読みして……。
「そうだよ、田中くん。だから私この歌が好きなの」
息が触れ合うほどの近さで俺の顔をのぞきこんで、
ブラックリー卿は--
小鳥遊静香は泣きそうに顔を歪めた。




