17.お貴族様の救援物資
「田中くっっっ……うわっ……アトスッ!!!」
ブラックリー卿は床の浮いたレンガにつんのめりそうになりながら、一目散に俺が寝てるベッド目指してやってきた。
髪は四方にはねて乱れてるし、コートの裾から白いシルクの寝巻きがはみ出している。その上--足に履いてるのは、スリッパだ。
「どうしたブラックリー卿?! ビーに何かあったのか?!」
「それが……っ」
ぴた、と足を止めて、ブラックリー卿は俺を見下ろした。みるみるその形のいい眉間にしわが寄って、ひんやりと滑らかな手が俺の額に当たる。
「うわ……熱!!」
「そうなんです、ブラックリー卿。アトスは昨日から寝込んでるの」
騒ぎを聞きつけたメアリーがこっちにやって来る。
ブラックリー卿は端正なお顔を俺に近づけて、透き通るような目でじぃーーーっと見つめた。
「な、なんだよ……小鳥遊……や、ブラックリー卿。俺はどうでもいいからビーは……」
「……ビーは大丈夫だ。差し当たっての問題はきみだよ、アトス」
きっぱりと言い切ると、ブラックリー卿はさっと顔を上げた。
「すぐに支度してくる」
なにを、と聞き返す間もなく、黒いコートの裾を翻してブラックリー卿は一瞬で去っていった。
◆
「一体なんだったんだ……」
メアリーの母さんに薄いお粥をもらった後、俺はまたベッドで休んでいた。朝方にはウィリーとトムも戻ってきて、今はメアリーたちとテーブルで飯を食っている。
熱でぼんやりしながら天井を見上げてると、みんなの声が聞こえてくる。
「……ウィリーやアトスはともかく、オレの飯はいいのに。昨日はロクに稼げなくて何も持ってこれなかったし」
「何言ってるの! このスープはトムがくれたベーコンを使ってるんだから、トムにも食べてもらわなきゃ」
「3日前のベーコンなんて残ってないだろ」
「いいからとっとと食べな! あたしの飯が食えないってのかい?!」
メアリーの母さんががなり立てると、トムの声は止んでかちゃかちゃとスプーンを動かす音だけが聞こえてきた。
トムが遠慮する気持ちも分かるし、メアリーの母さんが心配する気持ちも分かる。
(……仕方ねーよな。俺たちはスラムの住人なんだから。十分な飯や金があれば誰もこんな思いしねーで済むのに……)
ガヤガヤガヤガヤ…………
なんだか外が騒がしいな。
珍しく何人もの人の声や、荷物を運び入れるような音がする。
この建物の廊下を往復するような音も。
なんだ? 隣んちが引越しでもするのか?
「お待たせっ! アトス!!!」
朝とデジャブるよーな威勢のいい扉の音を立てて、またブラックリー卿が部屋に飛び込んできた。
今度は茶色の髪は血統書付きの犬みたいにツヤツヤで、シルクハットもステッキもぴしっと手にしている。
そして、その後ろには--。
なぜか執事のような男たちがカゴを持ってずらりと控えていた。
◆
「で? あんた、こいつはなんだって?」
「はい、奥様。ヒラメのロブスターソース掛けでございます」
「こっちの四角いやつはなんだい?」
「ハムのゼリー寄せでございます」
「このスープ……具が何も入ってねえ……」
「コンソメスープでございます、坊っちゃま」
「うわあ……トライフルなんて見たの、チープサイドで暮らしてた時ぶりだわ!」
「は、お子様方はみな好まれますからな」
「なに、僕も好きだぞ。トライフルが子どもの食べ物だなんて言いふらした奴は子どもの心を失ったつまらない大人だよ」
「は、リオン様……いえ、ブラックリー卿もまだ子どもでいらっしゃいますからな」
「なんだって?! 僕は来年には21歳だぞ!」
「ほらまだ成人してらっしゃらない」
ぐう、と不満げな声がテーブルから聞こえてくる。
俺がベッドで忍び笑いを漏らしてると、トムが足早に近付いてきた。
「なあ……アトス、あいつは一体何者なんだ?」
ベッドサイドには銀製のワゴンが置かれている。
ピクニックセット一式さながら、豪勢なサンドウィッチやらジャムやらスコーンやら、ハムやら茹で玉子やら果物やらジュースやらが詰め込まれたワゴンをチラ見して、トムは胡散臭そうな顔をした。
「オレ、ひょっとしてヤバい奴を連れてきちまったのか?」
不安そうに尋ねるトムに、俺は力なく首を振る。
「いや…………あいつは俺の知り合いなんだ。悪いやつじゃねーから心配しなくていい。まあ……今はちょーーっと……暴走してっけど……」
俺は枕を動かして窓際のテーブルを見た。
小鳥遊静香は、教室でぼっちでいる俺に声を掛けてくるようなやつだ。弟が何人かいると聞いたこともある。
面倒見がいいのは間違いない。
間違いない、が……。
テーブルには大皿がひしめいてて、当然載り切らず、俺の側にあるような銀製のワゴンが3つも4つも待機している。
メアリーの母さんはあきれ顔で、メアリーは楽しそうにニコニコと、ウィリーはぼうぜんとしてテーブルを囲んでいる。
その背後では、執事みたいな揃いの服を着た男たちが、恭しく給仕をしたり質問に答えたりとせわしない。
まるで秋葉原のメイドカフェ--いや、執事カフェがヴィクトリア時代のスラム街でいきなり営業を始めたような異様な光景だ。
(うぉい小鳥遊!!! おまえ何考えてんだ?!! どー見てもこれはやり過ぎだろ!!!!)
俺がベッドから視線を送ると、ブラックリー卿はばちんっ⭐︎と音がしそうなウインクを返してきた。
…………違う、そうじゃねえ。
だが、俺の読みは甘かった。
ブラックリー卿の暴走は止まる所を知らなかったのだ。
◆
トントントン。
恭しいノックの音が室内に響いた後、また一人の執事--じゃなくて、こいつらはフットマンというらしい--が部屋に入ってきた。
「ご主人様、ご用意が整いました」
「うん、ありがとう! じゃ、行こうかアトス!」
爽やかに声をかけられて、俺はぶんぶんと首を振る。
「言っただろ、小鳥遊……ブラックリー卿。俺はしばらくこの町から出ねーって」
「うん、町から出る必要はないよ。でもメアリーたちと同じ部屋にいたらうつすかもしれないからね」
「町から」という部分をやけに強調して言った後、ブラックリー卿はあろうことか--俺をがばっと抱き上げた。
「うぉい?! おまっ……なにしてんだっ?!!」
「だって高熱で歩けないでしょ、アトス」
俺を抱えたままの姿勢で、ブラックリー卿はすたすたと部屋を出て、廊下を挟んだ向かい側の部屋に行く。
「おい?! なに勝手に人んちに……」
「きみの部屋だよ。僕が借りた」
ブラックリー卿の言葉の意味を考えるまでもなく、部屋の様子はあきらかにおかしかった。
まず淡い水色の壁紙が貼られている。小洒落た白とのストライプ模様だ。暖炉も白く装飾されて、床には王族みたいなふっかふかの濃紺の絨毯が敷かれている。
なによりも目を引くのは--部屋の真正面に置かれたベッドだ。4本の支柱が立っていて金色のカーテンが備え付けられている。
え? なんだこれマハラジャかなんか?
「急ごしらえにしては素敵な内装だろう? リージェンシースタイルを意識してみたんだ! サイドボードには替えのリネン、箪笥には洋服一式、それからあっちの棚にはビスケットや缶詰をたっぷり詰め込んであるからね!」
「いや悪ぃ小鳥遊、まじ意味分かんねーんだけど」
「田中くん栄養不足でしょ。それに疲れも溜まってるんだよ。美味しいもの沢山食べて、ゆっくり休んで」
優しい声でそう言うと、ブラックリー卿はぽすんっと俺をベッドに降ろして布団をかぶせた。前世の俺の部屋の◯モンズみたいなふかふかのマットレスの感触に、俺は思わずとろけそうになる。
「そうか……これが女子が話してたスパダリ……」
「へ?」
「なんでもねー。ありがとな、小鳥遊」
ふわりと花が咲くように笑って、ブラックリー卿は軽く俺の額をさすって出て行った。
おかげで俺は腹一杯になって、心ゆくまであったかい布団で眠ることができた。
◆
で、
翌朝はスッキリと目が覚めた。
身体も軽い。
どうやらインフルでもなくて単に疲れが溜まってたみたいだ。
一応気になって踵の包帯を解いてみたら、傷口は象の皮膚さながら分厚くなっていた。あんだけ釘がブッ刺さったわりに軽傷で済んだのは、このアトスの身体が路上暮らしでケガにも慣れてるからかもしれない。
おまけに昨日、破傷風のことをちらっと話したら、顔を真っ青にしたブラックリー卿は俺からスマホを奪ってDを質問責めにした。
部屋から飛び出した後、今度はどこぞの大学病院のじいさん先生を連れてきて、俺はたっぷりと血清を注射されたのだ。
痛くて死ぬかと思ったが、破傷風で死ぬよりよっぽどマシだから文句は言えねー。
ブラックリー卿は今朝も夜明けと同時にやってきて、俺の横でサンドウィッチをぱくつきながら安心した顔をした。
「熱が下がってよかったよ」
「ああ、おめーのおかげだ。ありがとな、小鳥遊。そんであいつの方はどうしたんだ? 婚約問題はもう解決したのか?」
俺は嫌な予感がした。
サンドウィッチを運ぶブラックリー卿の手が、急にぴたりと止まったのだ。
「その件なんだけど……あのね、田中くん」
「なんだよ? 早く言ってくれ」
「龍太くん……例の婚約者にさらわれちゃったの」
俺たちは黙って互いに見つめ合った。
一難去ってまた一難。
そんな言葉が俺の頭をぐるぐる回り続けていた。