13.スラム街のお貴族様
ぴた、と話し声が止んだ。
貴族の男はゆっくりと部屋の扉を振り返って、俺たちと--俺と目を合わせた。
にいっと獲物を見つけたハンターみたいな顔をして、扉の前にスタスタと早足で歩いてくる。
もはや逃げる気も失せて、俺はそいつをにらみつけた。こんなとこまで追ってくるなんて一体どんな魂胆だ? そっちがその気ならこっちだって……。
「やあ! また会えたね! よかったよかった」
それなのに、貴族の男はどう見ても好意的な笑みを浮かべて、あろうことか俺の両手を握るとぶんぶん振り回した。
「いや……あんたは一体……」
「ああごめんごめん! 自己紹介がまだだったね。僕はリオン。みんなからはブラックリー卿と呼ばれてるよ。きみはアトスだね?」
爽やかな声でそう言うと、リオン--ブラックリー卿は綺麗に整った歯を見せて選挙のポスターみたいに笑ってみせた。
◆
優雅にティーカップ--じゃなくて縁の欠けたマグカップを持って、ブラックリー卿はなぜかじめじめした裏庭に立っていた。
「……座らないんすか?」
「だってこの椅子汚れてるじゃないか。しかも埃や泥だけじゃなくてなんだかよく分からない物まで付いてるし」
ブラックリー卿は嫌そうに顔をしかめて、裏庭に打ち捨てられたような木の椅子--この背もたれが壊れて足がぐらついてる代物をそう呼んでいいんなら--を見下ろした。
俺とこいつは今、メアリーん家の裏庭にいる。
日当たりの悪い裏庭は昨日の雨が残ってて、うっすら屋外便所の臭いも漂ってくる。
なんでこんな状況になったかって?
こいつは俺に名乗った後「二人きりで話がしたい」と言い出した。外出しようとするこいつを制して、俺は裏庭に連れてきたのだ。
(一度家を出たら、どこに連れてかれるか分かったもんじゃない!)
こいつはメアリーが淹れてくれたお茶を片手にやって来たものの、想像以上に悲惨な裏庭のありさまを見て寛ぐことは諦めたらしい。
そりゃそうだ。
貴族のお屋敷の庭で優雅にティータイムを楽しむのとはわけが違うからな。
「……なんで俺の居場所が分かったんすか?」
「うん? トムが案内してくれたんだ」
俺はずっこけた。
トムうぅぅぅぅぅぅ!!!
信じてたのに!!!
この裏切り者おぉぉぉぉ!!!泣
そんな俺の姿を見て察したのか、ブラックリー卿は付け足すように言う。
「あ、念のため言っておくと、あの子は最初しらばっくれたんだよ? 仕方がないからずっと後を付いてまわって、僕が怪しい者じゃなくてきみのためを思ってるんだってことを言い聞かせて、それでも納得してくれないから切り札を出してようやく教えてもらったんだ」
…………こいつもストーカーじゃねーか!!!
俺は内心でトムに土下座しながら、ブラックリー卿を見上げて聞いた。正直、嫌な予感しかないからあんま聞きたくはなかったが。
「……切り札ってなんだ?」
「きみが僕の生き別れの弟だっていう」
「まじかよ?!」
「嘘に決まっているだろう」
殴りたい。
猛烈にこいつを一発殴りたかったが、貴族と揉め事になるのはごめんだから俺は息をスーハー吸った。
「どうしたの? 具合が悪いのかい?」
おめーのせいでな!!!
心ん中で叫びつつ、俺は黙って首をふる。
やっぱこいつは信用ならねー。
さっさと誤魔化して早く部屋に戻ろう。裏庭に向かう俺たちを、ビーたちも心配そうに見てたしな。
「……で? なんなんすか? 俺と二人きりで話したいことって」
「きみが今朝持っていた物を見せてくれないかな? あのテムズの階段で座っていた時の」
「ああ…………あれはただの黒板っす。俺、学校に行けねーんで単語を勉強しようと思って。もう借りてた先生に返しました」
「ふうん。どこの学校の先生?」
「えっと……チープサイドです」
「あの辺に小学校なんてあったかな。ああ、それとも慈善学校のこと?」
「ああ……まあ……」
「ま、いいや。じゃあこれが何か分かるかな?」
まるで子どものついた嘘を見透かす教師のような口ぶりだ。最初から俺の言うことなんて信じてないんだろう。ブラックリー卿は軽く笑って、コートの懐から何かを取り出した。
細長いひもみたいなもんだ。
俺は最初、懐中時計の鎖だと思って見てた。
だけど--
それはお貴族様らしいピカピカの金色、
じゃなくて--
真っ白だった。
スマホユーザーなら誰もが知ってる、あの白い--
充電ケーブルに見えた。
てかそうとしか、見えない。
「……………………」
「黙ってないで何か言ってくれないか?」
「……………………誰だ、おまえ?」
「きみが持ってる物を見せてくれたら、教えてあげる」
俺はブラックリー卿を見上げた。
100%悪意のなさそうな爽やかな笑顔。
こいつが龍太だってんなら、俺はなんの疑いもなく信じただろう。
--だけど、こいつは龍太じゃない。
俺はクラスメイトの顔を一人一人思い浮かべてみる。前の席のやつ、選択授業で同じやつ、帰り道が同じ方向のやつ--だけど親しく話をしたやつなんて、誰もいない。
誰も--。
俺はしぶしぶポケットからスマホを取り出した。
嫌な予感がする。
頼むから当たらないでくれ--。
頼むから--。
「あーーっ! やっぱりそうだ! これ田中くんのスマホだよね?!」
低くよく通る美声で、ブラックリー卿が俺の前で叫んだ。
◆
「……………………小鳥遊?」
「うん、私は小鳥遊静香。きみは田中くんだよね?」
じいっと俺を見つめるブラックリー卿--いや小鳥遊静香にうなずくと、俺はむぎゅうと抱き寄せられた。
「うぉい! ちょっとおまえ……っ?!」
「………………ごめんね、田中くん」
ぽつんと声が落ちてきて、俺は顔を上げる。
小鳥遊は俺の目を見て、悲しそうに微笑んだ。
「は? なんでおまえが謝るんだ?」
「きみが死んだのは私のせいだよ。本当にごめん」
『おまえが俺を助けようとして死んだんだ』
数時間前に便所で聞いたビーの--龍太の声を思い出す。龍太と同じ表情で、龍太と同じように俺を気遣ってくれる小鳥遊に苦笑いする。
こいつらはほんとに似た者同士だな。
いつも自分より他人を大事にして--
俺はそんなふうにはなれない。
「……ごめんな小鳥遊。俺、自分が死んだ時の記憶がねーんだ」
「……そうなの?」
「ああ。だから何も覚えてなくて……悪い」
龍太や小鳥遊の様子から、こいつらの死が俺に関係あることは想像がつく。それなのに記憶がありませんだなんて我ながらクソみてーな言い訳だよなと思ったけど、小鳥遊を相手に嘘をつく気にもなれなかった。
なぜか小鳥遊はほっとした顔をした。
その時--、
ばたんっ!と裏口の扉が勢いよく開いた。
各話の改稿は語句やエピソードなど軽めの修正です。物語の大筋にかかわる改稿があれば、本欄でお知らせします。