11.ソーラー充電器
ビーの家は、小学校から南西へ数十分ぐらい歩いた通りに面していた。
大通りから少し離れた閑静な住宅街だ。
三階建ての小洒落た邸宅に入ると、玄関で母親らしき人が出迎えてくれた。
「ビー! あなた一体どこに行ってたの?!」
「ごめんなさい、お母様。あのね、学校の前でメアリーたちと会ったの」
俺はとっさに身構えた。
彼女の友だちのメアリーはともかく、俺みたいなスラムのガキが歓迎されるとは思えなかった。現にビーのおばさんは、メアリーに微笑みながらもチラチラと俺を気にしているふうだ。
「あらあらメアリー! 久しぶりねえ! ええと……あなたも学校のお友だちだったかしら?」
「いえ、俺はメアリーの友人です。アトスと言います。初めまして」
ぺことお辞儀をすると、メアリーのおばさんはびっくりしたように目を丸くした。
「まあ……アトス。しっかりしてるのね。いらっしゃい、二人とも。お茶を淹れるわ。ビー、あなたも話を聞かせてちょうだい」
俺はほっと胸を撫で下ろした。スラムのガキがあまり礼儀正しすぎると逆に警戒されるかとも思ったが、今回は正解だったようだ。
俺たちは短い廊下を通りぬけて、左側の部屋に案内された。クリーム色の壁紙に、淡いピンクの絨毯が敷かれている。立派な暖炉ではぱちぱちと石炭が燃えていて、いかにも上流階級らしい居間である。
俺とメアリーは暖炉の前のソファに座って、その向かい側にビーが腰を下ろした。
◆
湯気の立つ紅茶と美味そうなケーキを前にして、俺とメアリーはじぃーっと皿を眺めている。
「まあまあ王立芸術院の絵画じゃないのよ。冷めないうちに食べてちょうだい。さ、ビー、あなたは説明してくれるわね?」
おばさんの言葉に遠慮なく甘えて、俺たちはばくばくとケーキにかぶりついた。なんたってスラムのガキだ。腹はいつでも減っている。ケーキにはレーズンがたっぷり入ってて甘酸っぱくて最高に美味い。
「ごめんなさい、お母様。私やっぱり、ロックウッド様との婚約を……解消したいの」
「そうなのね。今朝あなたがいなくなって、もしかしたら……と思っていたの。でもどうして考えを変えたのか教えてくれる? それとも最初から嫌だったの?」
「………………」
ビーは黙ってこくんとうなずいた。
おばさんは申し訳なさそうな顔をして、そっと彼女を抱き寄せた。
「そう……ごめんなさい、気づかなくて。お父様のために我慢してくれていたのね。分かったわ。お父様に話して、ちゃんとお断りしてもらうから。安心してちょうだい」
「でもっ……! お母様、そしたらお父様の教授のポストの話はだめになるんでしょう?」
「ビー、そんな事、子どもが気にしなくていいの」
なるほどな。
俺とメアリーは顔を見合わせた。どうやらこの婚約には事情があるらしい。ビーは父親の昇進のために婚約を受け入れたんだろう。
「その……大丈夫なんですか? 俺たちが立ち入っていい話か分からないけど、でもお父さんが今後仕事で困ったりはしませんか?」
「平気よ。夫の指導教授が近々L大学を退職されるの。それで夫に後任の打診があったのだけど、ご子息がうちの娘を気に入られたみたいでね。でも万が一話が流れてもまた次の機会があるし、今の仕事には影響がないから大丈夫よ」
言い終えてから、おばさんはぱっと口元を覆った。
「あらやだわ……私ったら。アトス、あなたって不思議な子ね。まるで大人と話してるみたいな気分だわ。ごめんなさいね、こんな話を子どもに聞かせて」
俺はボロを出さないように黙って微笑した。
(当然だ。この【俺】の中身は高校生だからな)
おばさんもにっこりと笑う。よかった。どこの馬の骨とも知れないガキを一応は気に入ってくれたみたいだ。テーブルを見渡したおばさんは、ふふっと笑って俺とメアリーを見た。
「二人ともお皿が空っぽね。お代わりも食べるでしょう? アンズのケーキもあるのよ」
そう言って、おばさんはさっと立ち上がった。
ビーがきょろきょろと首をふる。
「お母様、テスはどこに行ったの?」
「さっきお父様の外套を取りに行ってもらったの」
「じゃあ私がやるわ。お母様は座ってて」
「あら、これぐらい私がやるわよ」
「だめよ。お母様はドジなんだから……」
ビーより先におばさんは銀のトレーを持ち上げて、てきぱきと二人分の皿とカップを載せていく。
そうか、こういうのは普通メイドの仕事なのか。突然訪ねて気を遣わせちまったな。
「あの、俺が運びます」
「なに言ってるの、お客様にそんなことさせませんよ」
俺が立ち上がると、おばさんは冗談ぽく叱るような口調で言った。ちょっと天然で可愛い人だな。ビーはきっと両親から愛されて育ったんだろう。
トレーを片手に載せて、おばさんは優雅に扉へと歩いていく。ビーがその後ろから付いてった。ドアノブを開けてやろうとして--。
「きゃっ!」
おばさんが小さく叫んだ。
--こんなの、どう考えてもドジっ子のフラグだろ!
扉にむかって俺はダッシュした。
ビーの片手がおばさんの腰を支えている。
もう一方の手で、宙に浮いたトレーをつかもうとして--残念ながら、その手はあと数センチで届かなかった。
「あっ!」
今度はビーが叫んだ。
バランスを崩してよろけたらしい。
俺はとっさに右手でトレーをつかんだ。
空いた左手でビーを支える。
キャッチしたトレーをおばさんの手の中に戻して--
それからビーを立たせようとした所で、
ズキンッ!!!
左手首と右足の踵に電流が走った。
(くっそーーーー!!!)
(やっぱ痛えーーー!!)
まだ治ってない怪我に負荷が掛かり過ぎたらしい。
俺はビーを支えきれず、彼女と一緒に倒れこんだ。
「いてててて……悪い、ビー!!」
彼女を押し倒してしまった俺は、慌てて横に飛びのいた。
ビーはまだ驚いたように固まっている。
「頭かどっか打った? どこか痛むのか?!」
「ううん……大丈夫……びっくりしただけ」
俺の体重でビーが潰されたんじゃないかと不安に思って、俺は床に倒れたままの彼女を見下ろした。
床一面に、ラベンダー色のスカートがはらりと広がっている。その横になにか落ちている。
緑色の手帳のようだ。
(倒れた拍子にスカートのポケットから落ちたんだな)
拾おうとして手を伸ばした。
手を伸ばして--俺もぴたりと固まった。
俺はソレに見覚えがあった。
………………ものすごく、見覚えがあった。
◆
「じゃーん! いいだろ篤!」
俺はゴホゴホ咳こんで、ジト目で龍太をにらんだ。
「おめーは病人に自慢するためにわざわざ家に来たのかよ」
「ちげーよ。今日もお袋さんたち遅いんだろ? ほら晩飯買ってきてやったぜ。お隣り様に感謝しろ」
ローテーブルの上でコンビニのビニール袋をガサガサさせて、龍太はレトルトパウチのお粥やらオレンジジュースやらを取り出した。
余計なお世話--と言いたいとこだが、正直言ってありがたい。さすが中学時代の元キャプテンだ。普段から部員たちにもこうやって目配りしてるんだろうな。
「で? そんなの買ってどーするんだよ? 充電器なんて小型のやつで十分だろ」
「夏にまた合宿行くからさ。この前の連休ん時はコンセントの奪い合いだったんだよ。先輩が優先だしな。最初からソーラー充電だったら余裕だろ。しかもアウトドア仕様で半永久的に使えるんだぜ!」
龍太は嬉しそうに充電器を見せつけた。
ぱっと見緑色の手帳みたいだが、よく見たら迷彩色になっている。確かにアウトドア仕様っぽい。
「へえー良かったな。彼女に連絡し放題じゃん」
「いねーよ。おまえはいんのか?」
「いるわけないだろ……じゃあ好きな子とかは?」
俺は小鳥遊静香のすらりと伸びた背中を思い浮かべながら、つい聞いてしまった。
「ああ…………まあ。可愛いなって思うやつはいるけど」
「小鳥遊?」
龍太の顔がぱあっと赤くなった。
なんだ。やっぱりそうか。
こいつがライバルだったら--勝負する前から負けが確定してるようなもんだ。
「まじで? 俺、そんなバレバレ?」
「さーな。てか眠い。もう帰ってくんね? 金は財布からてきとーに抜いてってくれ」
俺はごろんと龍太に背中をむけて、ベッドに横になった。また熱が上がってきたみたいだ。
この熱が風邪のせいなのか、小鳥遊への失恋のせいなのか、自分でも分からなかった。
幼なじみのこいつが悪いわけじゃない。
だけど今は--顔を合わせたくなかった。
◆
床に寝転んだままの姿勢で、ビーは俺の視線を追いかけた。
追いかけて--ぎょっとした顔で手帳を手で隠した。だけどビーの手は小さすぎて、手帳が隠しきれていない。
いや--手帳じゃなくて。
俺はチラと背後を盗み見た。
おばさんとメアリーは「この子たち一体どうしたのかしら?」という顔で俺たちを眺めている。
腰をかがめて、俺は二人に聞こえないようにビーの耳元でささやいた。
「……………………ソーラー充電器?」
ビーの宝石みたいな目が、信じられないといったように極限まで見開かれる。
彼女はじっと俺を見上げて、可愛らしい声で呟いた。
「……………………篤?」
俺は無言でうなずいた。
なんつーか。
もう色んな意味で、泣きたい。




