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 回廊を曲がり、向かい側の端の扉を開く。大きな両開きの扉。音楽堂は院の左翼から張り出して建てられていて、勤行の僧侶だけでなく聴衆も集めることができる。

 列を成す長椅子の間を通り抜け、燭台、説教台の向こうに簡素な十字架の聖壇がある。その手前が演者の場所で、左手の脇には子どもの聖歌隊が歌える歌唱台が並んでいる。

 修道士たちはここで聖歌を練習する。十二年まえのあの日、セシルもここで歌を歌っていた。樫の木の歌唱台はかつてよりさらに摩耗して黒光りしている。

「……あ」

 その聖堂の右手脇、歌唱台の向かい側の壁に、人の背丈ほどもある大きな絵画が掛かっていた。セシルがいた頃にはなかったものだ。

 中心には光背を戴く聖人乙女。両隣に翼の天使、手にそれぞれ笛と喇叭を握っている。背景は緑と花に満ちた平原。

 聖人乙女は琴を携え、指先で奏でているらしい。その瞳の瞼は、盲目を示すように閉じられている。

「聖ツェツィーリエ……」

 この部屋は音楽堂である。音楽の聖人とされる聖ツェツィーリエの画を飾るのには相応しい空間である。

 だというのに、セシルは気まずそうに狼狽え、頬を赤らめた。口もとを手で押さえ、視線を逸らす。

 丁度その瞬間に扉の開く音が響き、セシルは危うく飛び上がるほど驚いた。

「やあ、やっとお見せできましたよ。やはりあなたのお目にかけませんと」

 院長が長椅子の間を通り抜け、セシルに並んだ。続いていたらしい従者ラツァロは、扉の側で静かに佇んでいる。

「院長、これ……。もしかして、私の郷里からでしょうか……」

「ええ、君のお母上からです」

 聖ツェツィーリエ、英語なら聖セシリア、ラテン語ならば聖カエキリア。

 エングラント出身の母が息子に与えた名は、この聖人にちなむのである。

 それにしても、壁を壊した本人を暗示する意匠を送りつけるというのは、いかにも厚顔だ。セシルは汗を滲ませて弁明する。

「すみません……母はその、少し……空想がちと言いますか、少女趣味と言いますか……」

「誰に聞かれたものか、ほら、大きさもぴったりで」

 頬を染めて俯くかつての修道士に、院長は年齢に掠れた声で笑う。

「お母上はあなたを案じていらしたのですよ。この危うい戦乱の時代に、思い悩みやすい性質に生まれた君を」


 十二年前のあの瞬間は、セシルにとって忘れたくても忘れられない記憶である。

 十歳になって少し経っていたか。入道間もなかったセシルは、ひとり讃えよの聖歌(ラウダーテ)を練習していたのだった。

「後にも先にも、あの日ほど、歌と心が離れてしまったことはありませんでした」

 丁度、三番目の異母兄が没したと報せを受けた直後だった。かつて戦役で二番目の異母兄が死に、遺骸を埋葬した際の、言い表せない感情を思い出したのだった。

 虚しさ、怖れ、それに対する諦め。

 三男は病死で、恐ろしくはあったろうが比較的穏やかに天に召されたと言えるかも知れない。しかし戦死だった次兄は無残な銃創を得て帰ってきた。家族の元に返される戦死者などほんの一握りで、身分のない戦死者のように奪うに任されはしなかったが、それを知ってもなお哀れだった。

 幼い子どもに過ぎなくても、自分や僅かな愛する人々を悪しきことわりが支配していて、それが宗教の教条とはかけ離れていることは理解していた。戦場に限らず世界のほとんどの場所について、未だ想像の範囲を出ないことだったが、神の愛が人間に遍く与えられているとは、どんなに考えても信じられなかった。

「あの瞬間だけなら間違いなく、私は神の愛も、主の約束も信じていませんでした」

 人間の倫理を辛うじて保つために祈るのか、諦念の中で理想を求めて歌うのか。

 信仰の志が、揺らぐどころかほとんど失われていた胸で、舌だけをどうにか動かして聖歌を練習していたのだ。

「歌えば、心は自然と歌に寄り添います。歌にはその力がありますし、揺らぐ心の支えとなる。けれど、その力で支えられないほど、心が暴れる時もある……」

 怒りに近いのだが、違うようだった。

 歌の世界と、心が信じる世界とが離れていると、分かっているのに賛美の歌を歌っていた。

 不意に、周囲の壁の積み石が、はっきり見えるような気がした。セシル自身の声に響き、反響させ、空間をセシルの声で満たしている石である。

 すぐに石を見ているのではないことが分かった。自分は、声を聞いているのである。セシルが発し、セシルの身体の中ではなく、反響を介して外から聞く歌声である。

 しかし、それは自分の心を表していない。自分はこのように神と世界を賛美していないからだ。

 ならば、これは誰の声なのか?

 そう思った瞬間、視界が暗黒に遮られた。


「後は……あまり覚えていません」

「大変な音がしたと思ったら、瓦礫の中に君が倒れていて。あの時は驚きましたよ」

 ご迷惑を、とセシルはなお縮こまるが、院長は穏やかに胸を揺すって笑う。

 実は、君のような子どもは稀にいるのですよ、と、当時はまだ髭に色のあった院長が密かに囁いたのを、セシルは覚えている。

「現在の帝国内は、本来ならば手を携え、愛の眼差しを向け合うべき人々が、敵として憎しみ合っています。我々が真に恐れるべき敵があるとすれば、このような状況をこそ喜んでいるでしょう」

 院長は聖ツェツィーリエの絵姿を見上げたまま呟く。

「君は自分自身を恐れていると思いますが、純粋な若い魂が、人の罪を嘆いて苦しんでいるのに、裁きは正しい手当とは思いませんでした。今もそう思います」

 セシルも絵に目を向ける。聖ツェツィーリエは穏やかに瞼を閉じている。

「正しい手当は、いつでも神の側にあると、今の私は信じています」

 セシルにとってそれは、巡り会うべき人々に出会い、人に溢れた街で共に過ごしたいと願う、そう思える自分が与えられたということだ。

 それは人間の限られた力では叶えられないことであり、また叶えられないこと自体が、常に、セシルも一人の人間であることを確実にするのだ。

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