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やがて侍従が呼びに来たので、社交は旧友に任せ、セシルは手早く茶をあけて院長室へ向かう。案内をしてくれる壮年の侍従は初対面だったが、小遣いさんではなく修道士だ。物静かで穏やかな彼はラツァロと名乗った。
食堂を出て修道院の本棟へ。時折改修している食堂棟と違い、本棟は数百年前の趣を湛えている。リュックが喜んでいたような、昔日の佇まい。白灰色の、幾重にも整列するアーチに列柱。
書物に記され、聞き及んではいるものの、セシルにも見知らぬ、遠い日々の気配。
その大きな過去の気配は、セシル自身の小さな過去と分かちがたく結びついている。
かつての、この修道院に来たばかりの頃のセシルは、今のセシルにとってあまり思い出したくないセシルである。あのセシルでいないために、今のセシルがあるとも言える。
石造りの壁に設えられた木の扉は、素朴だが丁寧な彫り物がある。ラツァロ修道士がそれを叩くと、お入り下さいと柔らかい声がかかった。
「やあ、セシル。久しぶりですね」
扉を開くと、院長は微笑んでかつての少年を迎えた。
「大変ご無沙汰しております」
姿勢を正して握手の手を出し、それを院長が取ると、セシルも自らの身体が、少年だった頃の気分を思い出す。
「随分立派になって」
「いえ、まだ若輩者です。院長こそお変わりなく」
そう言うのは社交辞令で、ノイクロスター修道院長ツァハリアスはセシルの記憶より、ずっと背が縮んで、声も掠れていた。
「あなたが壁に開けた穴、まだ空いていますよ」
「その節は……。もう、堪忍して下さい」
白く髭を蓄え、整えた身なりに、穏やかで選ばれた言葉遣いと広い気遣い。院長は宗教者を示せと言われて出てくるような模範的な僧である。
「あの悪魔祓いの後、随分塞いでいたと聞いて、心配していましたよ」
ええ、とセシルは控えめに微笑むに留めた。要らぬ心配を、親のように守り育ててくれた恩師にかけたくない。
黒絹の袱紗から書簡を取り出すと、侍従であるラツァロが受け取り、院長の手元へと運んだ。
院長から見れば、セシルたちはかつて生活を共にした修道士であり、司祭フレーベルは留め置いた客人といったところか。当時フレーベルはマインツ司教区から派遣され、調査のために各地を巡っていたと聞いている。もう十二年も前のこと。
その客人が、貴族の子弟に村娘、双子の兄弟と、怪しげな子どもを次々に拾ってきたのを、彼は咎めずに受け入れたのだった。
院長はセシルの眼前で封を切り、手紙に目を通し始めた。
セシルは役職柄、何もせずにただ待つのに慣れている。その間は歌について考えることが多いが、今日は院長の所作に、会わなかった時間を見る。姿格好が老いたのに比して、院長の手元の文字を読む視線は迷いなく鋭いままだ。それがセシルを安心させる。
「分かりました。返事を書きますが、今日のうちに持ち帰ってしまうほうがいいでしょうね。急ぎますから、頼みますよ。アダルベルテ・カエキリイ・ウァリス・ニウァーリス」
「承りました」
アダルベルトゥス・カエキリウス・ウァリス・ニウァーリス。
アーダルベルト・カエキリウス・フォン・シュナイエンタールをラテン語式に表すとそうなる。
司祭なので公にはその名を名乗る。しかしその名を唱えると、自らに根付いたものを思い出す。その名に示される故郷に捨ててきた、己の根拠を思い出す。
この修道院で出会った同僚、師、彼らと過ごした時間が、自らを新しく作り替えた、と、そう思いたい。
それで、せめて自らをただセシルと呼んでいる。
「今日は忙しいですね。客人はもうありませんが、怪我人の様子も心配です」
侍従が蝋と封印璽、ペンを揃えて棚から紙を取り出す。
「返事はすぐ書けるので、この部屋で座って待ってくれてもいいのですが……」
ペンの軸の羽根をしごきながら、院長はちらとセシルを見た。
「音楽堂へ行ってみませんか。見ながら待つのにちょうどいいでしょう」
音楽堂の名が出て、セシルは肩を強ばらせる。
「……私が大穴を空けた壁でしょうか」
頬は笑んだままだが、過去の失態を思い出して、自然と声色も固くなる。何、もっと驚きますよ、と院長は楽しげな含み笑いである。
案内を、と言われてラツァロ修道士が案内しようとするのを辞して、セシルは一人で院長室を出た。薄曇りに雪が光る中庭を、列柱とアーチが囲む。回廊に自らの足音が響くと、どうしても当時の気持ちを思い出す。
身を焦がす恐れと怒り。この気持ちは、異母兄が初陣で戦死した時から少しずつ、少しずつセシルの心を蝕んでいる。
蝕んでいるのか、それとも、セシル自身が育てているのかもしれない。




