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早鐘が鳴った。一番高い鐘だけを手荒に打ち鳴らしているが、聞き馴染んだ聖マリーエン教会の鐘の音。
「フレーベル先生だ」
「届いた!」
旧市街門、新市街門どちらもにわかに忙しなくなり、やがて門が閉じられた。これで少なくとも、すぐさま中隊入市という事態には陥らない。
セシルは歌を止めた。無声の息とともに、天を目指していた薔薇の蔓が、頭を落とし、色を落とし、花を落として枯れ落ちる。
「……上手くできました……」
聞き取れないほどに掠れた小声で呟くと、セシルは蔓の中へ倒れ込んだ。茶色く枯れた蔓が砕け、砂のように煙って舞い上がる。
マシーネが駆け寄り、セシルを抱き起こす。キュリルとメトーデがそれに続いて覗き込むと、セシルは目を開けて身体を起こした。
「お前さん、大丈夫か」
「……街は」
「今、中隊が正門に着いた。問答しているらしい。外に留まっている」
「そうですか……良かった……」
安堵の息を吐くと、セシルは腕を持ち上げ、自らの身体を見回した。
薔薇と同様に落ち始めているが、仄かに輝く翼や羽が、僧服を貫いてまだあちこちから飛び出している。
それをセシルは、醜いもののように、不快げに目を細めて睨む。
「ねえ、セシル……」
言いかけたマシーネを無視し、セシルは自らの左肩に生えた翼に右手をかけ、力を込め、引き裂いた。
マシーネが震えて息を呑む。叫びかけたキュリルにも構わず、続けてセシルは左手で右の翼を掴む。
メトーデが制止するより早く、左手が翼の根と筋を引き抜き、捨てる。それでやっと、誰にも聞かせたことのない濁った声で呻きを漏らした。鮮血が噴いて流れ落ちる。
「やめて……! セシル、やめてよ!」
叫ぶマシーネが飛びついても、セシルは腕の羽を毟ろうとする。出血する背の傷に触れずに制止することができず、メトーデはもたつきながら手首を掴んだ。
放して、とセシルが振りほどこうとするのを、キュリルが両肩を押さえて止める。
「どうした、お前さん、しっかりしろ」
「だって」
喘ぎながらセシルが呟く。
「人間は、翼を生やしていないでしょう?」
旧友たちが言葉を失う。それを見て、己の血を浴びたセシルの頬が青ざめていく。
足音が轟く。歌っていたのだ、聞き惚れたか、或いは奇蹟に恐れた時間があったとしても、背嚢と銃を担いだ傭兵が追いつくのは容易い。一方で、並の傷ではないとはいえ、セシルは未だ流血して瞼を閉じている。
「大合唱だったじゃないか」
ユッタが司祭たちに対峙する。警戒しているようでも比較的近くまで歩いて止まるのは、背後の兵たちに銃の火口を準備させるためだ。
「あんたかい? 血涙の司祭さまよ」
言いながら、左手を延べて掲げる。それは号令だ。従えた六人の傭兵が煙を上げた銃を構える。
呼ばれたセシルは、にじり寄るキュリルとメトーデの陰、返り血に塗れたマシーネの腕に守られたまま、顔だけを硝煙の匂いのほうへ向けた。
そして、歌と言葉の導きなく、瞼を開き、濃い青の瞳で兵団を見る。
その視線の意味に気がついたのはマシーネだ。
「だめっ! セシル、だめ!」
傷から流血するセシルの身体にマシーネがしがみついた。乱暴な手にも司祭は呻かない。
だが、狙いは外れた。掛けベルトの留め金が突如弾けた傭兵たちが、銃を取り落として驚きに動きを止めている。
「暴発させる気でしょ、殺しちゃう!」
マシーネの悲鳴にキュリルが青ざめ、メトーデは顔を硬直させる。
「……じゃあ……皆、私を置いて……逃げて下さいよ……」
「そんなことできる奴が、ここにいるわけないでしょう!」
猶予なしと見たか。マシーネの悲壮な絶叫と同時に、ユッタが左手を振り下ろす。
火の銃に残る兵は四人。それが号令で引き金を引く。
炸裂音に悲鳴。
誰でもそれが自分の悲鳴だと考える。だが、ぎゅっと瞑った目を開けば、仇の陣形が崩れていることを知る。
そして咆哮。
嗄れた男の悲鳴が続く。縮めた身を伸ばす間にも、男たちが風のように交錯する獣たちの脚に蹂躙される。叫び、あるいはその喉をこそ噛み裂かれて。
ユッタが身を翻して防御の態勢を取る。その肩を、ひときわ立派な灰褐色の狼が飛びかかって掠めた。
「狼が」
「こんな時に」
傭兵たちが慌てふためき、取り落とした銃を拾う。しかし火薬は燃え、弾は既に放たれている。狼たちは発砲の瞬間を狙い澄ましたのだ。
灰褐色の狼が体勢を立て直すと、それに寄り添い、従うかのように他の狼が集まった。抑制された動き。人間の兵よりも統率が取れている。
威嚇の呻りを上げ、再度灰褐色の狼がユッタに飛びかかる。しかしユッタは立ち上がり様に銃を両手で拾い、振り上げ、その銃床で狼を殴りつけた。
灰褐色の狼は衝撃に飛び、地に打ち付けられてセシルたちの前まで転がる。前脚を横に開き、獣には珍しい体勢で地に伏し、ぎゅっと呻く。
急ぎ起き上がり、鼻面を横に振って、はあっと裂けた口から息を吐く。
「……っ痛ぇ……」
ふと狼が漏らしたその声を、獣の口からだとしても、聞き間違えるはずがない。
セシルに並ぶあのコントラテノール。力強く、張りがあり、春風のように力に満ちるあの声。
「お前――」
狼はちょっと首を巡らせ、僧侶たちと婦人に視線を合わせた。
ぱちん、とその片目を瞑って。
そして哮る。長い嘯き。
整列する獣たちが一斉に駆けだした。さながらアルケビューゼ銃の一斉掃射。喉を裂かれなかった残り三人ではひとたまりもない。
ユッタも拾った銃を抱えたまま、マンテルを翻して崖を踵で滑り降りていく。あの憎らしい捨て台詞を残す間もなく、まっしぐらに。
静かになった崖を風が一陣吹き抜ける。僧侶たちが声をかける前に、灰褐色の狼は一瞬、セシルを見て、仲間の向かった崖へ走り去っていく。
ふ、と仄かに笑ったらしい息も、あの歌の名残に染まっている。
やがて丘の麓、街道のほうから、号砲らしき銃声が二つ響いた。退却なのだろう。グロッケンシュタットの門前にわだかまっていた軍が、街道の西へ動き始めた。
旧友たちに支えられ、セシルは立ち上がる。
立ち上がらなければならない。今日の兵が去っても、戦乱が去ったわけではないのだ。




