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目前で燃えたひとつが、いくつも作られた予備の一部だと言うなら、本物の偽物は今、ユッタの手を離れ、グロッケンシュタットへ向かっている。
そう、それが証拠に、ユッタの背後に少尉ヨージェフの姿がない。
彼こそが中隊を率いているのだ。
棟の向こうにマシーネの声が上がった。
「街だ」
「あっちが本命かよ!」
踵を返して走るセシル、それを追う僧侶たちの背に、ユッタが呟く。
「あんたらは好かれているようだ。街からも人からも……互いに慈しみ合っている。いい関係だ」
どう動いても崖に追い詰めることになるのを知っているのか、走るのは銃を抱える部下に任せ、ユッタは泰然と歩くのみ。
「だがね、そんな僧侶を百人千人飲み込んだところで、あたしらは……戦争は止まらないのさ」
修道院の棟を走り抜け、足止めのために積み上げてある樽や荷物を蹴倒していく。坂を上り、裏庭すぐの崖の淵を、薔薇の蔓を踏んで望む。
「軍が動き始めてるわ!」
マシーネは僅かだが、先を予知している。林から兵は未だ見えないが、彼女には聞こえるのだ。
マシーネは小さく火を燃していて、それを火種にして号砲用に預かっていた猟銃を天に打ち上げた。ひゃあと彼女は尻餅をつく。
それで旧市街側の正門が警戒を始める手筈になっていた。林を抜けて兵が来れば、門番が塞ぐことも、門を閉じることもできる。
だが、マシーネは起き上がりざまに叫んだ。
「新市街側に移動してる!」
キュリルとメトーデも崖に望む。
「林を横切る気か」
「新門は手薄だぞ」
「違うわ、挟み撃ちにするみたい!」
林は南東に張り出し、兵団をほどよく覆い隠すだろう。河を渡らねばならないが、橋がかかっている。
街壁の中に兵を入れてしまえば、議論の前になし崩しで宿営を認めさせてしまうだろう。彼らは、これまでにもそうして来たのだから。
惑う間に、兵団が林から姿を現した。旧市街側、新市街寄り。予言の通り二手に分かれている。
「どうやって報せよう……」
院内なら狼煙がないではないが、追手が迫っている。号砲はまだあるが、新門に報せられない!
セシルは薔薇の蔓を踏み、崖の際に立った。
「歌います」
眼前に合掌する。そして、驚愕する旧友たちを振り返る。
「君、今度は何をする気だ」
「いくらお前さんでも、届くわけねえだろ」
「届くと思います。ね、マリー?」
「え、あ……」
セシルは微笑む。僅かだが、我が意を得たという不敵さがある。
マリーが即座に否定しないことは、成功することだとセシルは知っているのだ。
「あ、ああっ……、もう! 知らない! 知らないからねっ、後でどうなっても!」
大慌ての予言にも、微笑みを返す。
セシルは肩幅に足を開き、背を正して微かに前傾させ、すーっと息を吸う。
神よ、私はあなたを呼ぶ、
急ぎ来よ、私のもとに、助けのために。
宙が音を含んだ瞬間から、全てが始まった。
我が声を聞き届け賜え、
あなたを私が呼ぶならば。
音と共に、薔薇の香りが宙を満たす。
足もとにくすぐるような感触。薔薇の蔓が地を這って伸びている。
香の捧げの如く、我が祈りは御前へ立ち昇り、
夕の捧げとして、我が両手を私は掲げる。
セシルが腕を延べ、指を延べる。その腕まで薔薇の蔓が伸び、芽が伸びる。
そして蕾が萌み、花開く。
神よ、衛士を我が口の前に立てよ、
壁を我が唇の扉の前に立てよ。
どうか、我が心が悪しき言葉に傾かぬよう、
不正を為す徒と、恥ずべきことを為さぬよう。
一音ごとに花が開き、花弁が落ち、枯れ、また蕾が萌んで開く。
その度ごとに、セシルの歌が大きくなる。聞こえる歌声が、声量が増しているのだ。
やがて、開く薔薇の蕾から、白い翼が零れるように飛び出した。
有翼の薔薇は白に、赤に花弁を散らし、開き、中から小さな天使を現す。あどけない相貌の天使たちは幼げな唇で歌い始める。
セシルとともに。
彼らの甘き饗を私が享けることはない。
一息吸い、右手をかざし、振り延べる。
声が飛ぶ。もはや一人の声量ではない。
薔薇が、花弁が、葉が、蔓が。背を伸ばし、今や大人になろうとする天使が。
全てが歌い、声を重ねる。
畝を引き地を裂く如く、
我らが四肢はゲヘナの淵にまき散らされる。
薔薇の蔓が止まらない。先は肩を過ぎてもはや頭を越えている。それを後から後から蔓が追う。
花弁が降りしきる。薔薇の香りが、声と共に天を目指す。
いや、翼があるのは、声であり、歌なのだ。
かき消えないで羽ばたいていく歌。その歌を生み出すセシルの指に、腕に、肩に、背に、歌が持つ翼と同じ翼が現れていく。
我が主よ、神よ、我が両の瞳はあなたに向かい、
あなたのもとに逃れる。我が生命を溢す勿れ!
我が前の罠から私を守り賜え、
不正を為す徒の罠から!
愛された魂のように、白い鳩のように、声は天を目指す。まるで聖堂の中で、反響するために高いアーチの先を目指すように。
天蓋は薄い雲。目下に丘と平原。小川、長河、そして彼らの街グロッケンシュタット。




