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2

 目前で燃えたひとつが、いくつも作られた予備の一部だと言うなら、本物の偽物は今、ユッタの手を離れ、グロッケンシュタットへ向かっている。

 そう、それが証拠に、ユッタの背後に少尉ヨージェフの姿がない。

 彼こそが中隊を率いているのだ。

 棟の向こうにマシーネの声が上がった。

「街だ」

「あっちが本命かよ!」

 踵を返して走るセシル、それを追う僧侶たちの背に、ユッタが呟く。

「あんたらは好かれているようだ。街からも人からも……互いに慈しみ合っている。いい関係だ」

 どう動いても崖に追い詰めることになるのを知っているのか、走るのは銃を抱える部下に任せ、ユッタは泰然と歩くのみ。

「だがね、そんな僧侶を百人千人飲み込んだところで、あたしらは……戦争は止まらないのさ」

 修道院の棟を走り抜け、足止めのために積み上げてある樽や荷物を蹴倒していく。坂を上り、裏庭すぐの崖の淵を、薔薇の蔓を踏んで望む。

「軍が動き始めてるわ!」

 マシーネは僅かだが、先を予知している。林から兵は未だ見えないが、彼女には聞こえるのだ。

 マシーネは小さく火を燃していて、それを火種にして号砲用に預かっていた猟銃を天に打ち上げた。ひゃあと彼女は尻餅をつく。

 それで旧市街側の正門が警戒を始める手筈になっていた。林を抜けて兵が来れば、門番が塞ぐことも、門を閉じることもできる。

 だが、マシーネは起き上がりざまに叫んだ。

「新市街側に移動してる!」

 キュリルとメトーデも崖に望む。

「林を横切る気か」

「新門は手薄だぞ」

「違うわ、挟み撃ちにするみたい!」

 林は南東に張り出し、兵団をほどよく覆い隠すだろう。河を渡らねばならないが、橋がかかっている。

 街壁の中に兵を入れてしまえば、議論の前になし崩しで宿営を認めさせてしまうだろう。彼らは、これまでにもそうして来たのだから。

 惑う間に、兵団が林から姿を現した。旧市街側、新市街寄り。予言の通り二手に分かれている。

「どうやって報せよう……」

 院内なら狼煙がないではないが、追手が迫っている。号砲はまだあるが、新門に報せられない!

 セシルは薔薇の蔓を踏み、崖の際に立った。

「歌います」

 眼前に合掌する。そして、驚愕する旧友たちを振り返る。

「君、今度は何をする気だ」

「いくらお前さんでも、届くわけねえだろ」

「届くと思います。ね、マリー?」

「え、あ……」

 セシルは微笑む。僅かだが、我が意を得たという不敵さがある。

 マリーが即座に否定しないことは、成功することだとセシルは知っているのだ。

「あ、ああっ……、もう! 知らない! 知らないからねっ、後でどうなっても!」

 大慌ての予言にも、微笑みを返す。

 セシルは肩幅に足を開き、背を正して微かに前傾させ、すーっと息を吸う。


  神よ、私はあなたを呼ぶ、

  急ぎ来よ、私のもとに、助けのために。


 宙が音を含んだ瞬間から、全てが始まった。


  我が声を聞き届け賜え、

  あなたを私が呼ぶならば。


 音と共に、薔薇の香りが宙を満たす。

 足もとにくすぐるような感触。薔薇の蔓が地を這って伸びている。


  香の捧げの如く、我が祈りは御前へ立ち昇り、

  夕の捧げとして、我が両手を私は掲げる。


 セシルが腕を延べ、指を延べる。その腕まで薔薇の蔓が伸び、芽が伸びる。

 そして蕾が萌み、花開く。


  神よ、衛士を我が口の前に立てよ、

  壁を我が唇の扉の前に立てよ。

  どうか、我が心が悪しき言葉に傾かぬよう、

  不正を為す徒と、恥ずべきことを為さぬよう。  


 一音ごとに花が開き、花弁が落ち、枯れ、また蕾が萌んで開く。

 その度ごとに、セシルの歌が大きくなる。聞こえる歌声が、声量が増しているのだ。

 やがて、開く薔薇の蕾から、白い翼が零れるように飛び出した。

 有翼の薔薇は白に、赤に花弁を散らし、開き、中から小さな天使を現す。あどけない相貌の天使たちは幼げな唇で歌い始める。

 セシルとともに。


  彼らの甘き饗を私が享けることはない。


 一息吸い、右手をかざし、振り延べる。

 声が飛ぶ。もはや一人の声量ではない。

 薔薇が、花弁が、葉が、蔓が。背を伸ばし、今や大人になろうとする天使が。

 全てが歌い、声を重ねる。


  畝を引き地を裂く如く、

  我らが四肢はゲヘナの淵にまき散らされる。


 薔薇の蔓が止まらない。先は肩を過ぎてもはや頭を越えている。それを後から後から蔓が追う。

 花弁が降りしきる。薔薇の香りが、声と共に天を目指す。

 いや、翼があるのは、声であり、歌なのだ。

 かき消えないで羽ばたいていく歌。その歌を生み出すセシルの指に、腕に、肩に、背に、歌が持つ翼と同じ翼が現れていく。


  我が主よ、神よ、我が両の瞳はあなたに向かい、

  あなたのもとに逃れる。我が生命を溢す勿れ!

  我が前の罠から私を守り賜え、

  不正を為す徒の罠から!


 愛された魂のように、白い鳩のように、声は天を目指す。まるで聖堂の中で、反響するために高いアーチの先を目指すように。

 天蓋は薄い雲。目下に丘と平原。小川(ベッヒェ)長河(ロイムス)、そして彼らの街グロッケンシュタット。


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