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悪魔の言を信じるなら、何かおぞましく、人間でない怪物がグロッケンシュタットにいる。マシーネの神通力が及ばないような何か。
「辺鄙な精霊ってなら、ニッケが連れてるっていう小人がそれっぽいけど……」
いかさまニッケの盗みは、かつて森で出会ったという小人によって為されている、とニッケは主張する。
「でも、ニッケの音は聞こえていますよね?」
「正直、喧しいくらいまともに聞こえる」
乱暴な口調が消え、いつものセシルに戻っていることを、マシーネはいちいち指摘しない。
「最近だと、聞こえてなかったなと思うのは、あの火葬ね。もっと早く聞こえてもいいはずだったわ」
「あのユッタという人が魔女というのは、本当なのでしょうか」
「あの人の歯車はすごく大きくて、たくさんの歯車が噛んでいるけど、音自体は平凡なのよね……。怖い人だけど、邪な何かとは思えないの」
人でないものがまだ、この街にあるのか。
そう考えてから、それはもしや自分ではないかと、密かにセシルは自嘲する。
門前町グリューネンフェルトの端にある倉庫へ、マシーネを送る。その一つに潜んでいたと聞いてセシルは呆れかえったが、たとえ入市管理官長が沈黙したとしても、人目のある場所には連れて帰れない。
件の倉庫に辿り着くと、扉を叩く前に、中から男が一人現れた。その男にマシーネが礼を言う。
「ありがとう(ダンキュー)、ファン・ステーンさん」
ニーダーラント式に話すマシーネにも、特に愛想を見せることなく、ステーン氏は小さく頷いてからセシルを招いた。
「温かい軽食を用意していますので、食堂へ」
言葉少なだが、固い意思を覗わせる口調。とはいえ、人の耳目を避けるため、セシルはそれを辞する。
「どうか是非。私は決して何も話しませんので」
「ですが……」
「話さなくてもいい手筈が整っています」
その表情は食事や歓談に誘うものではない。他の意図が隠されているのだ。
訝しみながらも、では、とセシルは頷いた。ステーン氏は小さな鐘をマシーネに手渡し、帰る際に鳴らすよう言うと、鍵束を持ったまま小屋を出て行った。
「ステーンさんってとても耳が良くて、鐘の音が聞こえる範囲のどこかにいて、小屋を締めに来てくれるんだって。さっきも、鐘だけ鳴らして一人で出てきたの」
食堂の卓には上品で小ぶりの、家族で囲むのに丁度よさそうな卓があり、いかにも羽振りの良い中流家庭といった趣がある。
その卓には小さな卓燭が置かれ、大皿のブロートに壺のズッペが二つ添えられている。
「こんなにしてくれなくてもいいんだけど」
照れくさそうにマシーネが口もとをほころばせる。暖かな部屋、湯気の立つ食事に、セシルの緊張も緩もうとする。
だが、その食事の隣に、筒状の包みが置かれているのを見つけると、その緊張が再び背を走った。
「マリー、これは……?」
「マシーネ。さっきいた時には、なかったわ」
ならば、この包みを預けることこそがステーン氏の目的なのだろう。セシルは椅子に座って包みに手を延ばし、それをそっと開いていった。
「紙……?」
「少し、いいものですね」
覗き込むマシーネは既にブロートを囓っている。
「こちらは判……封蝋の印判ですね」
目の前に突如、ブロートの切れ端が現れて、セシルは顔を上げた。ケーゼも乗っている。
「食べないと頭って動かないのよ」
上等の厚紙が四枚に印判。ブロートを囓りながらセシルはそれを改める。
「ねえ、セシル……言ってなかったけど」
マシーネがセシルの隣に佇み、謎の荷を眺めながら、気まずそうに話し出した。
「この倉庫って、……何か事情が分かんないんだけど、リュックのおうちが、その……貸し出してるの……」
「誰に?」
「ニッケに」
「……ニッケ?」
セシルは眉根を寄せる。
「……なぜ?」
「分からない。何だか、リュックはニッケを庇っているようだったし……あと、何だったかしら。仲間意識とか、言ってたかな」
「仲間……意識……」
今度は眉間に拳を当てる。
「余計分からないです」
「そ、そうよね」
「ですが、それなら、これはやはり盗品なのでしょうね……」
セシルは卓上のブロート用包丁を取り、手巾で拭って、判の印面にこびりついた蝋を抉った。指で擦り、鏡文字を読もうと片目を眇める。
「……帝国軍事局……」
指を蝋に滑らせる。
「……に、双頭の鷲紋」
「リーリが言ってた、本隊ってやつかしら」
「いえ、それは宿営にある隊のことでしょう。その上です、上どころか、皇帝直下の軍事指揮省」
「そんなところの判なんて、この街にあるものなの?」
セシルは首を振る。あるわけがない。ヴィーンの宮廷か、同盟国として繋がりの深いバイエルン宮廷なら辛うじて誰かが持つ権限を有するかも知れない。
「じゃあ、偽物?」
セシルは首をかしいだ。
「私は一度封蝋を見たことがあります。義兄が出兵する際に軍と交わした証書にありました。うろ覚えですが」
「十四年になるのかな、もう」
マシーネの声色が少し和らぎ、セシルもはにかむように笑う。二人が出会ったのが、ちょうどその頃だったからだ。
「あの頃の記憶ですから、自信はありませんが……まるで本物のようです。きっと司教でもそう思うでしょう」
セシルは印璽を目の高さに掲げる。
「軸がいかにも安物ですから、やはり偽物だとは思います。でも、封蝋だけを見て判別するのは難しいかも……そのくらいよくできている」
とはいえ、書状の信頼は封蝋ではなく署名に依存しているし、偽造などしても長期間騙せるわけではない。いずれ軍事局に知れてしまう。
「……これまでに使ったのではなく、これから使うとしたら……」
ごく短い間だけ人を騙すなら有用かも知れない。後で帳尻を合わせられることもあるだろう。
「……これが、いつ、どこから出たものかが分かれば、目的が分かるかも知れません」
「ニッケはこの街の外で盗みをすることはないわ。身の回りの、見える範囲でしかできないの、あいつは」
それなら、と、セシルは静かに断じる。
「……軍事局の権限が必要な者。募兵し、徴税し、宿営、駐屯、布陣する権利のいずれか、あるいは全てを、この街に行使したい者……」




