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そろそろ行きなさるか、と入市管理官長が声を掛けるので、セシルは詰所のストーヴに翳していた手に、手袋をはめる。
厚い外套の下にはストラを着けている。略装ではあるが、儀式の備え。
旧市街正門の詰所には二人以外の姿はない。深夜までの門番を早めに帰らせ、交代が来るまでの間にセシルを招き入れたのだ。
雪はないものの、この冬風の中をセシルが発つことを、官長は咎めない。セシルには何も言わないが、段取りをつけたフレーベル師と秘匿の約束が交わされているはずだ。
官長に厚く礼を述べ、彼が用意した馬に騎乗する。多くを知らないようにとの配慮だろう、官長は見送りなどせず詰所に下がった。
表向きはノイクロスター修道院に行くことになっている。
だがセシルが向かうのは、処刑の丘の向こう、無縁墓地である。
先日炎と煙を見せびらかしていた東の空も、今は闇に塗り尽くされている。月はなく、星々は雲に隠されている。
左手で角灯を掲げ、右手で手綱を取る。馬は夜道に瞳を光らせ、危なげなく並足をする。石畳の街道は除雪されているが、所々凍りついていて早駆けはできない。
と、馬が鼻面を揺らした。何かの気配を察知したのだ、と驚く間に、通りから転び出るように人影が現れた。
セシルは慌てて手綱を引いて馬を止め、角灯を掲げた。
「……マリー?」
「寒いわ」
人影が馬に近づくと、角灯の光がその顔を照らした。門の外、夜の闇に、確かにマシーネが立っている。
「角灯の底に炭も詰めてみたけど、全然ね」
言ってはみるが歯の根が合わない。それでも、セシルは馬を降りない。
「戻りなさい。何を予知したか知りませんが、私について来てはいけません」
「冗談。あんた、私なしで帰れると思ってるの?」
外套を被って凍えながらも、マシーネの言は不敵に揺らがない。その自信にセシルの決心のほうが揺らぎそうになる。
「無名墓地でしょ。私も行くわ」
「いけません。戻りなさい」
「命令する気?」
「お願いだから」
「嫌なら、放り出してってくれて結構よ。私は私で、調べることが……あ……」
苦々しく聞くセシルの前で、マシーネは言葉と肩を震わせた。
「……っくしゅん!」
沈黙が降りる。
「ふぇ……っくしゅ! くしゅん! ちょ、ちょっと待って」
マシーネは旧友に背を向けて三歩下がり、手巾か何かで控えめに鼻をかみ、懸命に拭いて戻ってきた。
「えと、何だっけ」
鼻が赤い。
セシルは黙って馬上に屈み、マシーネに手を差し出した。貴人の手を婦人が取り、馬上に引き上げられる。
「温かいわ……」
鞍の前方に跨がり、セシルに抱えられ、外套を被せられると、マシーネは幾分力の緩んだ声で言った。
「セシルの体温だけでこんなに温かいはずないわ。何かしたの?」
「馬の体温が上がってくるからでしょう。あとは懐炉かな、教会のを借りてきたので」
「それだけ?」
「ええ」
「本当に?」
ふ、と、セシルは音のある息を吐いて笑った。可笑しそうに喉を鳴らす彼は、普段の超然とした微笑みではなく、少年のようにくすぐったそうに笑う。
「そうだね。少し歌っていたかな」
「ただの歌じゃないんでしょ」
「ただの歌。歌はね」
セシルは手綱を取り、腹をぽんと蹴って馬を走らせた。乗馬に慣れない旧友の身体が揺れるので、セシルはそれを支える。
「ねえ、マリー」
「何よ」
「今日は君の神様の音が聞こえる?」
「相変わらずいまいちよ」
「私の音は?」
「あんたの音はずっと聞こえてるわよ。さっきちょっと欠伸したのも」
セシルは再び喉で笑う。ただそれだけの所作というのに、悲しみへの徒労がにじみ出る。
「じゃ、教えて。私は今日、帰って来られるか」
「帰れるわ」
へえ、と、さして嬉しくもなさそうに、ぼんやりとセシルは続けた。
「それなら」
「彼はだめ」
セシルは口を噤む。
夜気に厳しい静寂。しかし、占い師の言葉はそれよりも厳しい。
「彼はまだ帰れない。私たちは私たちのまま」
セシルは沈黙した。響くのは、風と凍りかけの雪道を用心して走る蹄の音だけ。だが、マシーネにはもう一つ、叫ぶように軋む音が聞こえている。
セシルの身体は温かい。だが、心は凍えている。
雪もなく、ただしんしんと冷え込むこの夜のような胸裡を、マシーネは音として聞いている。もっと集中して、逃さないように聞かなければ、手放してしまいそうだ。彼の外套に顎まで埋め、背を彼の胸に預け、じっと自らに定められた音に耳を澄ます。




