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マシーネは振り返って驚く。プロテスタントのリュックが微笑んでいる。
なぜ? こんな裏小路に?
「ルーカスの旦那ぁー」
しかも、ニッケが情けない声を上げてリュックに取りすがった。旦那? グロッケンシュタットの怪異『絶対に捕まらない物盗り』、詐欺師のニクラス親爺が、ツンフトのお坊ちゃん、プロテスタントの期待の星リュックと面識があるというのか?
普段の媚びへつらいを取り戻し、ふにゃらふにゃらと酒焼け顔で、ニッケは白いシャツ(ヘムト)も軽やかなリュックに不平を訴える。あまりにへりくだりすぎて、オペラ(オーパー)か何かの殿様と道化のようだ。
「……ん……ああ……そう、グリューネンフェルトの? あれでいいの?」
言いながら、途中からもう視線はマシーネに投げて、リュックは柔らかに微笑んだまま続けた。
「ひと晩でいいの? マシーネちゃん」
「え……?」
何であんたが、などと言わせる隙はリュックにはない。
「あのへんの小屋、ボクのだもの」
マシーネは開いた口が塞がらないが、リュックはひらひらと喋り続ける。
「小屋と倉庫と、あと少し旅籠とかがあるでしょ、あれはボクんとこのなの。商会の人たちで、閉門に間に合わなかったのを泊めて、荷物を入れておくんだよ」
商会の御曹司が了承したと見て、ニッケは跳ぶように逃げ出した。マシーネの目がそれを追う瞬間、リュックが歩み寄り、可愛げのある顔を彼女に近づける。
「小さいけど居間があって、寒くないよ。住み込みで管理してもらってるステーンさんてのがいるから、暖炉に火入れに行かせるね」
マシーネは開きっぱなしの口を閉じる。
つまり、物盗りニッケが気に入りの盗品を保管している倉庫は、リュックが貸しているということになる。
マシーネは注意深くリュックの顔を見、同時に耳を澄ます。目、鼻、口。嘘、ごまかし、彼の言わない音を聞き取るために。
「あんた、そこに何があるか、知ってるの……?」
「さあ。何があるのかな?」
リュックは春風のように微笑み、問いを繰り返す。
盗品を隠していると追及してもいい。だがそうすれば、人ならぬ魔力で窃盗を繰り返すニッケとリュックの繋がりを暴くことになる。
ぐっとマシーネは唇を引き結ぶ。今は、セシルを守るほうが重要だ。
「……よろしくお願いするわ」
「誰とデートするの?」
マシーネがきっと睨み付けると、その眼差しをこそ待っていたと言わんばかりに、リュックは嬉しそうに笑った。
「分かってるよ。もし本当にデートだったら、管理人なんて呼ばないもの」
リュックはへらへらと、ふざけているようでつかみ所がない。
「ピーテル、あ、ステーンさんね、馬鹿でかいし喋らないしでびっくりすると思うけど、彼は絶対にへまをしないから大丈夫。彼の持ち場にいる限り、君は安全」
マシーネは視線を落とした。
「……感謝するわ」
感謝は本心だが、疑念が彼女を惑わせる。ニッケの歯車の音は雑音が極めて多く、常に聞きづらいが、まさかリュックが噛んでいたとは。また聞きやすい音だけ聞いてしまった、と反省もある。
「ねえマシーネちゃん、福音教会に来ない? 最初に挨拶に来たっきり顔見せないって、牧師さん心配してるよ?」
「行けたら行くわ」
リュックのお節介を聞き流し、路地を出て、今夜聞かねばならない、かつての危機の音を思い出す……
「ねー、そう言わないでさ」
と思ったら、リュックがのこのことついてきた。裏路地でも表通りでも、どちらもリュックは特に警戒を見せない。
「君と話してみたいって人が結構いるんだよ」
「また今度ね」
「デン・ハーグの話を聞きたいとかさ」
「だから、行かないってわけじゃないのよ」
「アルファベートとかフランドル式の絵とか、いろいろ得意なんでしょ、教えて欲しいって牧師さんが言ってるの」
喧しいと罵る代わりに口を曲げて睨み付けると、リュックの頬、琥珀色の瞳の笑みは薄く、声色のようには笑っていない。
「行くって言いなよ」
その静かなひと言には抑えた感情があって、吹雪が掠めたように、マシーネの背筋が冷えた。
怒りとは思えず、脅しとも言えないが、服従しないのなら約束をしないつもりという意思が伺える。
「……分かったわ。来週の日曜には行く」
すぐに、リュックは朗らかに笑った。
「じゃあボクも久々に行こっと」
「あんたも行ってないんじゃない」
「やだなあ、プロテスタントの祈りは家庭内で、が基本でしょ? だからこそ大事なんだよね、仲間意識ってやつが」
恩を売るとか顔を売るとか、そういう利益を見込んでいるのだろうか、とマシーネは思案する。
彼女の態度に満足したのか、リュックはじゃあまたねと手を振って去って行く。
マシーネにとって、自身が聞く歯車の音は神の存在と同じ程に重要で信頼すべきものだ。だからリュックの歯車の音も聞いている。
確かに、彼の歯車は少し変わった音がする。妙に早く、妙に太い。
だが、マシーネにとって全ての歯車は、一つ一つ音が違うのだ。まるで神が、一人一人を大切に、それぞれの役割と運命に相応しく作り上げたことを示すかのように。
理不尽と暴力に人間が容易に拉がれている世界で、それでもマシーネが神を信頼できるのは、この音を聞いているから。そして個人の音を聞き分ける彼女からすれば、リュックの歯車の音も、大きく変わっているようには思われない。むしろ、心が揺れれば歯車の音も同様に揺れるものなのに、リュックの音が揺れるのは一度も聞いたことがないという、そちらの方が気にくわない。
では、悪魔に対峙した時の音は。
実は、よく分からない。記憶そのものは鮮明なのに、悪魔の音を思い出せない。まるで大きすぎる音を聞き、耳が利かなくなった時のように。
その音に比べれば、リュックの音も他の人間たちと大きく違うと思われないのだが……
だが、何か胸騒ぎがする。何か、聞いたことのない種類の音を、己の耳が聞き取っているように思われるのだ。




