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 グロッケンシュタット市内からノイクロスター修道院は見えないが、その背後の崖が丘に裂けているのは、空と煉瓦の街並みの間に少し見えている。林が広がる丘に、崖と、それを下った足もとに岩場が、木立を割って岩肌を露出させているのだ。

 その岩場から火の手が上がっていた。猛烈な勢いで白煙が上がり、その隙間から時折炎の穂先が姿を見せる。

 この火がただの山火事でないことを、グロッケンシュタットの人々は理解している。そもそもあの丘には木々がない。少し高い建物の窓からなら、岩がちな表土が林の隙間から見えるほどだ。

 あれは、無縁墓地じゃないか。

 いいや、隣の刑場だ。

 墓地が火事になんてなるものか。

 刑場にだって斬首台があるきりだ。

 では何が燃えているのか。

 死体が焼かれているに違いない。

 群衆のあちこちから囁き合う声が上がる。誰もが立ち上る白煙を睨みながら、自らの推理と想像に怯える。

 人々は火葬を見たことがない。死人は棺に横たえて納め、街にほど近い、整備された墓地に埋葬する。葬儀をするのは教会である。

 罪人なら処刑場に放置する。だからといって焼いたりしない。人体が焼ける場面というのは、火事でなければ、政治犯のような大罪人や魔女の火炙りだ。とはいえ、斬首ですらそうないのに、そんな大がかりな処刑などやはり街の住人たちは見たことがないのである。

 そして、それらを思い起こすのでなければ、戦争を連想する。

 しかし、丘の斜面に軍隊が並んでいないことは一目で分かるし、林に潜んでいるとも思われない。そんな事態となれば、物見が気づく前に街道の通行人たちが大騒ぎで逃げ込んでくるはずだ。

 刑場と無縁墓地には燃えるものはない。しかし、燃やしたいものならある。

 好き好んで刑場の丘に行く者はほとんどないが、そこに埋葬されない死体が放置されていることは誰でも知っている。罪人や浮浪者ばかりでなく、敗残兵がやって来る近年では、それが特に多いことも。

 ざわめく群衆、子どもが泣き出すのを、母親が叱りながら連れ去っていく。仕事を放り出してきた男たちが騒ぐ中で、老婆が震えている。

 聖マリーエン教会、司祭控え室の窓から白煙と人だかりを認めたセシルが広場へ駆けつけると、老婆は司祭を見て涙を流して訴えた。

「地獄の炎じゃ。悪魔の炎じゃ」

「いえ、あの、落ち着いて下さい、そういうのじゃないですから」

「だが山火事じゃないだろう」

「こんな冬場に」

「あんな所で」

 恐怖が人心を苛立たせ、司祭相手にも語気が荒くなる。そこに老婆が追い打ちをかける。

「火に焼かれたら、天に昇れなくなってしまうじゃろう? 天使様が現れる日に、神様のところに行けなくなってしまうんじゃろう?……」

 集まった人々が顔を見合わせる。

 老婆の言うことが現実的でないことくらいは、誰もが理解している。しかし一方で、火と罪悪との結びつきも極めて強いのだ。婆ちゃん余計なこと言うなよ、などと若者がたしなめたが、大の大人でも身体を燃やされることには耐えがたい恐怖がある。

「そんなことはありませんよ。市警が確認に出たそうですので、落ち着いて……」

 しかし群衆はなお喚き立て、老婆は泣いて呻く。

 その人垣を割りながら、おうおうおう、と低くて太くて馬鹿でかい声が鳴り響いた。

「ありゃあ焚き火か! でっけえな!」

 詰め襟のキュリルが群衆に揉まれながら近づいて来て、虹でも見るような爽快さで遠く白煙を見上げると、振り返って老婆の肩をぽんぽんと叩いた。

「ばーちゃん大丈夫! ありゃ木が燃えてんだ! ばーちゃんとこでも生木を燃やしゃあ煙が出るだろ!」

「おお」

「それにさあ、焼かれたら昇天できねえってのは間違いよ、ま・ち・が・い! 世の中には火事に遭っちまう人だっているだろ? 家じゃなくてもよ、船とか倉庫とか、焼ける時もあらあな?」

「おお」

「その人たちだってちゃあんと、天国に昇って、な? 我らが主と父と一緒に、幸せに暮らしてるんだよ! な? 主も父も、見るべき所をちゃあんと見てんだから! いらぬ心配をしちゃいけねえよ!」

「おおお」

 老婆はカタカタ震えながら、納得したのかしていないのかどちらともつかぬ嗚咽を漏らしたが、周囲で不安げにひそめいていた人々は多少納得した気配を見せた。

 安堵の気配に胸をなで下ろしたセシルの首根っこを、凄絶な形相で、キュリルははっしと捕まえた。

「お前さんはこっち」

 先の大仰さをしまい込み、潜るように密かに群衆に紛れると、セシルを引きずっていても白煙に目を奪われた人々は気づかない。

 人垣を抜けて門へと走ると、馬車の前でメトーデが手を振っていた。

「遅い」

「うるせえ、人心を鎮めてきてんだ」

 兄弟は馬車に乗り込み、セシルを手招く。どこかで見た馬車だと思ったら、修道院に来ていた役人が、数名の助手か小遣いかを連れて乗っている。

「彼は市参事会の遣いで現地に向かうそうだ。あの女隊長、ユッタを刑場に差し向けたのは、そもそも参事会なのだと」

 セシルが乗るともう御者が鞭を振るった。勢いよく馬車が走り出し、セシルはよろめきながら座る。

「けど本当に要請があったのは、フレーベル先生だ。俺らも役人さんも、先生が来るまでの繋ぎ」

「フレーベル先生が火災対応……」

 セシルが呟く。

「え、火だからですか?」

「火だからだ」

「多分そう」

 僧侶たちは揃って重いため息をついた。

 博識の誉れ高い聖マリーエン教会主祭フレーベル、その趣味は、科学実験なのだ。

「だから、何でもかんでもとりあえずで燃やすのはお控えを、と言っているのに……」

 メトーデが眉間を押さえた。日々師の薫陶を受ける彼は、割と大喜びで師が火消しに来るだろうことが想像できたのだ。


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