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「……これは正当な権利に基づく募兵です」

 少尉の返答を合図に、傭兵の一人が進み出て、無言のまま少年の腕に手をかけた。それはセシルの手の指をつまみ、引き剥がそうとしたのだ。

 しかし、セシルの指は動かない。

 傭兵は怪訝に思ったようだ。それは恐らく、セシルの指が僅かも浮き上がらず、むしろ若者の腕に、さらに食い込んでいるのを奇妙に感じたのだ。

 それでも彼は、構わずに力をこめる。さらに、さらにと。やがてセシルの腕のほうに手を掛け、歯を食いしばり引き離そうとした。

 それでもセシルの指は動かない。セシルの笑顔も動かない。苦痛の悲鳴はモーリーが上げた。

 傭兵はああと声のある息を吐いて手を離した。その瞬間、ほんのその一瞬だけ、彼の顔に表情らしい歪みが現れた。

 しかし、それが困惑なのか、苛立ちなのかを判別する間もなく、彼はまた表情を身体から締め出し、そして慣れた動きで拳を握った。

 その拳が司祭の頬を打った。

 ひゃっ、と叫んだのは少年たちである。

 殴打を受けた当の司祭は、閉じた目を開き、揺れた首を正面に、傭兵の前に再度向けた。

 口もとが先の笑みを取り戻す前に、傭兵はもう一度司祭セシルの頬を殴った。続けて、反対の頬を。

 セシルの足は一歩よろめいた。しかしその手は、グロッケンシュタットへ帰るべき少年の腕を離さない。


  幸いなるかな、涜神が許された人、

  その罪が覆われた人。……


 祈りが司祭の唇からこぼれた。その口もとを固い拳が打つ。


  幸いな人、神が罪を負わせることなく、

  その心に偽りを知らぬ人。……


 セシルは目を閉じた。しかし手は離さない。打たれてたたらを踏み、少年たちが引っ張られる。


  私はあなたに罪を告白し、

  私の責めをもはや隠さなかった。

  私は言った、「神の前に涜れを告白しよう。」

  そしてあなたは私の罪を許した。

  このゆえに、全ての敬虔な者が困苦の中あなたに祈る。


 頬、顎、鼻、額。

 祈るごとにセシルは拳を受ける。

「し、司祭様、やめて下さい、離して」

 恐れで言葉が出ないモーリーの代わりに、テオがセシルに懇願した。それにセシルは、ただ微笑む。白い肌には、殴打の腫れが際立って赤い。

 どうしても手を離さない司祭を見て、少尉ヨージェフが囁くように、部下に指示を出した。

「傷ついた僧は街に返せない」

 軽く息の上がっていた傭兵は、その言葉を確かめるのに、上官を振り返った。

 憂いのある瞳を静かに伏せ、ヨージェフは首を振る。

「男を集められなくなる」

 少尉の意図を確認すると、傭兵は腰に留めていた短刀を取り出した。

 自らに向けられた鉄の刃を見ても、セシルは笑みを絶やさない。

 泰然と。腫れ上がった顔で。

「逃げて下さいよお、司祭様……あ、あれ?」

 テオはセシルを抱えるようにして、モーリーごと押しのけようとした。それでもセシルの身体は動かない。

「あ、痛っ……?」

 モーリーがこれまでの恐怖とは違う声を上げた。彼はセシルが握る腕を恐れた目で見る。

 司祭の指が少年の腕の中まで食い込み、破れた皮膚から、血が滲み始めていた。

 しかも痛みの形が、ひとつではない。目で見える箇所はまだ指の形を留めてはいるが、自らの破られた腕の中で、その痛みは今も、徐々に、拡散している……。

 まるで草木が根を張るよう、しかも、耕された柔らかい土に、易々と拡がるよう……

 そんな連想をして、ふと少年は気づく。

 この司祭の動かない足には、今、根が生え出しているのではないか?

「ええ、痛いですね。痛い……ああ、涙が出てきてしまいました」

 司祭セシルがやっと頭を振った。苦笑い、といった体で、自らを責めるような苦しい息で笑い、左の掌で涙を拭う。

 涙。それが伝ったはずの頬には、べったりと血糊が跡をつけた。

 額や瞼からではない。つまり、打たれた傷からではない。

 司祭は両の瞳から、一筋ずつ、鮮血の滴を落とした。

「血の、涙……」

 モーリーの口からやっと言葉が漏れた。殺意を帯びていたはずの傭兵たちが、一歩、後じさる。

「お前、目を殴ったか」

 少尉ヨージェフが傭兵に問う。そりゃ殴りましたけど、と傭兵は弁解する。目玉が潰れるほどじゃないですし、潰しても血って出ないです。

「こうなると……あまり、見えなくて」

 司祭セシルは左腕で目を拭った。途端に、ばたばたと音を立てて血が雪の上に流れ落ちる。

「ああ、しまった」

 袖口から、そこから覗いた手首から、そこに空いた、まるで釘で穿たれたかのような傷から、黒々と血が噴き出す。

 モーリーが悲鳴を上げた。彼を捕らえるセシルの右の手首も、同様に穴が空いて、ほとばしる鮮血が彼の腕まで濡らしているのだ。

 その傷は、ひとつの像を連想させる。

 磔刑となった十字架上の救い主、イェーズス・クリストゥスの傷である。

 無論、その姿を直接には誰も見たことがない。しかし、聖堂の十字架で、受難の図画で、読み物の挿絵で、その傷の説明が為されるものなら、何度でも見たことがある。

 テオが引きつれた声で叫んだ。

「聖痕……」

 司祭セシルは否定しなかった。ただ動かずに、薄く微笑む。

 司祭セシルの唇が僅かに動き、歌を含んだ。


  あなたは私の守護、

  困苦から私を救い、

  私を守って、喜びに包む。


 戦いに囚われた傭兵の心でも思い知る。司祭は、祈ることのできない人々に代わって祈るのだ。

 うっとりと、歌とともに司祭セシルが涙を流す。血の涙を。

  

  罪を冒す者は多くの痛みに苦しむ、

  だが神に身を委ねる者は、その御恵みに囲まれる。

  神に喜び、歓呼せよ、正しき人びと。

  歓声を、信ずる心の人びとよ。


 膝を折った者がいた。セシルを殴打していた傭兵だ。皮の軍靴を雪につけ、祈ろうとしたのか、両手を胸の前に近づけた時、その肩に触れた者がある。

 少尉ヨージェフは、揺るがぬ瞳で司祭を見据え、自らの短刀を抜いた。

 セシルは血に塗れた目を開き、血に塗れた頬を笑ませて、すいと唇を開いた。

 その瞬間、時ならぬ咆哮が響いた。

 セシルですら戸惑う。だが、もちろんセシルの声ではない。木々の間を縫って谺する、それは遠吠えである。獣の咆哮。

 狼の声に違いない。

 傭兵たちがそう口走り、我を取り戻すようにして顔を強ばらせた。戦友を食い殺された恐怖が、未だ彼らを怯えさせるのだ。

「退避」

 少尉が命じる。その鋭く短い一声で、部下たちは訓練を思い出し、背を伸ばして立ち上がり、走り出す。

 部下たちを林へ走らせ、自分も短刀を収めて幌馬車へ向かう。その際に寄越す一瞥も、確認のための冷徹な視線に過ぎない。

 だが、少尉ヨージェフは少しだけ、セシルに目を留めた。表情の読めない相貌で、だが、微かな情熱を持って。

 獣の声が再度響く。少尉もまた、身を翻して退却する。

 幌馬車には御者係の傭兵が待ち構えており、恐らくは怖々と覗き見する他の志願兵を押さえ込んでいたのが、素早く退却してきた仲間を乗せ、瞬いている間に鞭を打って走り出した。


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