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 司祭セシルが朝の時課を同僚に任せ、精霊橋を足早に渡り、旧市街の正門へ向かうのは、募兵に応じる若者たちに神の加護を祈るためだけではない。

 日の出前、まだ空がやっと闇から青ざめてきた頃に、占い師マシーネから石つぶての忠告があったからだ。

 それは時折、宿舎の窓に投げられる。既に身支度を始めていたセシルが窓を開けると、雪の仄白い裏道に、肩掛け(シャール)のマシーネが立って見上げている。

 ヤバい音がする。

 潜めたマシーネの声はほとんど聞こえないが、唇の形で言いたいことは分かるし、そもそも彼女が宿舎のセシルを呼ぶのは、その占いに危機を予知した時しかない。

 支度を急ぎ、予定より早く宿舎を出ると、既にマシーネの姿はなかった。商会ツンフトから出立の祈祷を依頼されたことは話していなかったが、歯車の予知である程度知っているのだと判断し、セシルは旧市街へ急ぐ。

 大聖堂を通り過ぎ、仄かに白んできた東の空を背にして大通りを急ぐと、日の出と開門を知らせる鐘が聞こえてきた。それとほぼ同時に、辺りの裏小路からふとマシーネの声を聞いた。何やら言い争う様子だ。

「マリー? いますか?」

 大通りを曲がって小路へ入ると、走ってきた人影とぶつかった。

「わ」

 セシルはたたらを踏んだが、ぶつかってきた小柄な人影は雪の上をずべっと転んだ。呻いたのか、酒を飲んだ息の匂いがする。

「待ちなさいっ……あ、セシル」

 マシーネが駆けてくる。その声に驚いて、人影は慌てふためいて立ち上がる。

「ひえぇ、ご勘弁。ありゃ、セシルの旦那」

「ニクラス親爺じゃないですか」

 帽子(ミュッツェ)の下から酒焼けした肌を見せるのは、いかさまニッケと呼ばれて通る、酒飲みのニクラスだ。

マシーネさん(フラウ・マシーネ)が追いかけているということは」

 人前で名を明かすと本気で怒るマシーネのために、セシルは少し気を利かせる。

「ニッケ、また何か盗みましたね?」

「いえっ、そんな。いやいやいや」

 ニッケは顔の前で腕を交差させる。彼がいかさま紛いの凌ぎをしているのは誰でも知っているが、盗みをすると知っているのは、このグロッケンシュタットには占い師マシーネとセシルしかいないのだ。

「違うんでさ。今日はほら、返す方で。いつも通り、小人が勝手に盗んで来ちまって。あたしゃ返しに来たんでさ」

 大都市グロッケンシュタットにはいくつか怪談がある。そのひとつが、金にならない妙なものを盗み、時に返してみせる『絶対に捕まらない物盗り』だ。その正体がこの、しがないいかさま師ニッケなのだ。

「もう返しました。だってあの小僧ら、今日街を出ちまうんでしょ? あたしだって急いだんですよ」

「小僧って、志願する少年たちから盗んだんじゃないでしょうね?」

 ニッケは言い訳がましく、へりくだった笑みを浮かべた。

「いや、あたし、酒場を追い出されちまって。代わりに入って来た小僧らが、いいもん飲み食いしてるなあと思ったら、ほら、いつもの。小人がね、勝手に」

「リューデスハイムのヴァインが飲めるって噂よね」

「美味しそうですね」

「美味かったです。あ、いやそうじゃなくて」

 ニッケは皺の目尻を見開いた。

「確かにいいなあとは思いましたがね、珍しく小人が、金を持ってきたんでさ。それであたしは返しに上がりまして。ちょろまかしちゃいませんぜ、牢屋は真っ平で」

「お金……ですか?」

 眉をひそめるセシルに、ニッケはへっへと笑う。

「あれぇ、ご存知ねぇですかい? 酒場じゃ兵隊さまがたが、小僧どもに結構な金を貸してるんですぜ」

 ニッケは関節の曲がった指を立てる。

「そう、傭兵稼業に出なきゃあ、とても返せねぇくらいのね。それを家族に宛がって、当の小僧はお馬の稽古ってわけでさ」

 苦しげに息を詰めるマシーネに首根っこを抑えられながらも、ニッケは街の薄暗さを得意げに語り、おっとそうそう、と懐を探った。

「……あたしの獲物はこっちでさ。ちょいとご覧下せえよ、あたしじゃこんなの読めなくて」

 四つに折られた紙を開いてニッケは差し出す。セシルが受け取り、マシーネも覗き込む。

「兵役の契約書……よね」

「契約終了後の報酬と年金を、契約時に半額支払う……前貸しということですね」

「ちょっと、待って……この署名のモーリッツって、黒猫亭で人足してる子じゃない? 最近ライノと一緒にいる子」

 マシーネはトーアシュテット出身である。先日説教を聞きに来たライナーを知っていたのだとセシルは悟る。

「おかしい。あの子たちは養う家族がないし、黒猫亭のおかみさんが面倒見てる。こんな借金、今すぐ必要だと思えないわ」

「え……」

 これはどういうこと、とマシーネは問おうとして、契約書から顔を上げた。しかし、目の前にあるはずのニッケの姿がない。

「姉御じゃねえですがね、あたしだって占えることくらいありまさあ」

声が頭上から降ってきて、セシルははっと顔を上げる。背後の三階建ての貸家、その三階の窓の縁に掴まって、ニッケはセシルたちを見下ろしていた。

「これは旦那が出てくるぞってね」

 さも面白そうにへっへと笑い、ニッケはそのまま屋根の上に飛び上がって、屋根伝いに走り去ってしまった。路上の二人には、追う手立てもない。


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