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メトーデが止める間もなく、ぱっと身を翻して、キュリルが広場に躍り出た。あ、キュリルだ、と子どもが指をさす。
いやいや、君たち。そんな音ではない。
懐の広いテノールが広場を満たした。言葉は即興だが、節は、先の歌の一節を奪っている。
「歌ってなあ、こう歌うんだ」
ほうらご覧! ライン・ヴァインが
この麗しきグラスに踊るだろう!
其方へ彼方へ転がり舞って、
這いずり回る、咽せ返るほど!
重厚なテノールが、力強く宙に歌の花道を拓く。滑らかさと官能が音に流れ、それでいてどこかそれを茶化すように、舌の子音の大げさな破裂が、縦の拍子の強い音階に乗る。
そうすると、音が楽しさを連れてくる。
キュリルは聖歌を歌うと極めて繊細に、実直に歌う。真面目すぎて面白くないほどだ。
それが世俗歌になると、急に肩も胸もいからせて、ドッコイショと拍子を取ったりする。ちょっと踊って見せるのも様になる。
彼は世俗歌のほうが、本当は好きなのだ。
極端につけた表情に、目など必要以上に見開いて、放てば必ず届く強い声を、しかも極めて魅力的なのを皮切りに、無理やりにでも聴衆の視線を引きつける。
その視線ひとつひとつに、彼はまなかいを交わし、問いかける。
……面白いだろう?
愛しいヴァインよ、くちづけてくれ、
恋に焦がれた悪戯ってやつで!
そうすりゃこちらもお返しに、
いくらでも、何度も抱きしめる!……
……そうさ。俺の歌のほうが、面白いんだよ。
この歌を聞いておけよ。
よっぽどお前さんら向けだ。分かるだろ?……
「ああ、やりやがった……」
メトーデが眉間を押さえた。
キュリルが歌い出したのは、流行りの酒場歌だ。居酒屋には行かない婦人や子どもでも知っている。それは募兵団の行軍歌とメロディーが同じだった。行進向けの拍子になっていたが、行軍歌は替え歌に過ぎなかったのだ。
聴衆たちはこちらのほうが馴染みがあるので、手を打って喜んだ。しかも歌手は、詰め襟を着込んだ僧侶である。口笛だって飛ぶ。
「面白そう! 入れてー!」
節と節の狭間を狙って、明るい声が飛んだ。誰もが気づくぴんと張る声で、それでいて、歌の興味を邪魔しない拍子で。
人垣を割って現れ出るのは、役所のルーカス、リュックだ。
おお、リューック、とキュリルはいい調子で節をつけた。庁舎広場から来ていたのか。彼はキュリルの隣に飛び込む。
力いっぱい絞ってあげる、
丘の切り立つ岩場から、
その葡萄の房の滴を、
濃密に、この唇へ!
誰もが歓声を上げた。
リュックの声は、太いながらに高いコントラテノールだった。キュリルと同じ音を、頭上一オクターブ高く歌い上げる。
まるで春の嵐が巻き上がるように、彼の声は強烈に力強く、吹き付けるように聴衆たちに飛んでいく。
突然の参加者に客は驚き喜ぶ。だが一方で、リュックの歌を知っていたものもあるらしい。慣れた合いの手で、リュックの名を呼ぶ一団があり、彼も返答に手を振り上げる。
さあ、踊るよヴァインが、君のグラスで!
踊れよヴァイン、ねえ楽しいじゃないか!
憂いなんて、みんな消えてしまうよ!
とうとう肩まで組んで、最後の一音は目で調子を合わせてから、聞くもののほうが息切れするほど延ばして、二人は朗々と一曲歌いきった。
広場の聴衆が皆拍手をした。セシルも、メトーデですら感心の息をついたし、もはや募兵団たちまで手を打っている。
「はーい、皆さん、どーもありがとー!」
「気をつけて帰ってねー、お昼からも頑張ってー!」
歌手たちはにこにこ顔で聴衆に手を振った。皆大喜びで手を振り返し、音楽会を去っていく。やがてリュックも、待ち構えていたご贔屓筋らしい若者たちに囲まれ、庁舎のほうへ帰っていった。
募兵団たちは苦笑いで、聴衆を追うのを諦め、次の辻へ行く準備を始めた。
ただ、笛吹きだけは、憎々しげに僧侶たちを睨み付けた。
「……何だい、笛吹きネズミ取り」
僧衣の歌手キュリルが茶化すと、笛吹きは彼を睨み上げた。それでも言い返しはせず、軍靴の踵を返すと、かつかつと力強い足音をたてながら、セシルのもとへやって来た。
「旦那の差し金かい」
セシルは息を飲んだ。
昨日ほんの僅かに見かけただけで、この人物は、セシルが最も身分が高いことを見抜いていたのだ。
セシルは顔から歌の興奮を拭い去り、司祭の微笑みを浮かべた。
「いいえ。誰もが自らの心のとおりに行動した結果です」
笛吹きはセシルより少し背が低い。わざとらしくセシルの目を睨むと、鼻を鳴らして言った。
「旦那の顔は覚えたよ」
いつもなら厄介ごとにも笑顔を返すセシルが、ふと、首をかしいだ。
笛吹きはそれ以上は何も言わず、隊列の先頭に戻ると、隊員に乱暴な声で指示を出して行進を再開した。
軍靴の踵の音が石畳の街に響く。
「おっかねえなあ、あいつ」
キュリルがセシルのもとへ駆け寄った。
「なあ、セシル。……セシル?」
視線を落として思案するふうのセシルに、僧侶たちは訊ねた。
「どうした?」
「いや……あの人」
マシーネの占いをセシルは思い出す。
彼女の占いは外れない。天恵であり、天啓である。ただ彼女にだけ聞こえる事実を、淡々と述べたまでの言葉である。
「女性かなと思いまして……」




