第43話『バレなきゃいいんだよバレなきゃ』
上演中のホールを出たヴァンデロは、少し歩いて劇場のロビーの眩しさに目を細めた。彼はすぐに、胸ポケットにさしていたサングラスをかけ直し、がらんと静まり返ったロビーを見回す。
ロビーでは2、3人のスタッフが、束の間の暇を過ごしていた。室内には禁煙を呼びかける看板も立てられている。ここで葉巻を使うのは難しそうだ。ヴァンデロは足音をカーペットに染み込ませながら、大股でロビーを抜け出した。
『葉巻』と言ったが、休憩のために劇場を出てきたわけではなかった。否、確かに口寂しくなる頃合いであったが、それとは関係がなかった。
劇場、美術館、カフェテリアにエトセトラ。ミュージアム内の、複数の施設を繋ぐエントランスにやってきたヴァンデロは、天井を支える柱の陰に隠れながら、新しい葉巻を取り出した。それを、設置されたゴミ箱の上にかざし、呪文を唱える。
「《オロウスラ・エロティダルト・リオレクルブ》」
すると、葉巻の先端が風の刃にカットされ、断面にふつふつと火が滲み出した。
「テレパシーもさんざん無視しやがって……これで呑気に帰ってきたら、今度こそ灰に変えてやらァ。ま、アイツも三十路超えてんだ。拗ねて仲間の晴れ舞台まで欠席するようなガキじゃねェ。十中八九、何かに巻き込まれてんのがオチだろうが」
葉巻に口付けながら思うのは、先程楽屋から出ていったオスカーのことだった。
出ていったのは大した理由じゃない、ように思う。ただ宝石職人と意気投合し、彼についていったプリマステラへの対応について、ヴァンデロとオスカーの意見が合わなかった。それだけのことだった。
ヴァンデロが主張したのは、秘密裏にニナをプリマステラの護衛につけ、自分たちはミュージアムに残るべきだ、という考えだった。
一方でオスカーが主張したのは、眷属でないニナを信用しきれない、護衛は自分たちの誰かがするべきだ、という考えだった。
そうしてヴァンデロと議論し続けたオスカーは、これ以上は埒が開かないと判断し、頭を冷やすと言って行き先も言わずに出ていったのである。
「俺らがあの職人クンに勝てるわけねェだろ、死にてェのかアイツは……」
ヴァンデロは顔をしかめた。
おそらく、あの場でわかっていたのは比較的魔力のあるヴァンデロとルカだけだったのだろうが――宝石職人・フェリックはただの魔法使いではなかった。
一見20代後半くらいに見えるが、シエルシータやアサジローと同じ手合いだ。ゆうに500歳は超えているはず。ヴァンデロの見立てでは誤差100歳といったところか。
魔力の量はヴァンデロの2倍以上。オスカーの5倍以上はあり、その質も年相応に熟していた。もし彼と戦うことになったら、敵わないことは大前提。周りを巻き込んででも全力を尽くさなければ、逃げることすら不可能だろう。
そして実際、自分たちには『プリマステラの眷属』という社会的な枷がつけられている。その立場上、民間人や施設を巻き込んでの戦闘は出来ない――すなわち、戦闘に持ち込まれた時点でこちらの負けが決まっているのである。
だから、あの場にいた魔法使いの中でもっとも宝石職人に通用する見込があり、眷属でも道徳者でもないニナにプリマステラを護衛させたのに……。
「いっくら説明しても意地張りやがって。結局、ニナの野郎もどこかに行ったみてェだし……なんでこう、俺の周りは人の話を聞けねェ野郎ばっかりなんだ」
何度目か、葉巻の煙を溜息混じりに吐き出して、ヴァンデロは柱の陰から動き出した。
エントランスの床には、すっかり煙が満ちていた。普通ならボヤを疑われる量と濃さだが、煙には魔力探知と同時に幻惑の魔法をかけている。そのためミュージアムの利用者たちは、変わらず憩いの夜を過ごしていた。
「近くに魔法使いの反応はねェな……さて、西から行くか東から行くか……って、あ?」
ふと。微弱な魔力を検知したヴァンデロは、ある方向を見た。それはミュージアムの出入り口。大々的に開放された両開きの扉のそばだった。
そこに、見覚えのある青年が立っていた。灰銀の髪で片目を隠し、後ろ髪を結んで、ワインをこぼしたような臙脂色の制服に着せられた男――確か、リッカだ。
ヴァンデロは迷わず話しかけた。
「おい」
「ひぃぃぃぃっ!?」
ヴァンデロの風貌を見た瞬間、リッカは悪党に遭ったかのように縮み上がった。その恐怖に震える口元を、長い手で鷲づかんで後ろの壁に押し付ける。
「うるさい、静かにしろ。……テメェ、カエルの魔獣に殺されかけてた奴だよな。テメェに聞きたいことがある。短い白髪で褐色の肌で、愛想の悪い長身の男を見かけなかったか。テメェも昼間に見てるはずだ。ここを通ったりしなかったか」
「は、白髪……!? いえ、見てないっす、すみません……! っていうかオ、オレも今、ここに来たばっかりでぇ……!」
「そうか。じゃあな」
ヴァンデロは潔く身を翻し、場所を変えようとした。が、
「あの!」
「あ?」
リッカの、勇気を振り絞ったような声が背中に刺さって、ヴァンデロはやや不機嫌に振り返った。リッカはひゅっと縮こまる。
「あっ、あっ、すみません……その、ステラちゃ……プリマステラって今、どこにいらっしゃいますか……?」
「プリマステラ……? アイツなら劇場にいるが。何の用だ」
「劇場……あ、いえ。なんでもないっす。オレが、勝手に来ただけで――」
だんだん声を小さくしながら、肩を落としてうつむくリッカ。彼のつむじを見下ろしたヴァンデロは、何かを察してはっきりと眉根を寄せた。
なんとなく予想はついたが、あいにく他人の仲を取り持ってやるほど自分は暇ではないし、お人好しでもない。内心そう切り捨てる。だから、いたたまれず建物の外に飛び出したリッカを、引き止めずにただ眺めて――。
「……っ、待て!」
ヴァンデロが声を張り上げた次の瞬間。出入り口をくぐろうとしたリッカの身体が、見えない壁にぶつかったようにひっくり返った。
「……!」
寄せられる周りからの視線もいとわず、リッカのもとに駆け寄るヴァンデロ。リッカの顔を覗き込むと、彼は何が起きたかわからない様子で、呆然と虚空を見つめながら、微弱な電気を浴びせられたように痙攣していた。
「――」
ミュージアムと外との境界線を見つめるヴァンデロ。おもむろに葉巻に口付けると、魔力を込めずに煙を吐き出した。煙は建物の外へと広がっていく。
続けてヴァンデロは、口の中で魔力を込めて煙を吐き出した。すると今度は外に行かず、透明な壁にぶつかったように横に広がった。
確信する。
このミュージアムには、魔力が宿ったものを外に出さない結界が張られている。
「……ハァ。薄々、そんな気はしてたが……既に敵の腹ン中か。しかも、仮にも幻惑を得意技にしてる俺が、注視するまで気づけねェとは……この結界、そこらの魔法使いが作ったもんじゃなさそうだな」
ヴァンデロは、全身を弛緩させたリッカを抱え、人目につかないところに移動しながら考えた。
結界を張った犯人候補として第一に思い浮かぶのは、やはりあの宝石職人だ。彼ならヴァンデロを欺けるレベルの結界が作れてもおかしくない。
次に思い浮かぶのはニナだ。ただ彼は、魔力の量こそ優れているが質が十分ではない。限界まで存在感を薄めているかつ、触れると痺れる作用のある結界を作るなどと、繊細な芸当は出来ないだろう。
「それと……」
他にも考えなければならないことがある。『ヴァンデロの知らない第三者が犯人である可能性』と、『オスカーがいなくなった原因と、結界を張った犯人が別である可能性』だ。
ひとまずヴァンデロは、テレパシーを劇場のステラとサイカに送って、結界の存在を報告した。ついでにミュージアムから出ないことと、舞台が終わったらルカにも情報を共有することを依頼して、伸びているリッカに煙を吐きかけた。
リッカは思いきりむせた。
「ごほっ、ごほっ! な、何を……」
「テメェの感覚を狂わせた。少しは痺れが軽減されるはずだ。さて、テメェにもいろいろ手伝ってもらおうか。もっとも、断ったところでここからは出られねェが」
「て、手伝うって……いったい、何が起きてるんすか……?」
「さァな。とりあえず、場所を変えるから歩け。歩きながら情報を共有する。俺はヴァンデロだ。煙を使って索敵と五感の操作、あとは火を使った攻撃と簡単な体術が出来る。テメェは? どんな魔法が使える? 魔法以外に何が出来る」
「えっ、えっと、その……」
闊歩するヴァンデロの後ろを、ひな鳥のように歩きながら口をまごつかせるリッカ。最終的に黙り込んでしまった彼に、ヴァンデロは赤い視線を投げかけた。
「ずいぶん後ろめたそうだな。よっぽど趣味の悪い特技持ちか。安心しろ、俺の仕事もたいがい趣味が悪い。花の騎士様の前を歩けてんのが不思議なくらいのな」
はっ、と鼻で笑うヴァンデロ。その言葉で彼の職業を察したリッカは、困惑すると同時に肩の力を抜いたらしかった。やがてその口から、朝露のこぼれるような静けさで彼の『特技』が明かされる。ヴァンデロは口の両端を吊り上げた。
「悪党向きの特技だな。テメェ、もう少し早く俺と会うべきだったよ」
「……」
何か思うところがあるのか、『悪党』という単語にぴくりと頬を震わせ、そっぽを向くリッカ。それを視界に認めつつも、ヴァンデロが言及することはなかった。
ヴァンデロたちは、『個展』を開いているらしき会場の受付に足を踏み入れた。
葉巻を手にしたヴァンデロを見ると、近づいてきたスタッフは困ったように眉を下げた。
「お客様、申し訳ございませんが当会場では……」
と、喫煙をやめるよう促してくる。だが、あろうことかヴァンデロは、そのスタッフに向かって煙を吹きかけた。……申し訳程度に遠慮気味に。
「何のことだ」
あまつさえ堂々としらばっくれたヴァンデロに、背後のリッカは混乱で叫びそうになった。着いてきたことを後悔した。しかし、
「働き詰めて疲れてんじゃないのか。無理もほどほどにしとけよ」
「……も、申し訳ありません。見間違いでした。受付にご案内いたします」
悪びれもなく葉巻を持つヴァンデロを前に、スタッフは何故か葉巻が見えていないかのように振る舞い、ヴァンデロをカウンターの1つへと案内した。
リッカはそれを愕然と目で追いかけ、遅れてヴァンデロの言葉を思い出す。
「五感の、操作……あの人、葉巻が見えてないんだ……」
「おい、早く来い。テメェの入場料払ってやらねェぞ」
「あっ、えっ、はい! 今いきます!」
その後受付を通りすぎると、ヴァンデロたちは展示品を公開している部屋の1つに足を踏み入れた。
あまり人気がない個展なのか、食事やナイトパレードの頃合いだからか、会場内の目に見える範囲には人ひとりいなかった。
リッカは四方に展示された絵画を見回し、はっとヴァンデロに囁きかけた。
「ば……ヴァンデロさん、まさかその葉巻、ここでも使うんじゃないっすよね……!?」
「あ? 使うに決まってんだろ。犯人見つけるなり、結界を構成してる媒介を見つけるなり、ここから出るための手がかりを見つけなきゃならないんだぞ。展示品に匂いが移ろうが色が移ろうが知ったことか」
「わ、わかってるならやめてください!? オレも全部は知りませんけど、ここにあるほとんどの絵がすっごく貴重な作品なんすよ!? あっ、あれなんか、海の国の貴重な鉱石が使われた、ほかに類を見ない特別な絵で……! あ! あっちにあるのは、2億ステリアで落札されたって有名な絵っす! あっちは火の国の天才画家が晩年に描いた『液体の猫』で……」
「……わかったわかった。正直、一点一点にかけるなんざ馬鹿らしくて気が向かねェんだが……ケリがついたらこいつらに洗浄魔法をかけて回る。それでいいか」
「えっ? なんすか? 洗浄魔法……?」
「知らねェのか。証拠隠滅に便利な魔法だ。血痕や火薬なんかも綺麗にとれる。ワインのシミ取りにも使ったな。……ほら、始めるぞ」
「あっ、え、うわぁぁぁーーっ!?」
リッカの悲鳴を聞きながら、溜めた煙をたっぷり吐き出すヴァンデロ。魔力が込められた煙は、意思を持った生き物のように、空気の流れを無視した動きで室内を満たしていった。
「……怪しい反応はねェな。次、こっちだ」
ヴァンデロはすぐに移動し、隣の彫刻品の部屋でも、その隣の陶芸品の部屋でも同じことを繰り返した。だが、手がかりは一向に見つからなかった。
「……チッ、ここもハズレか。つか、なんなんだこの部屋は。コレクターの出展みたいだが、さっきから出してるもんに一貫性がない……が、見境なく手ェ出してるわりには、どれもきちんと上等そうなもんを置いてやがる。何モンだ?」
「さ、さぁ……もらったパンフレットにも、主催者の記載はありませんし……いっそう不気味っすね」
そんな会話をかわしながら、次の部屋に入ってすぐ。そこにあったものを見て、2人は反射的に半歩引き下がった。ざっと15名ほどの女性たちが、四方八方を向いて直立していたのである。
「ひぃぃぃっ……! あ、あれ? ――人形?」
「……らしいな。よく見ると目玉がガラス製だ。関節も丸いもので繋がれてる。それを除けば、気味が悪いほど精巧な代物だな。だが恐らく、ぞっとする原因はそれだけじゃねェ……下がれ、リッカ。何かあるとしたらここだ」
ヴァンデロは尽きかけの葉巻に口をつけ、辺りを注意深くうかがいながら煙を吐き出した。
きっと、持ち主がそれぞれの顔立ちに合わせたのだろう。愛らしい、あるいは上品な、あるいは大胆なドレスを着た人形たちの間を抜け、煙が部屋に満ちていく。
そしてヴァンデロは、煙が何かに絡みついたのを検知した。
目を向けたのは、部屋の隅に立っていた人形の足元だった。そこから微かに魔力の反応がある。ヴァンデロは豪奢なドレスをたくし上げ、そこに落ちていたものに目を見張った。
「これは……」
それは、手のひらサイズの革の小物。オスカー愛用のキーケースだった。
シンプルな意匠だが、間違えるはずがない。何故ならこれは、オスカーが眷属になって火の国を発ったあの日。自分たちの父親代わりの男が――キースが、オスカーに持たせたオーダーメイド品なのだから。
覚えた憎しみと羨望の分、その姿はしっかりと記憶に焼きついている。
これがあるということは、オスカーはここで何かに遭遇したのだろう。隠すような場所にあるのは、オスカーの意図によるものか。
ヴァンデロはキーケースをポケットにしまい、再びステラとサイカにテレパシーを送った。『自分は今、リッカと個展会場の人形の部屋にいる。15分以内に追加の連絡がなければ、そこで自分の身に何かあったものと思え』という内容だった。
ステラとサイカは何か言いたげな様子だったが、断りを入れて外界から意識を遮断した。今は、すべての意識を索敵に集中させなければ。
「リッカ、剣を抜け。俺の死角をカバーしろ。何かが起きたら叫――」
と、そのときだった。
隣接する部屋からふいに、何かが入り込んできた。鳥、いやコウモリだ。
ヴァンデロは、葉巻を持った手を振り払う。すると先端でなぞった場所から煙が広がり、ヴァンデロとコウモリの間に煙の壁を作った。が、
「ばぁ」
コウモリから少女の声がした直後。ヴァンデロは黒い靴に蹴り飛ばされ、真横に吹き飛んだ。長身の体躯は複数の人形を巻き込み、ばたばたと転倒させていく。
「――」
絶句するリッカの前で、ヴァンデロの葉巻が床に落ちた。身を横たえながら煙を上げるそれを、小さな足がぐりぐりと踏みつける。
呼吸を、瞳孔を震わせながら、リッカは視線を持ち上げた。
そこにいたのは、10歳くらいの少女だった。黒い膝丈のドレスをまとい、背中にはコウモリのような羽と、悪魔のような細長い尻尾を生やしている。
少女は、高く2つ結びにした銀髪を揺らして、愛らしい顔で笑った。
残酷に、悪辣に。
「アハハハハ! ――ご機嫌よう、クソオスども」




