第33話『手を握って、ダイナミック掘削』
恐怖で足がすくんでいて、あるいは魔法を失ったことに絶望していて、私たちはその場から動けなかった。
鯨の尾びれが振り下ろされる。
――圧死する。確信したそのとき、ガラスの向こうで青い光が強く瞬いた。次の瞬間、尾びれと図書館の間に分厚い氷の壁が生成される。
「……!」
ハッとした。アサジローさんの魔法だ。直感的に理解すると同時、私たちのすぐそばからノック音が聞こえてきた。
音の方を振り向くと、そこには向こうから壁を叩くアサジローさんの姿が。膝をつき、呆然と床を見ていたアクシオくんの身体がぴく、と震えた。
脳内にアサジローさんの声が響く。
《アクシオくんとコフレさんは、2人は無事でしたか?》
「あっ、アサジ……」
じゃなかった。私は彼に届くように念じる。
《アサジローさん! その、無事だったんですけど、さっき急にアクシオくんの魔法が使えなくなって、コフレくんが動かなくなってしまって……》
すると思念が届いたのか、ガラス越しにアサジローさんが驚いた表情を見せる。
《……わかりました。では、ネロ・ヴィブリオの地下室に逃げてください》
《地下室……》
《相手は魔獣ゆえ、避難場所としては心もとないですが……相手の様子を見ていると、あと5分もしないうちに大技が来そうなんです。しのごの言ってはいられない。ご自身の安全を優先した上、可能ならコフレさんを連れて逃げてください!》
《わっ……わかりました!》
私が頷くと、アサジローさんは壁から離れてどこかに消える。遠くでまばゆい光が炸裂するのを横目に、私はコフレくんを見下ろした。
この数とサイズの部品を1度に持っていくことは出来ない。だから、ちょっと抵抗あるけど……。
私は履いていたブーツを脱いで、かき集めた部品を中に入れた。これなら持ち運びやすいし失くしにくいだろう。そしてアクシオくんのもとに駆け寄り、
「すっ……すみませんアクシオくん。これを持っていてもらえますか? コフレくんを抱えていこうと思ってるので、ちょっと手が足りなくて……」
「――」
「お願いします」
「……わかった」
生気のない顔で答え、部品の入ったブーツを受け取るアクシオくん。取り憑かれたようにふらふらと立ち上がる彼を背に、私はコフレくんを抱き上げた。
金属製だからか、華奢な見た目に反してすごく重い。これじゃ運ぶのは無理だ。私はおんぶにシフトチェンジして、えっちらおっちら地下室に降りた。
*
私たちが逃げ込んだのは、地下室入ってすぐのキッチンだった。打ちっ放しコンクリートの空間に、白と黒のモダンな家具を置いたその部屋は、鯨の咆哮の影響だろう。吊り下げ照明が1つ落ちていたり、食器棚の中でお皿が崩れたりしていた。
そんな少し薄暗い部屋で、私はコフレくんを黒革のソファに寝かせる。ひとまずこれで、ガラスに押し潰される心配はなくなった。けど……。
私は、鯨の脅威が過ぎ去ったんじゃないかと思えるくらい静かな部屋で、言葉に迷いながらアクシオくんに話しかけた。
「その、アクシオくん……どうして魔法が使えなくなったのかって、わかりますか……?」
「――」
向かいのソファに座ったまま、黙り込むアクシオくん。喋るほどの気力がないのだろうか。
でも、アクシオくんが結界を張れなくなったことで、ネロ・ヴィブリオは――いなくなったアクシオくんのご両親が建てた家は、いつ壊されてもおかしくない状況に置かれている。気が気でないのは想像に難くなかった。
それに、もしかしたら喋りにくいことなのかもしれない。どちらにせよ無理に聞き出したいわけではなかったから、私は『喋りにくかったら別に……』と質問を引っ込めようとした。すると、アクシオくんが口を開いた。
「……1つ。訂正しなきゃならないことがある。……僕は、魔法使いじゃない」
「――へ?」
えっ、え、どういうこと? なんで急に?
もしかして、それが魔法が使えなくなった理由に関係してるの……?
「ど、どういうことですか?」
困惑しながら尋ねると、アクシオくんはぽつぽつと語り始めた。
「僕は、たまたま魔法が使える人間なんだ。だから魔法使いほど長寿じゃないし、自分の魔力も持ってなくて……今までは『海の書』を魔力源にしていたんだ。難しい話じゃないはずだよ。やってることは、君と相違ないと思うから」
「……」
確かに、私も魔力を持っていない。だから魔法を使うために『星の杖』を持ち歩いてる。うん、やってることは私と変わらない……ん、だろうけど。てっきり魔法使いなんだと思っていたから、急に言われて頭の処理が――。
あぁ、でもそうか。そう考えると、いろいろ納得がいく。
アクシオくんが眷属になりたがらなかったのも。呪文を考えてくれたとき、自分以外の魔法使いを『普通の魔法使い』と称したのも。ネロ・ヴィブリオを守りたいから、他の魔法使いより魔法が得意だからって理由もあったと思うんだけど……。
それ以前に、自分が魔法使いじゃなかったからなのかな。
それで、『海の書』を魔力源にしていたアクシオくんが、魔法を使えなくなったってことは……『海の書』のほうに異変があったってこと?
私の気づきを肯定するように、アクシオくんは続けた。
「さっき魔獣の攻撃を食らったことで、あちこちのものが落ちたり崩れたりしたでしょ。……多分、隠し部屋の『海の書』も例外じゃなかったんだ。ボロボロになっていたから、振動で原型がとどめられなくなって……壊れたんだと思う」
「……だから、魔法が使えなくなった?」
「おそらくね。まぁ、実物の確認はしようがないから、一生推測のままだけど」
「……そうですね」
実際に壊れているのか確認して、もしも本当に『海の書』がバラバラに壊れていたとしたら、否が応でも中身が目に入ってしまう。そうすればかつてのアクシオくんのように脳を焼かれて……今度は、奇跡的に生還できないかもしれない。
その可能性がある以上、隠し部屋を開けることはもう2度と出来ないのだろう。
「ちなみに、アサジローさんやコフレくんはその、知ってるんですか? アクシオくんが魔法使いじゃないって」
「うん。その2人とシエルシータは知ってる。でも、表向きは魔法使いで通してる。説明が面倒だから」
会話をして少し落ち着いたのか、普段の声音に戻ってきたアクシオくん。彼は思い出したように声を上げると、『暴露ついてにもう1つ』と話題を継いだ。
「……この前から、いろんな魔獣がここを狙ってる理由だけど……それも多分、『海の書』のせいなんだ」
「え?」
な、なんかさらっと暴露されたんだけど。ずっと知りたかったこと。
「そ、それはどういう……?」
「……魔力を持つ者は、強い魔力に魅了されるんだ。それは、魔法使いでも魔獣でも同じこと。そして自己の認識が曖昧なやつからあてられていく。だから多分、鮫も鯨も『海の書』に狂わされて、その魅惑の源に辿り着こうとしてるんだ」
「……」
言われて思い出したのは、初めて襲ってきたときの鮫の魔獣の様子だった。
我先にと言わんばかりに結界に突撃していた彼ら。あの様子には不気味なものを感じたけれど……まさか『海の書』に狂わされて、それを目指していたなんて。
「じゃあ鯨の魔獣は、アサジローさんを倒しても、ネロ・ヴィブリオを破壊しても止まらない……ってことですか?」
「そうだね。きっと地下室の天井を壊して、隠し部屋に辿り着くまで攻撃をやめないだろう。だから、この戦いを終わらせるには鯨の魔獣を倒すしかない。でも」
「魔法は効かない。アクシオくんは魔法を使えない。コフレくんは動けない……」
「そして君はビームと修復しか出来ない」
「絶望的ですね……」
でも、このままじゃアサジローさんがやられてしまう。私は歯を噛み、思考を巡らせた。何か、何か出来ることはないだろうか。いや、私に出来ることじゃなくてもいい。何か、この辺に使えそうなものは……!
藁にも縋りたい一心で、ここにある全てを睨み回す。
と、ふとそれに気がついた。アクシオくんが一方の手でもう一方の手を握りしめ、鬱血寸前まで力を込めていたのだ。
「あ……アクシオくん」
やめたほうが、と言いかけて口籠る。
……そうだよね。大事な人を戦場に放って、大切な場所を壊されるかもしれない恐怖に怯えながら、ただじっと座っているだけなんて。辛くて仕方がないはずだ。泣きたくて逃げたくてたまらないはずだ。
それでも、ああすることで気が紛れるなら……いやでも、このままだと本当に鬱血しちゃうし……!
止めようか止めまいか悩み続け、私は手を伸ばして引っ込めてを繰り返す。すると、アクシオくんがこちらに気がついた。
「……何踊ってるの」
「お、踊ってるわけではないんですけど」
「じゃあ、その手は何」
「えっと、その……」
私は迷いながら、アクシオくんの手に手をかける。瞬間、彼はびくっと震えて手の力を弱めた。私はすかさず彼の両手を引き離す。
「ご、ごめんなさい、指が変色してるのを見たら、止めなきゃって……」
「……」
少し驚いたような顔で、赤みが戻る指を見つめるアクシオくん。もしかして気づいてなかったのかな。それともやっぱり、突然触られるのは嫌だっただろうか。
居た堪れない気持ちで様子を伺っていると、アクシオくんは何故か、私に向かってその手を差し出した。
「もう1回、触って」
「……エッ?」
「試したいことがある」
そう言われて、私は何が何だかわからないまま手を伸ばす。しっかりと触れた彼の手は冷たくて小さくて、すべすべとしていた。特段、変わったことは起きないけれど。
「な……何を試すんですか?」
「……僕が、君を経由して『星の杖』の魔力を使えるかどうか」
「――え」
「『星の杖』、出して」
「あっ、は、はい!」
私は慌てて『星の杖』を出し、空いた手で握りしめる。
片手に杖、片手にアクシオくんの手。修復魔法の訓練を思い出す状態だけど……まさか、この状態が今の状況を打破してくれるんだろうか。
緊張で脈が速くなる私をよそに、アクシオくんはほんのり軽くなった声で言った。
「時間がない。僕の考えはあとで説明する。今はまず、魔力を……転移魔法を使えるか試させてほしい」
「転移魔法……」
「うん。まずは試しに地上へ出る。それが成功したらもう1度魔法を使って、今度は鯨の魔獣の死角をとる。それで、鯨がアサジローに気をとられている間に攻撃したい。具体的にどう攻撃するかは……地上に出られたら考える」
アクシオくんはそう言って、私の手を握りしめる。私の熱が伝播したのだろう、いつのまにか彼の手は冷たくなくなっていた。
「それでいいかな」
「……はい。わかりました」
私は頷く。これが成功するかはわからない。けど、アクシオくんの声に少しだけ希望の色が宿ったのを聞いていると、なんだか私まで心が軽くなって、不思議と事態が好転するような予感がした。
アクシオくんは言った。
「じゃあ、あのときみたいに呪文を唱えて。――僕に力を貸して、プリマステラ」
*
同時刻。アサジローは呪文を唱えた。
「《ネロフォケト・イラノトゥユ・タフィリガサ》!」
すると海底の岩の表面が剥がれ、アサジローの前に集合して1つの形を成す。やがて木の幹ほどのサイズの槍を形成すると、それを鯨に向けて発射した。
水の抵抗も構わず、海を突き進む槍。それは鯨が吠えるよりも早く、その額を貫いて血を浴びる。脳を狙った攻撃――しかし、致命傷には至らなかったようだ。
小粒の石でもぶつけられたかのように、僅かに身を捩っただけの鯨を見て、アサジローは岩の盾を展開しようと新しい巻物を手に取った。が、次の瞬間。槍を消し飛ばすために開かれた口から音波が広がり、周囲に異変が起こった。
「ぐっ……!?」
最初にアサジローが感じたのは、身体の重さだった。続いて鉛の棒のように思える巻物の重さ。鯨が先刻から溜めていた魔法――重力魔法を使われたのだと理解すると同時、浮いていられなくなった肉体が海底に叩きつけられた。
「ッ……」
仰向けになったアサジローは、戦線に復帰しようと試みる。しかし起き上がれない。指先すらびくともしない。全身が、この上なく重かった。
あの鮫の魔獣たちも、こうして抵抗する力を奪われて殺されたのか。先程見た肉塊を思い出し、アサジローは顔をしかめた。
現状、対抗できる手段は――ない。巻物は辛うじて握れているが、手がそれ以上動かない。具現化魔法以外の魔法も、詠唱するための口が重くて発動できない。
この状況で使えるのは、手も口も必要のない意思疎通魔法のみだった。
まぁ――最悪、それさえ使えればいいか。接近する鯨を傍観し、自分の死が近いことを悟りながら、アサジローは残りの時間で2人に何を遺すべきか思案した。
まずは地下室で息を潜め、折を見て海の国に逃げること。風の国の政府に連絡を入れてもらい、シエルシータとサイカに海の国に来てもらうこと。それから……。
そうだ。
アクシオの気持ちが落ち着くまで、彼のことをシエルシータに頼まなければ。あの無垢な少年は、自分のような老いぼれの死にも心を痛めてくれるのだろうから。
そう、霞む頭で考えていたそのとき。こちらに迫る鯨の頭上で、青白い光が炸裂。直後、太い光線が鯨の魔獣を包み込むのを彼は目にした。
「――ッ!」
シエルシータ? いや違う、シエルシータがここにいるはずがない。だとすれば、あれは――ステラの魔法だ。一体、いつのまに戻ってきていたのだろう。
いや、それよりも彼女の身が危ない。光線魔法は世界でも使い手の限られた高等な魔法だが、あの鯨の魔獣の前では全ての魔法が無に等しい。どれだけの火力で撃ったとしても、魔獣には焦げ跡の1つすらつかないだろう。
《……っ、ステラさん! 今すぐに退避を! その魔獣に魔法は……》
姿の見えないステラに届くように、アサジローは頭の中で精一杯声を張る。しかし、
《ううん》
返ってきたのは、ステラの声ではなくアクシオの声だった。2人とも外にいるのか、と焦りが増すのを感じると同時に、アクシオの答えに疑問を持つ。
ううん、とは。
《……プリマステラが攻撃してるのは、鯨じゃない。その真下にあるプレートだ。海の国と、『第2層』を隔ててる石のプレート……それを今から壊す》
《――!?》
言葉を失うアサジロー。直後、光線を浴び続けていた地面が耐えきれなくなったように砕け、土煙を上げて四方八方に吹き飛んだ。
もしや、ビームでプレートを掘削しきったのか。もしそうなら、重力に潰された今のアサジローには見えないが、今頃彼らの足元には深淵が広がっているはず。全ての有機物を溶かす――旧海の国の、知恵の宝庫が。
まさか。ある考えに至ったとき、ようやくステラの声が聞こえた。
《アサジローさん、聞こえますか!? ずっと戦わせててすみません……! 今――助けます!》




