第32話『ホエール・テール・アターック!』
アサジローさんの服と靴をお腹の下に入れ、人魚になった彼の背中に抱きついて、私は夕方の冷たい海を移動した。
そして索敵用に放したシャチたちが入りにくい、岩場をメインに鮫の魔獣を探していたんだけど……索敵開始から体感20分、鮫の姿も痕跡もまったく見当たらなかった。まぁ、ただ鮫がいないだけならいいんだけど。
「……探されてることに気づいてて、どこかで息を潜めてるんでしょうか」
私がぽつりと呟くと、アサジローさんは『いえ』と言って失速した。やがて完全に泳ぎが止まると、海底と平行だった彼の身体が起き上がり、背中から落とされそうになる。私はわっと声を上げ、足まで使ってアサジローさんにしがみついた。
「……アサジローさん?」
「放したシャチの一頭が帰ってきました。何かを見つけたみたいです」
そう言われて辺りを見回すと、遠くから黒く巨大な影が迫ってきていることに気がついた。その迫力に思わず萎縮するけど、その正体が先程見たシャチだと気づいて安堵する。シャチは私たちを中心にぐるりと一周すると、アサジローさんと向かい合った。
沈黙。少しして、アサジローさんが口を開く。
「――向こうで、鮫の死体を見つけたそうです」
「えっ? こ、言葉がわかるんですか?」
「はい、彼は私の生成物なので。行ってみましょう」
そこそこ気になるセリフを残し、再び海底と平行になるアサジローさん。彼は先導するように身を翻したシャチに続き、海の中をすいーっと泳ぎ抜けた。
そうしてしばらくの間泳いでいると、次第に視界から岩がなくなり、私たちは白砂が広がるだけのただっ広い空間に出た。
その中央には、明らかな異物があった。
「ひっ……!?」
透き通った赤い肉身を、銀の肌で閉じ込めた塊。魚の一部と思しき肉塊が、砂の上にゴロゴロと転がっていたのである。
魚とはいえちょっとグロテスクな光景に、私は思わずアサジローさんのお腹を絞める。アサジローさんが『う』とうめき声を上げた。
「あっ、すみません。……これって、一体」
シャチ(アサジローさん通訳)曰く、鮫の魔獣だったものなんだろうけど……なんでこんな姿に? 捕食された……いや、それにしては断面が綺麗だ。食いちぎられたとかじゃない、もっと、包丁を通したみたいなまっすぐな切り口をしている。
それに、肉の状態がなんというか……新鮮な気がする。この状態になって3時間も経っていないんじゃなかろうか。
だとしたら、これを作った犯人はまだ近くにいる可能性がある……?
ぞっ、と背筋が冷える。怖くなって辺りをくまなく見回していると、アサジローさんがゆっくり降下した。足が地面につくと『1度降りていただけますか』と言われたので、私は彼の服と靴を持って海底に降り立った。
私から解放されたアサジローさんは、肉塊に近づいてそれをまじまじと観察した。触ったり持ち上げようとしたり、原因不明の死体にもアグレッシブだった。
「どうですか?」
頃合いを見計らって声をかけると、アサジローさんは肉塊から手を離した。
「この鮫は重力使いの魔獣、もしくは魔法使いに殺されたようです」
「え」
「この肉塊、その場からぴくりとも動かないんです。まるでそこに押しつけられているみたいに。……おそらく、重力魔法で抵抗する力を奪われ、斬り飛ばされて頭をなくした、というのがおおまかな彼らの死因でしょう」
「えっ、それってかなり……やばくないですか!?」
「はい。犯人の矛先が人間に向く前に、必ず見つけなくてはなりません。ですがネロ・ヴィブリオ側に行ったのか、海の国側に行ったのかがわからない。今、確認のテレパシーをアクシオくんに送っているのですが、それも出てもらえなくて……」
「――!」
もしかして、既に図書館が襲われていて応える余裕がないんじゃ。それか、それ以前にアクシオくんたちは、もう……。
私の顔が強張る。アサジローさんも同じ光景を脳裏に浮かべたようで、痛々しげに目を細め、よぎった不安を払い落とすように首を横に振った。
「ステラさん、シャチに乗ってください。ネロ・ヴィブリオに帰還します……!」
緊迫した声音で叫び、私の手を引き上げるアサジローさん。ふわりと浮かんだ身体はシャチに乗せられる。アサジローさんは息をつく間もなく喋った。
「私は後方を監視しながら後を追います。その最中、もしくはネロ・ヴィブリオに到着してから魔獣、あるいは魔法使いが現れた場合は、私が時間を稼ぎます。その間にステラさんは、アクシオくんとコフレくんの救出をお願いします!」
「わっ……わかりました!」
――本当はまったくわかってないんだけど、1人で2人の救出なんて出来る気がしないんだけど、焦っているアサジローさんを前に聞き返すことも出来ず、私はわかったふりをして、シャチの後ろに回る青年を見送った。
アサジローさんの姿が消えた直後、シャチがぐんとスピードを出した。シンカイダイジャザメともアサジローさんとも比べ物にならないそのスピードは、私の顔面に容赦なく海水をぶつけ、目も開けていられないほどの圧をかけた。
でも、今は目を閉じている場合じゃない。私は頑張って目を開けて、周囲の様子を観察した。
道中は何もなくて、私たちはあっというまにネロ・ヴィブリオに到着した。私は失速するシャチの上からネロ・ヴィブリオを急いで凝視する。
ガラスで出来た筒状の図書館の周りには、一見何もいないように見えた。が、しかし。
「……っ!?」
よく見ると、ネロ・ヴィブリオを包む泡の結界が大きく波打っていた。まるで、見えない巨人の指に爪弾きにされているかのように。
「えっ、な……」
「《ネロフォケト・イラノトゥユ・タフィリガサ》!」
混乱する私の横、後からやってきたアサジローさんが、同じ光景を見るなり呪文を唱える。すると、一見何もいないように見えた視界に変化が起こった。泡の結界の横に、墨を飲んだように真っ黒な――鯨が現れたのである。
「――!?」
突然現れた鯨に言葉を失う私。が、肌の墨色が鯨から溶け落ちていることに気がつく。そうしてだんだんと透明になっていく鯨に、あれは一体――と私が尋ねるよりも早く、アサジローさんは矢のように海を泳ぎ抜け、鯨に筆をかざした。
呪文を唱えた次の瞬間、筆の先端から青い光が炸裂し、2メートルくらいありそうな巨大な風の刃が、鯨に向かって飛んでいく。――命中。
しかし鯨は微動だにせず、血や体液を噴き出すこともしなかった。墨が抜け切った鯨は、再びその姿をくらました。
「ぉ……」
その光景を呆然と見ていた私は、『あ』とアサジローさんの指示を思い出し、乗っていたシャチから降りようとする。と、その意思を汲み取ってくれたのか、シャチがギリギリまで海底に近づいてくれたので、私はシャチの体表を滑り降りた。
「ありがとう!」
それだけ言って後ろは振り返らず、私は真っ直ぐに図書館の出入り口を目指す。
アサジローさんは鯨の魔獣と交戦している。アクシオくんたちの状況を見に行けるのは私だけだ。早く、早く行かないと……!
*
石板を踏んで泡の結界の中に入ると、猛烈な乾燥に襲われてむせた。
そうだ、そうだった。変身薬を飲んだ後に海水のない場所に入るとこうなるんだった。今更思い出しながら、この場に回復魔法をかけてくれる人もいないので、止まらない咳を無視して館内に直行する。青い髪と、オレンジの髪を探して。
殴るようにドアを開けると、館内を泳いでいた光る魚たちがびっくりしたように散った。心が痛むけど、今はあまり気にしてはいられない。私は館内を見渡した。
2人は、ガラスの壁のそばにいた。
アクシオくんは、壁に向かって手をかざしていた。その手の内からは青い光が漏れ出ていて、何か魔法を使っていることが伺えた。
コフレくんはそんなアクシオくんの後ろで棒立ちしていて、背中には叱られた子供のような哀愁が漂っていた。直前までまた揉めていたのだろうか。
「アクシオくん、コフレくん! ……ゴホッ、ゴホッゴホッ」
私が2人の名前を呼ぶと、コフレくんだけがパッとこちらを見た。状況を説明したそうだったけど、メモに簡単にまとめられるほど単純な状況ではないのは察せられたし、だからだろう、彼はメモを探る素振りを見せなかった。
「怪我はありますか!?」
「……」
「避難できそうですか!?」
「……」
「えっと……アクシオくんは戦っているんですか!? ゴホッ、ゴホッゴホッ」
「……」
全部、首を横に振られた。
怪我はない、避難は出来ない、アクシオくんは戦ってない――ってことは、アクシオくんは図書館を守るために魔法を使っているんだろうか。それで、ここから離れると図書館が壊れてしまうから、避難できないのかも。
私としては、より安全な地上に逃げてほしいんだけど……この図書館を守りたいというアクシオくんの気持ちも想像できるから、何も言えなくなってしまう。
「……っ」
私は窓の外を見た。結界の向こう側では、再びアサジローさんに墨色をつけられた鯨が、その色をどんどん海に溶かしながら旋回していた。ぐるんと振り払われたヒレから、3連続の風の刃がアサジローさんに向かって飛んでくる。
対するアサジローさんは巻物を放って、鉄製の盾に変化させて風の刃を受け止めた。1発、2発とヒビが入り、最後の3発目で盾が粉々に砕け散る。
今度はアサジローさんのターンだ。彼は3つの巻物を放って、それぞれを3本の長槍に変え、合計9本を鯨に向けて飛ばした。吸い込まれるように海を突き抜ける長槍――しかし奇妙なことに、鯨の眼前で全てが掻き消える。
刹那、鯨が咆哮。波が揺らぎ、鯨の墨色が剥がれるように溶けていく。アサジローさんは強い波に押し流され、私たちの視界の端に消えていった。
中々すぐには決着がつかなさそう……というか、どこか違和感のある戦いだ。この前の鮫の魔獣との戦いに比べると、なんだかアサジローさん、上手く力を振るえていないように見えるんだけど……なんだろう。
不安な気持ちでアサジローさんの消えたほうを見ていると、アクシオくんがぽつりと呟いた。
「……あの鯨。魔法が全部効かないようになってる」
「え?」
「あの肌が魔法を弾いてるんだ。それに、魔法で作った生成物も効いてない。魔法を極めてるアサジローにとって、これ以上にない最悪の魔獣だ」
「……!」
私は驚いて、鯨の魔獣を見つめた。魔法を弾く鯨。そういえば、竜災の竜は物理攻撃が効かなかったけど……今度はその逆ってことなのか。
なら、あの鯨には物理攻撃が効く? でも、ここにはあの鯨を倒せそうな武器なんてない。あったとして、多分誰も扱うことが出来ない。
え、まずくないか。
嫌な予感に眉間のしわを深くしていると、突然鯨の魔獣がこちらを向いた。私とアクシオくんに緊張が走った次の瞬間、鯨が大きく口を開けて咆哮。海底が揺れ、結界がたわみ、図書館のあちこちから本が落ちる音がした。
「わっ……!」
私もアクシオくんも、転ばないようにその場で踏ん張る。そして、揺れが収まるのを待っていた。そのときだった。
咆哮を受け止め、限界までたわんでいた泡の結界が、ぱちんと弾けた。普通のシャボン玉と変わりなく、あっけなく。
「――!」
その光景を視認した直後に考えたことは、逃げなきゃ、ということだけだった。私はアサジローさんに言われたことを思い出し、アクシオくんのほうを振り向く。
「アクシオくん、転移陣を――」
お願いします、と言いかけたその瞬間。背後からがしゃーん、と何かが壊れる音がした。重めの、金属製の何かが。
私は反射的に振り向いて――絶句する。
そこに倒れていたのは、事切れたように動かないコフレくんだった。その後頭部を砕き、中から形も大きさもバラバラの部品を散らかした。
「……え?」
状況を受け入れられなくて、かすれた息が喉を震わせる。
説明を求めて再びアクシオくんを見ると、もともと日に焼けていない彼は、今までのどんなときより青白い顔で、膝をついて、震えた声で呟いた。
「魔法が、使えなくなった」
「……は、え」
えっ……どういうこと? なんで、なんでこのタイミングで?
結界の消失とコフレくんの故障で頭が回らない中、予想外の報告に見当違いの怒りがよぎる。……いや、違う。怒ってる場合じゃない。話は後で聞こう。まずは散らばったコフレくんの部品を集めて転移陣で外に――。
あれ。
転移陣、作れなくない……?
だって、この中で転移陣を作れるのはアクシオくんだけで。そのアクシオくんが魔法を使えないって言うなら、私たちに残された逃走手段は……。
海を、泳いでいくしか、ない。
でも。
足元に広がる、名前もわからない無数の部品。アクシオくんの青い羽織の裾。
コフレくんはもちろん、アクシオくんも恐らく自力では逃げられない。逃げる、気力がない。動けるのは私だけだ。けど、2人を引っ張っていくには時間がない。
じゃあ、どうすれば?
慌てて考えようにも、焦りで思考がまとまらない。恐怖で足が震えて、その場に立つのもままならない。
何も出来ないままの私たちに、鯨は慈悲を与えなかった。ガラスの向こうで影が動き、鯨の尾びれが図書館に振り下ろされた。




