第26話『硝子の図書館、水圧とか知らない』
送魂式も終わり、目的を果たした私たちは、オミュクリウスさんのお家を片付けるというセシルさんと別れ、海の国を歩いていた。
私は、周りの人魚たちの目を気にしながら、気になっていたことをアサジローさんに尋ねた。
「あの、アサジローさん……送魂式でのことなんですけど。どうして、棺を入れたあとに穴から泡が出てきたんですか?」
「……そうですね。どこから説明しましょうか。……あぁ、まず、あの泡は師匠が姿を変えたものではない、ということをお伝えしておきますね」
「えっ?」
「あれは棺の中に溜まっていた空気です。穴の中で棺が壊れて、出てきた空気が泡になったんです」
ええ。てっきり私、オミュクリウスさんが泡になってしまったんだと思ってぞっとしてたのに。けど、それなら遺体と棺はどこに? やっぱりあれは死体遺棄だったの?
そんな私の疑問を読み取ったように、アサジローさんは続けた。
「師匠と棺は、穴の中で溶けました。実はあの大洞窟の中には、海水よりも重たく、有機物を一瞬で溶かす性質を持った汚染水が溜まっていまして」
「――」
ちょっと待って。理解が追いつかない。え? 海水よりも重たくて――有機物を一瞬で溶かす汚染水? 何その劇物。私たち、そんな劇物に遺体を放り込んでたの? それって倫理的に……どうなんだろう。海の国ではそれが普通なんだろうか。
あまりにも価値観が違いすぎて、何の言葉も返せない。そんな私を見やって、アサジローさんは眉を下げた。
「海の国では、これが普通なんです。海の中ですから、火の国のように火葬による送魂は出来ない。土の国のように大森林の養分にすることも出来ない。かといって、放置して白骨化するのを待つのも美しくない。……あれしか方法がないんです」
「……そっか、確かに……」
ここは海底。地上で出来る送魂のほとんどが、ここでは出来ないんだ。それは考えていなかった。そう思うと、見送られる直前まで綺麗な姿でいられて、最終的に海と一緒になるっていうのは、1番海の国らしくて優しい見送り方……なのかも。
「ちなみに、汚染水の正体って判明してるんですか? その、何に汚染されてるのかとか」
「いえ。触れるのはもちろん、近づくのも困難な物体なので、研究はあまり進んでいなくて……正体はわかっていません。ただ、私たちの足下にある『第2層』と呼ばれる、古代都市の遺物が関わっているらしい、とは聞いたことがあります」
そう言って、アサジローさんは立ち止まった。見ると、いくつかのお店を内包した3階建ての建物が、私たちの側に建っていた。ちらり、とショーウィンドウを覗いてみると、1階はお菓子屋さんであることがうかがえた。
「詳しいことはまた後ほど。ひとまず、ここで買い物をさせてください。今晩泊めていただく場所の主人に、プレゼントしたいものがあるので」
*
その後、お菓子屋さんでガレットと紅茶を買ったアサジローさんは、お店から出るなり小さな包みを渡してくれた。
「よろしければ、これをどうぞ。海の国のチョコレートです」
「えっ?」
「長時間の移動でお疲れでしょうから、糖分を補給していただければと思いまして。お口に合わなかったら申し訳ありません」
「え! いいんですか、もらってしまって」
「はい」
アサジローさんに微笑まれ、私は『ありがとうございます』と恭しく包みを受け取る。
中身はなんだろう。ミルク、ホワイト、ブラック……気になるけど、アサジローさんの手前覗くのはやめておこう。私は包みを小脇に抱えた。これから今日の宿泊場所に向かうらしいし、部屋についてから確認しよう。
私は上機嫌にアサジローさんの隣を歩いた。
そして私たちは、最寄りの停留所からシンカイダイジャザメ――馬のように鞍がついており、3人まで騎乗できる長いサメ――に乗せてもらって目的地に向かった。
目的地は海の国の辺境にあると聞いていたけれど、シンカイダイジャザメは本当に速くて、あっという間に建物のシルエットが見えてきた。
「って、あそこに泊まるんですか……!?」
青い海を肩で割き、グングン進む私たちに近づいてくる建物の全貌に、私はぎょっとする。
その建物は、一言に異質だった。
まず、とにかく大きい。この国に来てから見た中では最大だろう。高さは50メートルくらいあるんじゃないだろうか。広さはここからではわからないけれど、円柱の形をした建築物がいくつも繋がって1つの建物になっていて、あの中で迷子になったら生きては帰れなさそうだ、と戦慄した。
そんな迷宮の大部分を構成するのはガラスだ。石造りの1階以外は全てガラスで出来ていて、室内の照明を容赦なく反射させていた。おかげで建物はきらきらと輝いていて、凄まじい存在感を放っている。……さて、あのガラスはどうやって水圧に耐えているのだろう。
畳み掛けて、最大の異質であるのが、建物をスノードームのように包み込む泡の存在であった。水の中で何故か完成しているそれは、魔法使いの存在を暗示していた。
もしかして、アサジローさんの言っていた『主人』がそうなんじゃないだろうか。ある可能性が脳裏をよぎる私をよそに、騎手のお兄さんはサメを建物の正面で止めた。急に止まったものだから、大きく振りかぶった私はアサジローさんの背中に額をぶつけた。
「うし、到着だ! ご利用ありがとさん。気をつけて降りてくれよ」
「あっ、ありがとうございます」
私は跨っていたサメからふわりと降りる。続いて降りたアサジローさんは、お兄さんに乗鮫代のコインを渡した。お兄さんはそれを鼻歌混じりに受け取って、手を振りながら都市のほうに鮫をかっ飛ばしていった。
あ〜、クラクラする……。
「サメ、速かったですね……それで、ここは……?」
「図書館です。名前を『ネロ・ヴィブリオ』と言って、世界最大の図書館と言われているんです。私の知人が運営していて、今日はその知人を頼りに来ました」
「へ〜……!」
世界最大の図書館。うん、納得できる大きさだ。
まさか、図書館に泊まるとは思ってなかったけど……まぁ、これだけ大きな施設だ。泊まれる場所があってもおかしくないか。
なんて思っていると、アサジローさんが『こちらへ』と行き先を示してくれた。着いていくと、木造りの巨大な扉が私たちを迎えてくれる。ただ、私たちと扉の間にドーム状の泡が張っていて、簡単には入れそうになかった。
「どうやって入るんですか?」
「この石板の上に立ってください」
「石板……」
はっと足元を見ると、海底の砂の中に、彫刻がされた長方形の石板があった。言われるがままにそれを踏むと、次の瞬間全身を包んでいた水の感覚がなくなった。
代わりに生じたのはパリッと乾いた服の感覚だった。空間転移と同時に何かを施されたらしい、とわかる。魔法使いの存在が、ほぼ確実なものになった。
――と、その瞬間、
「ッ!? ゲホッ、げほっげほっ」
急に喉が乾いて、私は激しくむせた。それはもう、空気が吸えなくて視界が霞むくらい長いことむせて、
「《ネロフォケト・イラノトゥ……ゲホッゲホッゲホッ!!」
私を助けに泡の内側に来たアサジローさんも、同じ状況に陥ったようで、堰を切ったようにむせ始めた。それからしばらく2人でむせて、
「《ネロフォケト・イラノトゥユ・タフィリガサ》……!!」
ガッスガスの声でアサジローさんが呪文を唱えると、ようやく私の咳が止まった。息を整え、ほっとする私。けれど、アサジローさんの咳は止まる様子がなかった。
「え、なんで……」
「私は……ゲホッゲホッ、薬の効果を打ち消、ゲホッ、打ち消す魔法をかけていませんから。ゲホッゲホッ……打ち消しても、完全な人魚に戻るだけで悪化しかゲホッゲホッ!」
「えっ、まさか……」
アサジローさんが何かと咳き込んでたのって……効き目の弱い変身薬を飲んで、湿潤命の人魚の特質を持ちながら人間として地上で生活してたからなの!?
え、じゃあアサジローさんは普段、私がさっき止められなかったあの咳を我慢してたってこと……!? そんなの身体に悪すぎるよ、大きい水槽とか買って、宿舎の中だけでも咳をしなくていいようにしません!?
なんて考えていると、アサジローさんの咳が落ち着いてきた。いや、本当は落ち着いてないんだろうけど。我慢を始めただけなんだろうけど……。
「それじゃあ、中に入りましょう」
「……はい」
私はなんとも言えない気持ちで頷いて、アサジローさんの背中に続いた。
木造りの扉を開けると、中は吹き抜けになっていた。円柱の形をしていて、フロアは全部で8階。長い石の階段が螺旋を作っていて、各階の壁には這わせるように無数の本棚が並べられていた。
そんな空間に光を通すのは、一面ガラスの天井と、辺りを泳ぐ『魚』たちだった。青い光で出来た魚たちは、まるで海を泳ぐみたいに空気中を移動していた。私が思わず手を伸ばすと、魚は慌てて身体をくねらせて、遠くのほうへ逃げてしまった。
「すごいですね……」
うっとりと見惚れる私。こんなすごい図書館を運営している人は誰なんだろう。気になるけれど、1階のカウンターやテーブル席はがらんとしていて、ぱっと見この図書館に人はいなかった。
「誰もいませんね……って、あ、これ……」
カウンターに近づいた私は、置いてあった1冊の本に気づいた。その本はどうやら短編集らしく、作者名のところには『アサジロー・ミシマ』と記されていた。
アサジローさんの本だ。ここにあるということは、最近ここに来た人が返していったんだろうか。それとも、カウンターに座っていた司書さんの愛読書なんだろうか。どちらにせよ、作者本人じゃないのにドキドキする。
ちょっと読んでみようかな、なんて思って短編集に触ろうとすると、背後からアサジローさんの声が聞こえた。
「もしかすると、外にいるのかもしれません。ゴホッ、ゴホッ」
「外?」
「えぇ。図書館のこちら側に、ちょっとした庭があるのですが……」
アサジローさんは説明をしながら図書館を抜け、来た場所とは別の扉を開けてくれる。するとそこには、柵に囲われた緑の庭が広がっていた。小さな庭だけど、花壇が並んでいて、見たことのない花が綺麗に咲いていた。
きちんと手入れされてるみたいだ。ってことは、人の出入りは頻繁にあるんだな。そう思いながら顔を上げたそのとき、
「えっ!?」
図書館から離れた場所。泡の結界よりも向こうに、溺れる人の姿を見つけてしまった。
性別はわからない。けど、影の形からしておそらく子供で、人魚ではなさそうだ。手足はだらんとしていて、されるがままに沈んでいる。気を失っているのかも。
急いで助けなきゃ。私は咄嗟に柵を飛び越えようとした。飛び越えようとして、足をかけたところでアサジローさんに引き留められた。
「ご心配には及びません。彼は、無事ですから」
「え?」
「紛らわしいからやめてほしいと、何度かお伝えしているのですがね」
苦笑するアサジローさん。彼が『あぁ、来ました』と言うので、もう1度子供のほうを見やると、子供は先程までの光景が嘘だったかのように、なめらかに両足をばたつかせてこちらに泳いできた。……え、すっごいスピード。
「……」
あっという間に泡のそばまで来たその子供は、ぱくぱくと口を動かした。次の瞬間、泡の外から子供の姿が消えて、私たちの目の前に現れる。髪も服もびしょ濡れのその子は、再度ぶつぶつと呟くと、その身体を一瞬で乾かした。
「……!」
この子、魔法使いだ。確信した私は、子供の姿をまじまじと見てしまった。
その子供は、13、4歳くらいの大人しそうな少年だった。
アサジローさん似の瑠璃色の髪を肩まで伸ばしているのと、鼠色の装束から華奢なウエストを覗かせているのが原因か、とても中性的な印象がある。さらに、髪色と同じ色の大きな羽織をまとっていて、幼いのに大魔法使いみたいな貫禄があった。
じとりと瞼を落とした冷ややかな眼差しと、金色の縁がついた丸い眼鏡が、彼に知的な雰囲気を与えている。きっと、彼がこの図書館――ネロ、なんだっけ……を運営しているのだろう、と察せられた。
長く続く沈黙。耐えかねた私は、少年に声をかけようと口を開く。と、そのときだった。
少年は突然アサジローさんに駆け寄って、その痩躯に抱きついた。子供の突進を受け止めたアサジローさんは『ウッ』とうめき声を上げた。
ぎょっとする私の横、アサジローさんの胸に顔を押しつけた少年は、ちらりとこちらを見た。そのファイアオパールみたいなオレンジの瞳には、怖いくらい光が宿っていなくて――あ、この子私のこと嫌いだ、と察した直後、少年の声が私の胸を貫いた。
「誰」
拒絶するような声色。ほんとに私が嫌いみたい。びっくりして声も出なくなっていると、アサジローさんが少年を優しく押しのけ、代わりに答えてくれた。
「彼女はステラさんです。ステラさん、この子はアクシオくんです。『ネロ・ヴィブリオ』の司書をなさっています」
「あっ……初めまして、ステラと申します」
アサジローさんの仲介で我に返り、少年に挨拶をする。けれど少年――アクシオくんの冷たい目つきは変わらなかった。初対面なのに、なんでこんなに嫌われてるんだろう。
若干傷ついていると、アクシオくんはアサジローさんの着物の袖を引いた。
「……この人も泊まっていくの」
「ええ、出来れば泊めていただけるとありがたいです。ただ、突然訪問してしまいましたから、アクシオくんの都合もあると思います。その場合は、私たちは街の宿に泊まりますから、遠慮なく仰って――」
「やだ、泊まって。……でも、2人は別の部屋だから」
そう言って、アサジローさんを図書館の中に引っ張っていくアクシオくん。アサジローさんを私に奪われまいとするようなその姿に、私は理解した。彼は、アサジローさんが大好きで――彼が知らない女と一緒にいるのが気に食わないんだ。
なんだ、ただの可愛い子供じゃん――なんて思っていると、図書館と庭を隔てていたガラス戸が、魔法がかかったみたいにひとりでに閉まった。ガチャ、と鍵がかかる音もして、私は慌てて開けようとするけれど、びくともしない。
は? え?
助けを求めようと、アサジローさんたちのほうを見る。すると、アサジローさんを牽引していたアクシオくんがこちらを一瞥して、また正面に向き直った。
――は!?




