この作品は最低です。
女の子の頭が爆発した。
ド派手な血飛沫をあげて、倒れるのを見て、嫌な笑いが漏れる。
不謹慎はポップコーンと共に飲み込んだ。
きっと彼女はリア充だから死んだ。
ホラー映画でわざとらしく彼氏といちゃつき、主人公を見下していたから死んだ。
彼女は観客に「ざまぁみろ」と思わせるために死んだ。もっと言えば普段から鬱屈している嫌な思いの生贄になったのだ。
制作者のこれが見たかったんだろ? と言うドヤ顔が、無くなった彼女の顔の代わりに浮かんでくる。
その通りだ。
誰しも一度や二度は、人に嫌な思いをさせられたことがある。観客は主人公の嫌な奴が死んだことに、自分の嫌な奴が死んだ時の状況を無意識に思い描いているのかもしれない。
あいつもこうなればいいのに、と考える。私は嫌な奴だから。
映画の中の彼女は悪いことをしたわけじゃない。ただ、制作者の都合で死んだのだ。
ドリンクを喉の奥に流し込む。微かな炭酸が喉に心地いい。
映画は次々と嫌なやつが吹き飛ばされ、主人公がヒロインとくっついて終わった。
流れていくたくさんの名前一つ一つに私は心の中で敬礼をした。
作品は誰のためにあるのか? 観客のためにある。ひいては見ている私の為にあるとさえ言える。
異論は認める。私小説とかたくさんあるから。でも、それすらも自分ごとだと思える程には人は感受性が豊かだ。
他人の感情さえ、自分のもののように扱う。ジャイアンみたいな理論だ。
私は好きだよジャイアン。あの不器用な生き方が私は可哀想で愛おしい。のび太が主人公だって気づいたら彼はどう思うだろう? きっと笑い声をあげるはずだ。そんなはずはないって。
無邪気な暴君は自分が主人公だと確信している。「違うよ。君は悪役なんだよ」と耳打ちしてあげたくなる。のび太じゃなくて、君が観客のサンドバックなんだよ。
登場人物のほとんどは主人公を育てるため、制作者の都合で動かされる。
私もきっと誰かの都合で動かされてきた。
ご都合主義だって、よく作品が批判されているのを見るけど、現実だって誰かの都合で回っているじゃないか。
塩味のきつい不発弾をバキバキと噛み砕いていく。静かな音楽のリズムを狂わせるように破壊音が頭蓋に響く。
私の脳みそに刻まれたシワに音は心地いい。
エンドロールが終わった。
白む画面が冷たさを私にもたらす。思考が輪郭を持ち始める。
さて、映画も見終わったことだし書き始めようか。
「この作品は最低です」
さっき見ていた映画のことじゃない。今目の前にあるこの作品のことだ。
どんな作品だろう? そう思って、読んだはずだ。
期待したはずだ。タイトルから想像できない内容に。
せっかく手に取ってもらったところ悪いのだが、私はこの先のページを糊付けして、見ることができないようにするつもりだ。現代アートと嘯いて、見知らぬ人のギャラリーに置いておこうかと思っていた。
なんだこれ! 読めないじゃないか! と一冊の本を片手に憤慨している大人たちを眺めたかったのだ。隣でケラケラ笑いながらね。
でも、それじゃあ勿体無いような気がして、あと殴られるのが怖くなって、今こうして続きを書いている。
これは小説ではないのかもしれない。ただの思考の書き出し。
作品を考えていく上での思考の書き出しだ。と何度も自分を守るための言い訳を重ねていく。なんとみっともないことか。
それでも私はみっともなさをぶら下げて作品を制作しようと思っている。
誰かをハッとさせたくてね。
ただそれだけのために書いている。物語は高尚でいつも何かを伝えるのに必要以上に頭を使わせる。私みたいなバカはそこから読み取るのにどれだけ時間がかかるだろうか?
簡単にシンプルにやりたいことを書くことしかできない。
物語を作れるのは才能だと改めて気づかせてくれる。いらないお節介だ。
作れない人間として生み出しながら、作りたいという願望を持たせる。
欠陥だ。私は壊れている。
焦燥感が胸の内を掻きむしるのは、この無駄な願望のせいだ。
これが胸の内いっぱいに溜まった時、私は息ができなくなり、もがくようにキーボードを叩く。窒息しながら書いた言葉は苦しさを代弁するかのように意味不明だった。
私は思うのだ。
作品なんて作るべきじゃないって。
誰かの都合で生きていた方がずっと楽だ。考えて生み出さなくていいからね。
物語の登場人物に自分を重ねるのは考えなくていいからだ。でも、私はそれでも登場人物の意味を考えてしまうよ。
面白いと思っていた作品すら、嫌な思考に侵されていく。
あぁ、なんでこんな呪いを抱えてしまったんだろうか。
この呪いはいつ生まれたんだろうか? 書きたいそう思った時を思い出す。
あれから何年経っただろうか?
私は、私は本当に作品を作りたいのだろうか?
何がしたかった?
自問自答を繰り返し、面白いと話題の作品を研究し、幾つもアイディアを生み出した。
面白くない。
それは誰の意見だったか?
自分の都合で生み出したそれを永遠に葬り去る。
残ったのは嫌な思いだけだった。
あぁ、まただ。また焦燥感が胸の内を掻きむしる。
苦しい、苦しい。
溜まった苦しみは胸を弾けて、私の頭を空っぽにした。
私の中の創作意欲は消し飛んだのだ。
諦める。
ようやくその言葉が胸に落ちてきた。
これは誰の話だったか? 私の話だ。
作品というのは私のためにあるのだ。
ならなんで、私の思い通りにならないんだ?
思い通りにならない、こんな最低な作品をこれからも書き続けなくてはいけないのか?
望みが叶わないのに、なぜ思考を止めてはいけないのだ。
神様、なぜですか?
なぜ、叶わない夢を私に抱かせたのですか?
なぜ、私は夢に縛られなくてはならないのですか?
夢はどうしてこんなに苦しいのですか?
神様、どうか教えてください。
私はなぜ作品を作れないのですか。
「この作品は最低です」
私は今日もこうして自身の作品を貶す。面白く感じないのだ。
私には私の創造物は面白く思えない。
流れぬ涙がこれほど憎らしいとは知らなかった。
私の言いたかったことがこれだとは、やはり「最低な作品である」。
と、いつも考えが浮かぶ。だが、これは考えても意味がないことだ。なぜって?
「最低」という言葉は最も程度が低いことである。でも、それは主観的な物差しだ。
あなたが思う最低は、他の人から見ても最低だろうか?
答えなどない。
やってみないとわからないのだから。面白くないと言われたら、面白くする工夫を考える。見られないなら見られるように工夫するまでだ。
「この作品は最低です」こんなタイトルの作品読みたいに決まっている。
中身は残念ながら、物語としてはあまり機能していないが。
私は思うのだ。誰かの都合で回っているこの世の中でご都合主義が起こらないのは、単に誰かの都合に沿っていないからだ。半端に誰かの都合に寄せてしまうから、苦しむのだ。
誰の都合に沿えばいいのか、自分の都合に沿えばいい。
書きたくないものを書くからわからなくなる。
それで生きていきたいならば、工夫するしかない。
失敗を幾度となく重ねて、生きていくしかないのだ。
それが創作することの醍醐味なのだから。楽しめばいい。
最低な作品になったのなら、見て笑えばいい。
私は最低な作品だろうと、世の中に見せつけよう。
それが私の物語だから。私が作家になるまでの物語なのだから。
これは”私”の物語