2.青い竜と黒髪の少年-上
かなり荒いのでいつか書き直しますw
110404微修正
真っ白な荒野、草木一本も生える気力もないに荒れた土の上、小さな木製の獣車の中に、数人の人が詰め込まれて運ばれていた。
人は年寄りもいれば、まだ幼い子供もいる。みな足枷や手錠をかけられ、ぼろぼろの服を着ていた。みな寝ているわけではないが無言で、目は意思を持っていなかった。ただひたすら、揺れる床に合わせて揺れていた。覆いの布を、風がはためかせるだけだった。
獣車が止まるごとに、集落を越えるごとに、中にいる人は減っていった。そのたびに、外では鞭が鳴る音か、名前を呼ぶ声がしていた。
その少年もまた、少年の存在そのものを支配され、奪取されていた。それは真の名と呼ばれる、その者自身を示す代名詞を、他人に知られてしまったからだ。
少年は何も考える事ができなかった。何も考えるな、と命令されていたからだ。
だから、その間の記憶は途切れ途切れだった。車が揺れるたびに砂の粒が床を流れていく光景と、たまに聞こえる外で何か売買している声と、それから犬のように何かを食べさせられた記憶しかない。あと、何かいやな事をされた、するように命令された気がするけれど、忘れろと言われたから忘れてしまった。あとはただ揺れるだけだった。
いつか、少年のほかに、その獣車のなかには誰もいなくなった。
それからまたどれだけの時間がたったのかは分からない。時間の長さは分からず、それがそこにあったという事だけしか分からなかった。あっという間だったのかもしれないし、もしかしたら数年もの間乗せられていたのかもしれない。
だが、獣車が揺れるのが止まった。外ではまた誰かが話している声が聞こえる。そしてしばらくすると、少年は革で作られた獣車のテントから出され、地面に下ろされた。
そこは、森の中だった。空は明るいというのに、遠くは暗くて何も見えない。闇が引き伸ばされて、押し付けてくるようで、息苦しく感じた。
目の前に、大柄の男がやってきた。銀に輝く鉄の魔法防御鎧。腰に下げた鞘に刻まれた斬幻剣の紋章。誰でも知っている象徴的な姿。騎士だ。だが目線を動かす事はできないから、顔を見ることはできなかった。
「おい、ケン。お前はここに何をしに来たか分かるか?なぜお前だけは、最後まで売られなかったか分かるか?」
「わかりません」
僕は答えた。心の底から答えなければならないという命令が、体中を駆け巡る。真の名を呼ぶものは、全て主人だ。
「そうだよな、奴隷。だがお前はもう、ありとあらゆる苦しみから逃れることができるんだぞ」
笑い声が深い森に響く。周りには、同じ姿をした男たちが集まっていた。
「いやぁ、こいつだったら竜のいい餌になりますよ。飛び掛ってきたところが、罠だとも気づかずにね」
「竜の瞳は高価で売れますし、周囲の町の被害もなくなって、一矢二獣ですね」
「まあ、お前が食われて、気が抜けているときに、俺らがお前の敵を取ってやるよ」
「はい、ありがとうございます」
僕はただ答えた。主人をありとあらゆる方法で喜ばせるように命令されていたからだ。だが、何も思ってはいなかった。思えなかった。
「さっそくやってもらおうか。森を少し進んで、這いつくばれ」
「はい」
足の枷は、意識がなかったときに外したのか、いつの間にか外されていた。僕は進み始めた。そして命令どおり、しばらくしたら、地面に這いつくばった。
そこで、僕の背中に激痛が走った。後ろから背中を斬りつけられた。だが叫びもうめき声も、真の名が許してくれない。血が背中から滴り、地面に垂れる。あまり深くは切られていないようだが、痛みでおかしくなりそう。
「殺しちまったら、喰いになんか来ないからな。血の匂いでおびき寄せるのさ。痛くなんかないだろ?」
「はい、痛くグッ・・・・ありません」
僕の背中を、服の上から容赦なく切りつけてゆく。その度に気が遠くなりそうになるが、そのたびに何かが意識を呼び戻させた。胃の中のものが出てくるのを必死に抑える。赤い血が滴る地面が滲んで見えた。
永遠に続くかと思えた。だがいつかこの仕打ちは止み、あとは背中を暴れまわる痛みだけが残った。辺りはいつの間にか誰もいなくなっていたようで、鎧の音もしなければ、声も聞こえない。
それから這いつくばったまま、さきほどとはまた違った地獄が、僕をいつまでも苦しめた。瞬間的な痛みではなく、永続的に、それも広い範囲で疼く鈍痛。辺りは暗くなっていたが、目は地面しか映していない。これだったらどこかで意識を奪われ、奴隷として身を砕いたほうがましだ。僕はひたすらその感覚に耐えた。
不意に、どこからか音が聞こえた。圧倒的に巨大な物体が地面を歩く音、もしくは這う音。
本能的に、冷や汗が体中から噴き出した。
緑色の竜は、そこに人間が血を流して這いつくばっているのを見つけた。
何をしているのか。まあいい。食い殺してしまえばそれまでだろう、とでも思っただろう。あまり警戒もせず、意識で感知する範囲から目で見える範囲まで歩いて近づいた。そしてそれを視認した。
竜はその少年に近づき、さっそく口をあけて、牙を突き刺そうとした。
刹那、地面から何かたくさんの物体が突然現れ、竜に剣を突きたてた。騎士たちは地面に穴を掘り、そこに隠れていたのだ。竜が雄叫びをあげ、刺さった剣を振り払おうと暴れまわった。二人ほど、剣を離し吹き飛ばされるが、残りはすぐに体制を立て直して剣を引き抜き、今度は急所である首の下に入り込もうとする。
竜はそれを阻止するために首を横に動かしたがそれはまずかった。横にいた騎士が今まさに、その方向から剣を首に突き刺そうとしてしたのだ。竜にとっては不覚にも、剣が首に突き刺さる。
その痛みと刺さった剣に意識が向いている間に、隊長と取れる姿をした騎士がすばやく首の下に潜り込み、剣を首に対して構えた。
だが、そこまでだった。次の瞬間、なんと空から紅蓮の爆炎が降り注いできたのだ。首を刺そうとした騎士は瞬時に炎に焼かれ、苦渋の叫びをあげるまでもなく黒くなり、鉄の剣が転がった。
他の騎士が驚愕の声を上げながら空を見上げると、そこには青い、もう一頭の竜がいた。体格は緑の竜よりも逞しく、大きく思えた。口には今放った炎の名残がのぞいている。
青の竜は、大きく広げられた羽と尻尾の反動で半回転して、他の騎士のいるほうに向き直った。
逃げる間も、怯える顔を示す時間さえも、駆けつけた竜は与えなかった。真っ赤な目は、怒りに染まっていた。
竜の口が開いた。炎の文字は一瞬で完成し、他の騎士たちは業火の中に放り込まれた。
辺りの木々に火が燃え移るころ、ちょうどよい具合に雨が降り始め、森の侵食を防ぎ始めた。
二頭の竜は地面に降り立ち、互いの角をぶつけ合った。そして、緑の竜は何もなかったかのように、焼けただれた騎士の一人を口に咥えてすぐに飛び立った。
僕は、動けるようになっていた。意志も元に戻り、見る物も自由に決める事ができる。僕の主人が、いや、あの奴隷使いの最悪騎士が竜にやられて死んだんだろう。しかし、自由になって襲ってきたのは喪失感だけだった。僕は生まれながらに不幸な運命なのだ。これでは何も考えられなかった頃のほうがよかった。
恐々と上を見て、僕の体は身を強ばらせた。そう、ちょうど真上で、緑色の幾千もの鱗が蠢いていて、もう少しで頭をぶつけてしまいそうだったからだ。そう、僕は今、竜の真下にいた。よく見ると、体中傷だらけで、赤の筋がいくつも鱗を這っていた。
竜の下から、別の青い竜がいるのが分かる。何かしているようだが、ここからは見えなかった。
何か硬いものがぶつかる音がした。何がぶつかったのかも分からなかった。しばらくどちらの竜も動かなかったが、しばらくすると真上の竜が少しだけ動いて、近くに転がっている焦げ臭くさい黒いものを咥えるのが見えた。確実に見つかる気がしたが、まるで気づいてる様子はなく、黒い物体に牙を食い込ませて、それから視界から見えなくなった。その一瞬の光景は、今まで僕がいた世界とはまったく違う世界だと、僕に教え込んだ。
予兆なく、突風が体を切り裂いた。全ての空気が僕の周りを縦横無尽に駆け巡って、枯葉や土を巻き上げる。目も開けられないくらいだったが、閉じたくはなかった。その努力の甲斐もあって、夜でも上の巨体が作り出していた陰が薄まっていくのが分かった。陣風も掻き消えてゆく。
そう、そして。あえて、ずっと地面を見るようにしていたけれど、いつの間にか僕の目はもう一頭の青い竜に向いていた。その竜は、僕が目を合わせるまで待っていたかのように、僕を凝視していたようだ。竜の赤い目が、闇の中でうっすらと光り浮かんでいる。驚いているのだろうか。たしかに竜の下にいて、気づかれないなど奇跡だ。僕も驚けるならば驚きたいと、他人事のような感覚で考えていた。
その青の流線は、だからと言ってしなやかに動きだすわけでもなかった。僕が見ている間も、彫刻か何かのように全く動かなかった。そう、不思議だった。凶悪で貪欲と言われる竜が、ただひたすらに何もしないなど。
だが僕は、自分の運命というものを知っている。僕は今までずっと、いるだけでも他の人を殺してしまう疫病神だった。だから、竜の一部となる僕の血肉こそ、僕の最後の運命なのかもしれない。
僕は何も考えず、ゆっくりと上半身の服を脱ぎ始めた。薄い麻のぼろぼろの服一枚だけだったが、背中の傷の血が服にくっついて、一つの裂け目を剥がしていくごとに、鞭に打たれたかのような激痛が体中を走りぬける。体中が小刻みに震え、目に映るものが霞み、何をやっているのかさえも分からなくなりそうになる。だが、それでも手を止めはしなかった。これから竜に喰われて、この体を裂かれる痛みに比べれば、きっと蚊も刺すような痛みだろう。
竜はずっと僕を見続けていた。前見たときと何も変わっていない。いや、目の色が少しだけ青になっている?そんな竜を僕は凝視した。荒い息を押し留めながら、半分切り裂かれた服を地面に置く。そして、竜のほうに体を向けて正座をした。
「さあ、僕を喰ってください」
僕は訴えた。
「僕が生きる意味などないのです。さぁ」
両腕を広げて、血だらけの体を見せ付けた。疲れ果てて、声はかすれてしまっているし、弱々しかったけれど、きっと竜から見た僕の体は多分、ローストにした豚のあぶり肉のように美味しそうに見えるんだろうな。
僕は目を閉じた。自分の荒い息、深く静かに鳴り響く鼓動、この身を取り巻くこべりついたような闇と痛み。この世で見るべきものは見終わったんだ。聞くべきものも、感じるべきものも、もうすぐ終わる。
「我人は、自らの死を自ら懇願するのか?」
低く、ゆっくりと深い声が、在るもの全てを轟かせ、僕の体を貫いた。僕はゆっくりと目を開いて、竜を見た。相変わらず竜は影に解けてしまっているが、星の光がかすかに竜の輪郭を示していた。
「我人は、自らの死を自ら懇願するのか?」
もう一度、その声は世界を揺らした。竜がしゃべっている。僕に向かって。獣が言葉を発する事ができるなんて知らなかったけれど、特別な存在である竜だから、きっと可能なんだ。
「はい、僕を喰い殺してください」
呼吸が整ってきてきたから、さっきよりもはっきりと言うことができた。
竜はとてもゆっくりと、僕に向かって近づいてきた。それと共に、竜に当たる星の光度が増して、鮮やかな青の鱗や、長い角、鋭い牙などがはっきりと現れた。僕もこれからあの逞しい肉体の一部になるんだ、と思うと、不思議と光栄に感じて、唾を飲み込んだ。
こんなに大きいと、なんだか僕が小さな虫になったようだ。そんな竜が、まるでため息のような音を発すると、大きな口を開いた。
「なぜ、我人は怖くないのか?」
「怖くありません。あなたが僕を殺すのですから」
竜は少しの間押し黙った。本当に怖くなかった。僕はどうしてしまったんだろうか。
「恐れを抑えてはいない。では我人は本気で死を願っているというのか。自ら死を考えているのか」
「はい、そうです」
そして僕はもう一度目を閉じた。竜のまねをしたわけではないがゆっくりと息を吐いて、続ける。
「僕自身のために生きる意味などありません。人のために生きようにも、みんな死んでしまいました。僕は存在する理由がないのです」
「お前が死を理解したとは思えない。絶望が我人を動かしている」
竜は何を聞きたいのだろうか。あの騎士たちと同じように、一思いに殺してしまえばいいのに。背中の痛みも何もかも、苦しみも終わってほしいというのに。
「さあ、僕を喰らってください」
はっきりとそう言っても、しばらくの間何もかもが沈黙していた。風さえも流れていない。そう、もしかしたら時間が進んでいないのかもしれないと思い始めた頃、竜が動く気配がした。なんとなく分かる。竜が前脚を上げ、僕に向かって爪を向けているのを。
そして、僕の腹を何本もの何かが突き抜けていくの感じた。それと共に、焼けて燃えていくのではないかと思えるほどの痛みが体中を駆け巡った。僕の口からは叫び声が絞り出てきて、それに合わせて熱い何かが口から吹き出ていった。体の中を掻き回されている。僕が目を開けると、腹には白くて鋭い三本の爪が、自身を真っ赤に染めながら、僕の腹を貫いていた。僕の体はすでに串刺しにされたまま宙に浮いていて、目の前には竜の顔が見えた。目の色は透き通るような青色をしていた。
僕は、少しだけ笑った。少し、怖かったけれど、いまさら何もできない。無力感ではないが、なぜか、空しかった。僕はこの竜に感謝しなければ。僕は・・・・。
僕は両手で、僕自身に刺さる爪に触れた。そして、僕の意識は途切れた。
竜は、ただずっと、その少年の心音が弱くなっていくのを感じていた。腕を伝っていく生温かい血。これまで何度もすすってきた血、引き裂いた肉、聞いてきた叫び声。だがこの少年は死ぬ前に、なんと自分に笑いかけた。ただの食い物が、自分に向かって。
竜は少年を爪に突き刺したまま、その場から飛び立った。高々と空に舞い上がり、木々の頭上を滑る。空は大小さまざまな星が瞬いていて、その中を迷い星がお構いなしに横切っていた。
血が、少年の血が空から地へと流れていく。竜はその赤い一滴一滴を見続けていた。何か考えるというよりも、何かを感じていた。
やがて見えてきた、断崖絶壁の中腹にある、大きな裂目の入り口。そこへと静かに降り立つと、その中に入っていった。
普段、竜は獲物をねぐらの中に持ち帰ったりはしなかった。血で汚れると鱗が痒くなったり、ぼろぼろになったりするからだ。そして何より、ねぐらで血の匂いを嗅ぐのが嫌いだった。
竜は迷いもせずに、少年ごとねぐらの中に入った。奥まで行くと、前脚を地面に滑らせて少年を寝かせ、ゆっくりとその体から爪を引き抜いた。特有の鈍痛な音を発しながら、爪がゆっくりと抜けていく。少年を中心に濃い血の環がますます広がっていった。
完全に抜けると、竜はその爪をなめ始めた。目はずっと、死に逝く少年を凝視している。
心音は聞こえない。息をしているはずもない。体の血はもうほとんど抜けていて、完全な肉の塊と化している。それなのに、竜はその少年に近づいて、なぜか前脚で、少しだけ少年をゆすってみた。反応はない。
竜は、小さい声で少年に鳴いた。この感覚が、この思いが、この情が、何か分からなかった。
少年の下に滴っている血を舐めて飲み込む。いつもと同じ血だ。いつもの同じ人間の血。それが長い喉を流れていく間、竜は何かを思い出そうとし始めた。
少年の右腕に、ゆっくりと噛み付いた。だが引きちぎるほどではなく、すぐにあごを離す。少年の腕に、竜の牙が、そのならび通りに少年の皮膚を突き破るが、そこからはもはや血が出てくる事はなかった。
もう一度、その少年を上から見下ろす。何も光のない完全な闇の中。目で見るのは不適切だ。
しばらくの間、何もせずに眺め続けた。死ぬ事を希望し、希望通りに生きる事をやめた存在。竜は考え続けていた。これが人間の考える事なのか、と。
「我人はなぜ生きていたのだ。私はなぜ生きているのか・・・」
問いかけた。
自分の死さえも超越している存在。竜の意思で殺したのでなく、自身の意思で死んだ。竜は感じたことのない、何か冷たい感情に、感じたことがない恐怖を感じた。
竜は自分の右脚を出すと、少年と同じ場所にゆっくりと噛み付いた。自分を守っていた鱗が鈍い音を立てながら割れ、その中から血があふれ出してくる。その脚を少年の上に掲げて、滴る血を少年の噛み傷に垂らしていった。少年の腕に、一滴一滴血が滴るたびに焼けるような音が洞窟に響く。竜の血は不思議と少年の傷口から染込んでいった。
その様子を岩のように、彼はずっと眺め続けた。
無。
苦しみも、怒りも、憎しみもない。何もかもが胸から流れていって、何も残っていなかった。流れも、動きも、力も、冷たさも暖かさもない。均等な世界。どこからが自分の境界か分からない。全てが自分で、自分は全て。
その中で、何かが自分の体を焼いた。何もない世界でのその熱さは、何の障害のない直接な痛みとなって襲った。そしてそれは自分の中に入り込んできた。また痛み。どこにも逃がすことができない、足掻いたり、叫んだりする事もできない灼熱が右腕から自分の中に入り込んできて、それが体の中をめぐり始める。あれ、右腕?右腕というものが存在する。
いつか僕は、そののっぺりとしたものから逸脱していた。体中を駆け巡る何かが、僕をその存在から区別したのだ。一つ一つが体の中に入り込んできて、それが僕の、今まで巡っていた線に沿って流れ始めるのを感じた。どんどん僕の体が熱くなっていく。
だが突然、僕の腹の辺りに三つの大きな穴が開いて、その熱が抜け始めた。膨らんだものがしぼむように、僕の体は再び無の線に戻り始めた。駆け巡る何かも、どんどん少なくなっていき、揺らめき、滲んでゆく。
体の中でその熱は、今までとは違う事をし始めた。今度はゆらゆらと蠢き始める。それは輪を描きながら僕の開いた穴に内側から近づき、その穴をゆっくりと塞いでいった。僕はそれをただ感じていた。
やがて、穴は完全に閉じた。僕の体の中は、再び前と同じようにゆっくりと熱に満たされていった。体の中心から足を通り腕を通り首を通り、巡っていくのがはっきりと分かるようになる。それは再び体の中心へと還っていき、いつの間にか心臓の鼓動が聞こえていた。その脈動は、今まで聞いたことのないものだった。
僕は、その音を生まれたときと同じように、安らかに聞いていた。
体が燃えるように熱い、苦しい。僕が炎そのものになってしまったかのようだ。だが、その炎の渦で、僕の体が形作られているのが分かる。空気を吸い込んで、その空気に熱を与えて、そしてそれは外へ逃げていく。僕の背中が当たる地面から、少しずつ熱が流れていく。それでも、僕を巡る炎は太陽のように尽きる事はなかった。
僕は、恐る恐る目を開けた。暗い洞窟。僕の横から始まった左右の黒い壁がずっと上で一線に交わり、その線に沿って細くが差し込んでいる。不思議な光だ。太陽のように陽気な光ではなく、冷たく射すような色だった。
ここは、もしかしたら死後の世界かもしれない。じゃあ、あの世界は一体なんだったのだろう。あの場所こそが、すべての終わりのような感じがしたのに。ここは、すべての感覚が生きていた頃のように感じられる。
僕は右腕を動かそうとして、そこで痛いような、痒いような妙な感覚に襲われた。目の前に持ち上げ、見上げてみると、そこには何か大きな獣にかまれたような歯型が残っていた。だがその場所は真っ黒に焼けていて、すでに直り始めていた。なんだろうか。ここから、今体中で疼いているこの熱が入ってきたのだろうか。これがその痕なのか。
今度はその右腕を、自分の腹の上に乗せた。服はあの時と同じように着ていないと今気づいた。そして、意を決してゆっくりとさすってみた。腹筋がある感覚以外に、表面がごつごつしている感触はあるが、貫かれた怪我はない。首を上げてみてみても、そこには三本の爪が貫いた傷跡だけが残っていた。
試しに、ゆっくりと体を起こしてみた。背中と地面をくっつけていた血がぱりぱりといって剥がれていくが、背中の痛みもなかった。だがその代わりに狂ったような目眩が襲い、そこまでだった。どこか遠くで、鳥が鳴くのが聞こえた。
手を胸の上に乗せてみる。しっかりと息をしている。だが、なんと心音は人間の脈拍ではなかった。不思議な三拍の、あのときのリズムだった。僕はあれだけの怪我をして、今生きているということなのか。
どこか遠くで、風を切る音が聞こえた。それと共に、風が三角の洞窟の中で渦巻く。もう一度首を上げて出口のほうへ向いてみると、真っ白な外の光の中で、あの青い竜が幅の広い羽を軽やかに折りたたんでいた。そこで僕はやっと、まだ自分が死んでいないということをしっかりと知った。あれだけの怪我をして、なぜ生きているのかは不思議だったけれど、竜という存在から離れたわけではない。僕は良いような悪いような、どっちともつかない妙な感じだった。
竜は頭をこちらに向けると、四足歩行でゆっくりと洞窟に入ってきた。口に何か咥えている。もしかしたらこの竜は獲物を自分の洞窟に溜め込んで、後で一気に獲物を堪能する習性があるのかもしれない。
僕が軽くため息を漏らすころ、竜は僕の横にそれを置いた。鹿だ。立派な雄鹿。首元を裂かれて絶命している。血で染まった開いた目が、僕を悲しそうに見つめていた。
竜は鹿を離し、それから僕を見た。青い目が闇の中で光り、外からの光が竜を黒く染めていた。僕もその目を見続けた。また時間が止まってしまった。
一羽の鳥が洞窟の中に入ってきた。白い小さな鳥だ。竜の上をちいちい鳴きながら周り、そして竜の角に止まった。止まってからも落ち着きなく鳴いている。不可思議だ。野獣として恐れられる存在。死の象徴とまでされる竜の角に、小鳥が止まっている。竜が命の次に大事にする羽、竜の目や角。竜に殺されながら生きている僕、違う鼓動と熱で生きている僕も、不思議だった。すべてが跳躍している。
牙のついた大きな口が、ゆっくりと開いた。
「喰うがいい」
喰うって、僕を?いや、僕に食べろと言っているんだ。何を?鹿を!?
僕は目線をすばやく鹿に移した。僕も君も喰われる運命のはずなのに、なぜこんなことをするのか?二匹食べるよりも、一度にまとめて食べたいとでもいうのだろうか?よく分からない竜だ。
「いや、いくらなんでもこのままで食べるのは、ちょっと――――」
「なんだ、喰えないのか」
そう言うと、竜は鹿の首を持ってきたとき同じように咥えて、本当に何事もなかったかのように、外に向かって歩き出した。そして羽を広げると、真っ白になって何も見えなくなった。
しばらく待っていたけれど、そのまま何も起こらなかった。それで、僕は疲れていたからいつの間にか眠ってしまっていた。
次に目を開けたとき、僕の横にあったのは数匹の大きな川魚だった。僕は川魚を見たことがなかったけれど、本でなら読んだ事がある。人間も食べるものだったはずだ。
それよりも僕が驚いたのは、青い竜がどこにいたかといえば、僕を囲むようにして眠っていたのだ。外から漏れる光はすでになく、夜である事が分かった。閉じた竜の羽が淡く光っているから、何も見えないということはない。
突然竜が動いて、僕を真上から見下ろした。青色の光る澄んだ瞳。初めて見たとき以上に、僕の心にはその中に吸い込まれそうだった。僕は何もできず、ずっとその目を見続けた。きっと間抜けな顔をしているなと不意に思った。
「これなら喰えるか」
やっと分かった。いや、やっぱりそうだ。この竜は僕を生かそうとしているのだ。まるでその瞳が語っているのか、まるで体を流れる熱がそれを語っているのかはわからなかったけれど、確信した。でも、なぜ?
「僕は死にたいんだ。生きる意味なんてない。なんで僕を殺さないの?」
竜は何も言わなかった。ただずっと僕を見続けていた。僕は、なんだかとても悲しくなってきて、いつの間にか語りだしていた。
「両親も、兄弟も、友人も殺されてしまったんだ。それに、僕を助けようとしたものは、みんな殺されてしまう。父が何か悪い事をしたという、それだけの理由で。でも、きっと父は間違ってはいなかったと思う。誰も間違ってなんかいない。だけど僕がこの世界に生きている意味はなくなってしまった。だから、僕はもう死ぬべきものなんだ。たとえ君に殺されなかったとしても、どこかで殺されるだろう」
僕の目は、いつの間にか涙を流していた。一体、僕は誰のために泣いているんだろう。
竜はそれでも始めのときと何一つ変わらずに僕を見ていた。ただ、少しだけ瞳の蒼が深まったような気がした。
「人は、死にたがるのか」
竜という存在から表情は分からない。だけど、その声はとても苦しそうな、絞り出したような声だった。
「誰のためでもなく、ただ自分が背負う苦しみから、悲しみから逃れるためだけに。人の持つ感情とは、自身の死を希望させるほどに強いものなのか」
僕はその言葉に驚いた。この竜はなぜそんな事を考えるのだろうか。僕は竜から見れば、ただ逃げているだけの者だったのか。終わりに安息しようとしていたのか。
「私には我人の考えることが分からない。私も生きる事に意味はない。だが、私は生きている。何者にも迷惑をかけ、何者も私が生きるために殺められる。それが私、竜だからだ」
竜の目が一瞬だけ赤くなったけれど、すぐに深い青色になった。竜は目を僕の横にある魚に向けた。
「喰うがいい」
またため息のような音がした。熱風の息吹が僕の頬を流れる。
「我人は私に怯えず、死にも怯えなかった。だから我人は死ぬ事ができる。だがそれを認めたとき、私はなぜ生きているのだ?」
僕はずっと青の瞳を眺めて、頭の中でよく理解できないその言葉を繰り返していた。
僕はどこに行ったら、自分の今の価値と意味を知る事ができるのか。僕の手、腕、体、足、考え。なぜ苦しいの?なぜ苦しまなければならないの?僕は誰?そして、どれだけ考えても、誰に質問しても、なぜこの問いの答えを知る事ができないの?嫌だ、こんな世界。
「意思と想い」
「え?」
竜が突然語りだした。まるで僕の心を読んだかのように。いや、もしかしたら読んだのかもしれない。青の炎が透明な硝子球の中で渦巻いていた。
「人の持つもの。存在の価値。私は人を探していた」
僕から目を逸らすと、自分の角で羽を休めている鳥が気になったのか、少しだけ首を動かした。僕は何故か、その後に続く沈黙が怖かった。
「人を?あなたは人を襲うのに?」
「人を襲うのに?そうだ。無意味な事だろう。竜でさえ無意味な事をする」
「無意味な事・・・」
「それは目の高さを変えれば、ただ解決する。私の首が長いのは、見る高さを変えられるからだろう」
見る高さ。全世界から見た僕は、無意味で価値なんてない。人の世界でも、きっと無意味。でもこの竜はどうだろうか。
「あなたは僕をどう見ているのですか?」
「私は我人を見上げている」
それはおかしかった。実際は僕が竜を見上げていた。だから、かなり考えてからやっと気づいた。それは現実を表しているのではない。この竜から見た僕の価値を言っているんだ。
「そんなことはない。僕は死んでもいいほどに価値のない存在だよ」
「死を恐れぬということがどれだけ強く、同時に恐ろしい事か分かるか?生きるために、恐怖は必要なもの。それは命を守り、心を生み出すもの。持たないということが、どれだけの価値を持つか分かるか?価値を持たないのか分かるか?我人はその価値を知らず、無意味に投げ捨てようとしている」
「僕に生きろというのか?人を殺める竜が?」
「例えば、お前が死への恐怖を知るときまでは」
僕は自分の上に乗っている魚を見た。ずっしりと重い。
この魚は、僕に食べられるという価値、もしかしたらそれさえもない無価値かもしれない。でも今、僕の上に乗って僕の胸を押し付けるという小さな価値が、この魚にはある。これは見方だ。こうやっていけば僕にも、小さな価値が、あるのかな。
僕が竜に目を向けると、竜は再び僕を見ていた。返事を待っているのか、ただ見ているのか、どちらとも取れた。
僕は無理に笑って、そして言った。
「ありがとう。でも、このままじゃ食べられないよ」
竜は僕が言ったとおりに魚を持って外に出て行くと、魚を岩の上に置き、魚とその岩に向かって炎の息を吹きかけた。岩はあっという間に真っ黒になり、上にある魚を芯まで焼き始める。
僕は、洞窟の中からその様子を眺めていた。闇の中に浮かぶ炎。無から炎を作り出す力。なんという存在なんだろうか。竜をこうやって見ることができるのは、きっと世界を探しても僕だけだろう。
竜が再び入ってきたときには、三本の爪に挟まった魚は焼けていた。先ほどまで生臭かったそれは、今度は香ばしい匂いを発している。
「これならば、大丈夫だろう」
竜はそれを例に同じく僕の横に置き、魚の身を爪の先で抓みあげた。この巨体、鋭利な爪とは裏腹になんて器用なのだろう。その白い凶器が獲物を引き裂くためだけにあるのではない事を知った。
僕の口の前に運んでくれたのは、僕があまり動けないのを知っているからだろうか。僕が口をあけると、白身を中に入れてくれた。
焦げている。だけど、ほんのり脂ののった味が、口いっぱいに広がる。最後にものを食べたのはいつだったか。また食べ物を食べれるなど、全く思いもしなかった。しかも竜の手によって。
僕はとてもゆっくりとしか噛めなかったけれど、それは疲れていることもあったし、何より味をしっかりかみ締めたかったからだ。竜はずっと僕の食べるペースに合わせてくれていた。寿命が長い竜にとって、待つことはあまり苦にならないのかもしれない。
食べている間も、竜はずっと僕を見ていた。食べている間、ずっと誰かに見られたことなどなかったから、ちょっと妙な感じだったけれど、しっかりと食べているか見ているのだろう。僕は黙って食べさせられ続けた。
炎。赤の灯火。明かりとなる光。そしてものを焼き、苦しめ、時に暖め、命を支える。
そういった赤の揺らめきが、僕の周りを巡りまわっていた。周りを巡る火は、たまに僕の体を突き抜けたり、重なったり、広がったりしている。でも僕は熱くない。
僕の中で巡っている熱さ、炎だ。僕も炎のように熱かったから、熱いとは感じなかった。いいや、それは正しくない。
僕は炎で生きているんだ。僕というものが炎で、燃え上がる全てが僕の一部。竜の炎。赤の灯火。明かりとなる光。そしてものを焼き、苦しめ、時に暖め、命を支える。そういったものの一部。炎は時にわかれ、時に融合し、時に広がる。緩やかに揺らめき、轟々しく荒れ狂う。僕の体の中で、それが流れているのが分かった。
僕が目を覚ますと、目の前には僕を見続ける青い竜がいた。もう昼間なのか、その頭部をはっきりと見ることができた。もしかしたら寝てしまってからも、ずっと僕の事を見ていたのかもしれない。
「君は、僕を食べないのかい?」
それを言った瞬間、竜の目がふっと赤くなった。燃え盛る炎が、何もかもを飲み込むかのような、そんな深く暗い赤だった。
「我人は、私に喰われる事はない。我人も、自ら死のうとは思わない」
その声は荒々しかった。言っている事も少しおかしくなっている。もう一息でも息を吐けば、そこから炎が出てくるのではないかとさえ思った。焦ったわけではない。なんか可笑しかった。
「うん、わかった。ありがとう」
僕はいつのまにか、右腕を伸ばして竜の口に触れていた。表面は硬くて冷たい鱗だったけれど、僕にはその内側で流れる熱い炎が、なんとなく感じられた。腕の歯の跡が、少しだけ疼いて燃え上がった。
竜の目の色が、再び澄んだ青色に還った。僕を流れる炎を、この竜も同じように感じられるのだろうか。きっと感じているのだろう。
手を腹の辺りに持っていき、もう一度傷跡を触る。折れたはずの骨さえも直っている。これも竜の力なのか。
「でも、あれだけの怪我をして、どうして助かったんだろう」
「それは――――私にも分からない」
「分からない?」
「分からない。我人の血は、全て流れてしまった。だが、私の血を我人の中に流し込めば、我人は生きると知っていた」
「じゃあ――――僕は今、竜の血で生きているのか」
体中を駆け巡る、燃え盛る炎。竜の炎であり、今は僕の炎。初めは苦しかったが、慣れてしまえばこの上ない心地よさだ。
「じゃあ、僕は竜だね」
「違う。我人は人間だ」
また少しだけ青が失われる。怒ると色が変わるのだろうか。
「――――うん。僕は人間だ」
僕は竜の巨体を眺めた。外の光が鱗に少しだけ反射して、美しい竜月色で輝いていた。
「そう、お前は人間だ。私は竜だ」
ささやきに近い、小さな声だった。それを聞いたときに、僕は竜の右腕の噛み傷に気づいた。
「僕と同じ・・・」
「我人のためだ。気にする必要はない。鱗は元には戻らないだろうが、もうほとんど治っている」
我人――ってやはり僕の事だろうけど、僕のためになぜ怪我をしなければならなかったのだろうか。僕のためにそこまでしてくれるなんて、少しうれしかった。でも竜は本当に気にしていない様子で、自分の傷さえも見ずに、代わりに僕の手の下にある、腹に刻まれた傷を見ていた。
「もう、痛くないよ」
それでも竜は何も言わなかった。またこのまま時間が止まってしまいそうで怖かったから、何か話はないかと考えた。
「君、名前は?」
竜は再び僕を見たが、答えられないようだった。もちろんその硬い顔には何の表情も示されていなかったけれど、目の奥から伝わってくる。
「僕の名前はフィード」
でも、何か物足りない気がした。そう、なぜかこの竜にだったら、打ち明けてもいい気がした。
「・・・真の名前は、ケンって言うんだ」
「我人は私に、存在の証を明かすというのか」
初めて、竜は明らかに驚いているようだった。僕自身も言ってから驚いたけれど、不安はなかった。
「うん、いいんだ。君は僕を操って何かするなんてこと、ないだろうから。僕は生まれたときから真の名を持っていたんだ。だから父さんは意思のある子だって喜んでいたけれど、僕は、真の名を知るものには、誰にでも従う者だった」
「存在の証。真の名。クロノスの鍵図。スカラーの代名・・・」
竜は僕の話は聞いていない様子だった。何かずっと考え続けているようだったが、今までの沈黙に比べたら、すぐに終わった。
「私には名前はない。だが、私は忍ばせる者だと、我が友人は言っていた」
「忍ばせる者・・・ということは、“カンザー”じゃないか」
「カンザーとは誰だ」
僕はいろいろ思い出そうとしたけれど、よくない事も一緒に思い出してしまうから、少し辛かった。
「――――僕も詳しくは知らない。遠い昔、ここではないどこか遠くの青か緑の星で、たくさんの秩序を作って、民を混乱から救った人らしいけれど、忍ばせる人と呼ばれていたって、聞いたことがある」
「では、私はカンザーなのか?」
「そうかもしれない。その友人って、一体誰なんだい?」
また真っ赤になった。何か悪い事でも聞いたのだろうかと不安になったけれど、次の言葉で分かった。
「我人を始めに、喰おうとした奴だ」
僕の真上にいた、あの緑の竜のことだ。あの時は、よく見つからなかったものだ。きっと緑の竜は僕の事を忘れてしまっていたのだろう。
「でも、僕は今ここで生きているよ」
「そうだ、お前は今、人間として生きている」
竜はゆっくりと起き上がった。ちょっとだけ踏まれるのではないかとおもったが、そんなことはなかった。竜は前脚でしっかりと起き上がると、僕のほうに向いた。
「起き上がれるか?」
ゆっくりと上半身を起こしてみる。目眩や頭痛はなかった。少しだけ安堵したが、すぐに息を呑んだ。そこで初めて、僕の周りの床の状態を知ったのだ。乾いた血が、僕のいる場所を中心に大きく環を描いていた。
さらに立ち上がろうとして、やはり目眩が襲ってきた。あっという間に平衡感覚を失って、体が宙に浮いた。どこが下なのか分からなくなり、とうとう立っていられず倒れそうになったときに、僕のわき腹に何か支えが入ってきた。たまらず僕はそれにしがみついた。
少しずつ、立つということに慣れてくる。こんなに体が動かなくなるなんて、まるで僕の体が僕の体ではないかのようだった。
そう思いながらしがみついているものを見て、驚いて手を離した。すぐにバランスを崩すと、今度は竜の前脚が僕の背中を支えた。
今の今まで僕がしがみついていたのは、なんと竜の羽だったのだ。
「そんな!僕、そんなつもりは」
僕は上に向かって言う。竜は僕に顔を近づけた。
「なんのことだ」
「いや、だって竜の羽は竜にとって一番大事なもので、それで・・・」
それに触れた者は、生きてこの世にいられない、という言葉は小さくなって出てこなかった。
「ああ、羽か」
羽を一振りすると、突如ものすごい風が辺りに渦巻いた。まるで洞窟の中に嵐が来たようだ。隙間から風が出るときの音が轟々と響き渡る。それがやっと納まって、僕が目を開けたときには、すでに竜は羽をたたんでいた。
「お前のためであるのならば、私は空を飛べなくても特に構わない」
僕の息は詰まった。まさか僕のためにそこまでしてくれるとは。竜の羽がもし折れれば、獲物を狩る事もできなければ、敵から逃げる事もできない。だから羽は竜の命に等しいって聞いたことがある。この竜はそれより僕のほうが上だというのだ。僕が死んだら、本当にこの竜の生きる価値はなくなるのだろうか。僕の命が非常に重くなったような気がした。よく分からないことも多いけれど、不思議とそんな感じがした。
「我人はまだ歩けない。だから――――」
竜は後脚を前に出して、身を屈めた。
「私の背中に乗るといい。いつまでも日陰にいるのは、体によくない」
どう返事をしたらいいだろう!竜の背中に乗る事ができるなんて夢にも思わなかった。騎士しか乗れない馬さえも、乗ろうとさえ考えた事はない。
僕がこまごまと悩んでいるのを、このときに限って竜は待てなかったようで、突如前脚を僕の腹に当てると、爪が当たらないようにしながら僕を軽々と持ち上げた。僕が次の状況を把握したころには、僕は竜の背中に跨っていた。
竜の鱗を通して、竜の鼓動が伝わってくる。それは、今僕の心臓が響かせている鼓動だった。僕は竜の背中に寝そべった。言い伝えでは、竜の鼓動を聞いた人は呪われるというけれど、僕の鼓動が竜の鼓動なんだからそんなこと言われてもしょうがない。それどころか、僕はこの律動が好きだ。この竜、カンザーの体を巡る炎が、その脈拍にしたがって流れているのだ。
「ありがとう、カンザー」
「我人はよく礼を言う。私は我人に何もしていない」
だが、鱗を通して響いてくる声は静かだったし、しばらくの間そのままでいてくれたから、彼は優しい。
「君はまるで人間みたいだ。言葉を話せるし、人間みたいな事を言うから」
「言葉は、忘れてはいけなかったからだ」
カンザーはそう淡々に言うとゆっくり歩き出した。振動は少ないけれど、歩くたびに背骨がくねくね曲がる感じが伝わってくる。
洞窟の外に出た。意識の中ではあまり時間が経ったとは思えなかったけれど、体や目は敏感だ。外はあまりにも明るすぎて、目を開けるのは辛かった。
「目を閉じたまま、少しずつ顔を背から上げて、そのあと目を開けてみるといい」
息がしづらいほどにその世界は真っ白だった。しばらくして見えてきたのはカンザーの鮮やかな蒼い鱗。本当に、この世にある青すべてを表現しているのではないかと思えるほどだ。太陽の光を美しく反射して、竜月色にきらきらと輝いている。
僕は何色もの色に変化を始めている森を見下ろしていた。僕の村には木などない。まして、このように木々が青々と色づくなど知らなかった。しばらくの間、僕の目は変になったのではないかと疑うほど。どこまでも森は遠くまで続き、たくさんの丘を越え、はるか遠くに見えるグリーンヘッドまで続いているようだった。
30身くらいの高さはあるだろうか。この洞窟はそんな高さの場所にあった。下は垂直の崖で、上もほぼ同じ。ここは大きな絶壁の割れ目だったのだ。
僕が上を見上げているときに、前触れもなく僕の体の重さがなくなった。そう、落ちるときの感覚。瞬時に鳥肌がたちカンザーにしがみ付く。その通り僕は、下にある深々たる多色の森に向かって落ちていた。
竜の羽が大きく開いて、一気に空気を掴む。曲線を滑るように落下方向が変わる間、僕はものすごい力で、青い鱗に体を押し付けられていた。
やがて、カンザーと僕は森の上を飛んでいた。風が僕の腕や足の周りで渦まき、轟々と音を立てる。僕は見たこともない速度で木々が過ぎ去っていくのを、片耳を鱗に当てながら見ていた。
羽はほとんど動いてなかった。ぴんと張った薄い膜に、たくさんの黄色の字がきらきらと明滅している。風を魔法か何かで操っているのだろうか。
両足でしっかりとカンザーの体を挟み、僕はゆっくりと体を起こしてみた。鱗の背と体の間でさらに風が渦巻き、僕を吹き飛ばそうとする。
「やめておいたほうがいい。しばらくすれば速度が落ちる」
音としては全く聞こえなかったが、竜の背骨が深い声を伝えてきた。カンザーを見ると、首を少しだけ曲げて片目で僕を見ていた。
「大丈夫だよ。手で押さえているから」
と言ったが、実際は暴風で、声は聞こえなかった。息がしづらい。目が痛くなって涙が出てきた。
だけど、カンザーが言ったように速度はだんだんと遅くなってきて、なんとか耐えられるくらいになった。
僕はまるで、緑の海原の上を滑っていくかのような錯覚を持った。竜が過ぎ去った木々は大きく揺らめき、まさに波のように揺れ広がっていく。
竜の周りを、鳥達が飛び回っていた。小鳥達が追いつけるほどの速度ではないはずなのだが、巻き起こす風に乗っているのか、しゅうしゅう舞い踊っている。
少しだけ竜の体が右に傾き、その方向に進路が変わり始める。下には深々とした森を二つに分断する青い筋が見えた。その筋に沿うように、進路を変えたのだ。
近づいていくうちに、その様子をよく見ることができるようになる。真っ白な川原の間を、青く透き通ったたくさん水が流れているようだ。いろいろなところできらきらと輝いている。こんな、地面にしみ込まずにたくさんの水が流れている様子を見るのは初めてだった。
「あれが、“川”かぁ」
「見たことがないのか?」
この風でも聞こえているというのには驚いたけれど、空を飛ぶという開放感に比べればなんのことはない。
「うん、僕の育った場所は乾いた土地だったから、井戸しかなかったんだ」
「イド?井戸とは何だ?」
「うーん・・・地下深くに流れている水を取りだす為のものだよ。こういった場所にはないの?」
「―――それは分からない」
それは竜なんだから人間の生活なんて分かるわけないか。そう思っているうちに竜はぐんぐん高度を落とし白い川原に近づく。ずいぶん時間をかけて、ゆっくりと着地するまでの間、地面から吹き返す乱れた風にただ我慢するだけだった。
風が収まると、目の前には白い石と砂の上を、すべるように流れる川が、目の前にあった。青く透き通ったたくさん水が流れていて、川魚がゆうゆうと泳いでいるのがここからでも分かる。
カンザーは、僕を乗せたまま川に入っていった。なぜかその場所だけ深いらしく、竜の足で、ほんの数歩進んだだけで僕の足元にまで水に浸かった。今までの僕だったら冷たいくらいだったけれど、炎が駆け巡る僕にはちょうどいい冷たさだった。
「そのまま滑って入るといい。鱗で体が擦れないように」
黙ってうなづいて、僕はゆっくりと水の中に入っていった。立とうと思っても足は着かないだろうから、片手は岸を掴んで、そのまま浮かんでいた。
正直、どこか水でしみる場所があるかもしれないとヒヤヒヤしていたが、水に浮かんでいる間もそんな感覚はなかった。あの傷や怪我は本当に完治してしまったかのようだ。その割に、背中やズボンについていた血が溶けて、僕の周りはすぐに真っ赤になる。それが川の流れに沿って筋を作っていた。
「この川には血を吸う妙な魚がいるが、私がいる限りは我人に近づいてくる事はないだろう」
カンザーは左の羽を広げて、水面を掻き始めた。大量の水しぶきが上がって、僕やカンザーを濡らす。僕はその波に飲み込まれて一瞬息ができなくなった。僕が咳をしていると、カンザーは急いでこちらを向いた。だからそういった動きが僕を沈めるんだって・・・。
カンザーは前脚を岸に前脚を置き、僕はその前脚にしがみついた。
「すまなかった。私は今まで、一人だったからな」
「分かっているよ。おかげでたくさん水も飲めたからいいさ」
僕はカンザーに笑いかけた。カンザーは僕をずっと見ていたけれど、それが僕でなく、僕が首に下げているお守りだということに、しばらくしてからなんとなく気がついた。
「これ、僕の両親の形見なんだ。鍵の石というお守り。お守りといっても、効いたことがないけれど」
本当に効いたことなんて一度も無い。僕は少し恨めしそうに石を眺めた。赤い六角形の水晶。水晶の内側で、不思議と何かがゆっくりと揺らめいているように見えるのだ。不思議な石で、他の人はなぜかこの石に気づかないことが多い。
「鍵の石」
カンザーは、ゆっくりとその名前を反復した。
「うん。偽りや脅威を退けて、本当のことを招く石なんだって。守りのおまじないが刻んであるんだ」
“英気に満ちし風の主よ、その身に無の鎧を”僕はその文字を指でこすった。
「そうか、それでお前には真実が招かれるのだな」
竜が冗談を言うはずがないけれど、僕はなぜかそのときだけは、それは冗談だったのではないかと感じた。
僕は少し体を洗ったあとにすぐに川岸で横になったけれど、カンザーは僕がいなくなったことを確認してから、本格的に体を洗い始めた。僕はずっとそれを見続けていたけれど、その様子は、まるで必死に何かを落としているような、妙な感じだった。
僕は、青空よりも青いその姿を見ているうちに、まるで空を見ているかのように眠ってしまった
轟々と何かが燃える音と吹きつける熱風に、僕はうなされながら目を覚ました。辺りは夕闇に近く、空には明るい星たちが輝き始めている。
その闇を明るく照らすのは、前も見た竜の炎だった。炎の吐かれる大きな口の周りには、何か赤く光った輪のようなものがあり、ゆっくりと回っているのがわかる。そこから出される炎は、何の混じり気もない、純粋な炎だ。
何かに火を当てているようだった。そしてしばらくすると、少し赤みを帯びたそれを川の水につける。ジューという音が森の中を木霊した。
「何をしているの?」
僕が起きたことは知っていたのか、それとも今気づいたのか、カンザーはどっちとも思える動きで僕を見た。
「上着を作っていた。着る物がなければならないが、この森にはこれしかなかった」
そういってカンザーが見せたもの。それは冷やされても真っ赤に燃えているような真紅の鎧だった。
カンザーはしばらくしてそれを口に咥えて持ってくると、僕の目の前に置いた。右腕の篭手はなくなっているし、継ぎ目もところどころ切れている。だがそれもカンザーと同じような竜の鱗でできているようで、その面影がうかがえる。まるで騎士が着るようなものだ。いや、実際に着ていたのかもしれない。
「これをどこから?」
僕は鎧を持ち上げて――――重い。元々は屈強な騎士のために作られた鎧、大人が着るものだ。僕が着れるはずはないのだが、よく見ると焼き固めた跡があって、うまく大きさが調整されているようだ。
「森に落ちていたものだ。大きさが合わないから、さきほどまで大きさを調えていた」
「すごい。本当に器用なんだね。まるで職人みたいだ」
だけど、実際この重さでは普段着るのは難しい。両手でしっかりと抱えて持ち上げるのが限界だった。だが試しに、無理やり鎧を頭から着た瞬間に、それは変わった。
重さががなくなったのだ。今までまさに鉄の塊とも思えたそれが嘘のように、まるで紙を着ているかのようだった。
「軽くなった!不思議な鎧なんだね」
「我人の体と共鳴したのだ。その鎧は今、我人の一部と同じ。自身の体が重いと感じたことはあるまい」
体の一部。試しに普通の右手で左の篭手をさすってみた。その感覚が、まるで本当に自分の肌として感じているような気がした。
「腕の長さも、肩幅も、指の一本一本までぴったり。まるで測って作ったみたいだ」
「物を測ることは、私には動作のないことだ」
こんな鎧を自分が着ているということになんだかもったいなさを感じて、あまりうれしいとは実感できなかったけれど、自分が一歩一歩、何かに生まれ変わっていくような、不思議な気持ちだった。
その時ふと、目の端の森の奥で何かが動いたように見えた。すぐに視線を走らせるが、ただ暗い森が深く根付いているだけだ。
「どうした?」
「いや、いまそこに何かいたような・・・」
「この近くには、特に動くものなどはいない。何かがいれば私にはすぐに分かる」
だが、カンザーは僕が見ていた方向を見て、そして少し目を細めた。いつものため息のような音を出して、何処までも見通せそうな目でずっと。
「多分僕の気のせいだよ。暗かったし、ちょっと疲れているからそう見えただけなんだ」
「疲れているのか。ではすぐに戻らなければ」
カンザーは前脚を出して、僕が背中に上りやすいようにした。たしかに鎧は重くなかったけれど、やはり足腰には負担が来ているようで、僕が背中についた時には体中が石のように重かった。
まるでそれが当たり前だというように、竜の体はふわりと浮き上がった。足の下には空の星を写したもう一つの星々の川が見え、森はさまざまな色で緩やかに光り輝いていることに、初めて気がついた。昼間は緑の海の上を飛んでいるようだったが、今は夢の上を飛んでいるようだ。白い星と虹色の世界の間を滑るように進んでゆく竜の船。僕はその上に乗っていた。
「僕、こんな世界始めて見た・・・」
「世界は広い。だが人は知らないことも知らず、それを知る前に死んでしまうのだ。動けば見えるものも、待てば見えるものも、もしくは偶然に見えるものも、命あってこそ知ることのできるものなのだ」
だからこそ死ぬときくるまでは死は恐れるものなのだ、とカンザーは強く念を押した。僕はただ、知らなかっただけなんだ。そしてあの時死んでしまっていたら、僕はこのすばらしい光景を知る機会さえなくなっていた。そう、遠まわしに語りかけてきている。
そして、僕がお礼を言おうとしたそのとき、突然竜の体が揺れた。羽を大きく羽ばたかせて、まるで僕がいることは忘れてしまったのか、乱暴に方向転換をした。振り落とされそうだったけれど、体に必死でしがみつく。右手や足が鱗とすれて痛かった。
カンザーの目は赤く燃え上がっていた。僕を見る時の目ではない。空いた口からは涎が垂れ、竜の体の筋肉が波のように緊張してゆくのが分かった。深い唸り声が、彼の骨から僕の骨に伝わっていく。
カンザーは一直線に森の中に突っ込んでいく。枝や葉が僕をすくい落とそうとしてくるが、全身全霊を込めて耐えた。森の中に入っても全く速度を落とさないまま突き進んでいった。何度も木々の幹にぶつかると思ってゾクッとしたが、絶妙なタイミングで羽をはためかせたり、体を傾けたりして器用に避けていく。
やがて暗い森の中で、一瞬だけ、一頭の白い獣が目に入った。そして次の瞬間にはカンザーはその獣に飛び込み、僕は今度こそ背中から投げ出された。
背筋から寒気がするような音で、僕は目を覚ました。頭が痛い。くらくらしながらゆっくりと立ち上がると、そこは僕の知る森ではなかった。
赤い水溜りがいたるところにできていて、僕の見える限り赤に染まっている。そう、血だ。森の絵を、赤い絵の具で塗りつぶしたかのように、そこは一色の色で作られていた。
そしてその中心で、青の体を赤に染めた野獣が、あの白い獣の足をかじり取っていた。生物が切り裂かれる音、血が血溜まりに落ちる音が、その歪んだ空間に響き渡る。飛び散った血が、雨のように僕に降りかかる。
僕は、一瞬後には胃から何かがこみ上げてきて目を閉じて必死に耐えた。だけど、そう文字通り目に焼きついたその様子にこらえきれなくなり、あえなく吐いた。
これが竜。そう、僕が思っていたとおりの、聞かされてきたとおりの獣。竜とはそういうものなのだ。
「フィー・・・ど・・・」
あの獣が僕の名前を呼んでいる。僕ははっとして竜を見上げると、今僕がいることに気づいたかのように、獣は僕を見下ろした。そう、その瞬間に、血と同じ赤い二対の目が、ゆっくりと青に染まっていくのを僕はただ呆然と眺めていた。
前脚に持っていた獣の残骸を落とすと、カンザーは顔を僕の目の前に近づけた。赤く染まった口からは、血と肉の匂いがした。
「なぜお前は泣くのだ」
僕は怖かった。そう、僕は初めて目にするおぞましい光景が怖かったんだ。本当ならばあの獣は僕で、今の目の前の光景と同じような光景になっていたはずだ。
青い瞳に写る僕は、泣いていた。でも、食べ物を食べなければ竜は生きてはいけない。いくらおぞましくても残酷でも、これが普通――――僕の心では理解は、できなかった。
僕はなぜか、いやそれでもカンザーの頭に抱きついた。そして、何も考えられないままにずっと、声を上げて泣いた。真っ赤な血も、この匂いも、そしてまだ残骸の残る口をした青の竜も、僕は見たくなかった。だけど、僕はずっとすがり付いていた。カンザーもずっと、そのままでいてくれた。
僕たちはもう一度川に戻って体を洗った。いくら洗っても、鎧から血の匂いは落ちなかった。まるでこの赤が血で、永遠に落ちるものでないような、そんな気がした。
カンザーはまた狂ったように体を川底にこすり付けている。カンザーもまた、この血の匂いが嫌いなのだと知った。
「不快だったろう」
僕はとっさに返事ができなかった。あの光景を一瞬思い出してしまったからだ。
「うん――――。あれが、いつもの君なんだね」
「そうだ。あれこそ竜が行うべくして行う捕食。そして本来の私だ」
本来の私。それはまるで今の自分と区別しているかのような感じだ。僕は結局匂いを落としきれなかった鎧を着た。
「僕は、人が食べる生き物を殺すところとか、見たことないから。でも、人だって同じように肉をバラバラにして食べているんだから、僕が慣れなきゃだめなことなんだよ」
「慣れる?他の生き物を殺すことになれるというのか?」
「そうじゃないけれど、かわいそうだから殺さないなんてことしたら、僕が死んでしまう。だから、他の命を奪って生きていくということに責任を持って、そうやって僕のために死んでいくということを、知らなければダメなんだと思う」
僕は川岸に座り込んでずっと川を見ているだけだったけれど、カンザーはずっと僕を見ていた。僕は寒いのか、少しだけ体が震えてきた。
「生きるって、なんて空しいことなんだろう」
「我人は強いな」
カンザーは川からあがると大きく羽を伸ばし、大きく一振りした。だから僕が、そんなことはないよ、と言ったことは聞こえなかったのかもしれない。
「私はこの体から逃げ、恐れている。私はどこから来て、なぜここにいるかは知らない。だが、私はそれでも自分の行うことに恐れていた」
竜は僕のところに来ると、やはり洞窟の時のように僕を中心に輪になった。僕はカンザーの体に背中を預ける。
「だが、我人はそれもまた真実だと言う。変えられないものだと。そしてそれに責任を持てと。そう、まさにそのとおりだ」
カンザーは僕を覗き込んだ。
「私のことが怖いか」
僕は小さく頷いた。だけど、そう僕がしっかりと感じたときに、僕は本当の意味で怖いということは決してないということも分かった。
「そうか、それはよかった」
「だけど僕、カンザーとは離れたくない。だって、そうしたらきっと、本当に怖くなってしまうかもしれないから――――」
体は震え、声は小さくて言葉になってなかった。だけど、カンザーが頬で僕の胸をさすってくれたから、僕はそのまま、静かに目を閉じた。
白い神殿に僕は立っていた。つるつるの床は僕をしっかりと写している。周りは白い柱がたくさん立ち並び、高くて重そうな天井を支えている。天井には大きな星の周りを小さな星が回っている絵が描かれていた。
そして目線を前に移したときに、いままでは何の変哲もなかった壁に、何かが貼り付けられていた。
竜だった。真っ赤な竜が、たくさんの棒で壁に貼りつられている。その下は血の跡で赤黒くなっていて、そこにガラスの破片がたくさん散らばっていた。ステンドグラスが割れたんだ。
「誰かいるのか」
その声にビクッとなって、僕は反射的に近くの柱に隠れた。気づかなかったのが不思議だが、ずっと足音が近づいていたのだ。
「いるはずはないなぁ。そうだろう、竜の王よ」
そこで、その足音が突然早まった。そして、誰かが竜の元に走っていくのが、僕の目に入った。
黒いローブに白の線が入った、見慣れない服装をしたおじいさんだった。片手には不思議な形をした杖が握られている。
魔法使いだ!僕の村にもある程度魔法は存在していたけれど、どんな魔術でも操れる魔法使いは、竜のようにお話でしか聞いたことがなかった。だけど、どう見てもあれは魔法使いの姿ではないか。
「竜化魔法陣が割れている――――竜の王よ。そのような悪足掻きはよしてもらおうか。それとも体だけでなく心までも操られたいのか」
あの赤い竜は生きているのだろうか。でも話しかけているということは死んではいないということなのだろうか。何も反応はないようだった。
「まぁいい。この魔方陣は結局発動できなかったからな。なくなっても惜しくはない」
そこで、その魔法使いは突然僕のほうを振り向いた。反射的に柱の後ろに隠れる。
「誰だ。そこにいるのは――――」
冷たい床に革のブーツがぶつかる音が響く。それとともに僕の心臓はどんどん早くなっていく。
そしてそれとともに、白い神殿がますます白くなって、そして何もかもが真っ白になって・・・。
僕の体は妙に冷静に、そして心は飛び起きたように目を覚ました。昇ったばかりの太陽が僕を照らし、頬を暖めている。
横を見ると、大きな角の生えた青い竜の顔が、静かな寝息をたてながら眠っていた。あのときの赤い竜。この鎧のように赤くて、カンザーのような姿をしていた。そしてあの魔法使い。一体何の夢だったのだろう。怖かったけれど、何かあるような気がしてならない。
起こさないようにゆっくりと体を起こし、砂の川岸をさくさくと歩いていった。流れる水に手をつけると、体中にしびれが走るくらい冷たい。その水で顔を洗った。川上から冷えた涼しい風が僕の体を撫でて通り過ぎていく。
そこで、小さな何か変なものが川から飛び出てきた。わっと驚きながら川岸に逃げると、僕のいた場所には数匹の妙な魚が口惜しそうにピチャピチャしていた。なるほどあれが血を吸う魚か。
そこで、やはり誰かが僕たちを見ているような気がした。そう、どこからかと言われれば分からないけれど、あの時目の端で見た何か。すぐにその胸騒ぎは収まったけれど、なんだかいやな感じだった。
「起きたのか。体のほうは大丈夫か」
僕がカンザーを見たときには、カンザーはすでに音もなく体を起こし、前脚で丁寧に薄い羽の手入れをしていた。
「うん、もう大丈夫」
「そうか、それはよかった」
前脚を一歩出して、前回僕が乗るときと同じようにした。僕はうれしくなって走ってカンザーの上に飛び乗った。
カンザーが連れて行ってくれた所は、見たことがない不思議な実がなっている木がたくさんあるところだった。始めはどれが食べごろかはよく分からなくて、すっぱい実や渋い実を食べてしまって辛かったけれど、だんだんと甘い実の選び方を熟知してきて、結局おなかがいっぱいになるまで食べ続けた。途中でカンザーも少しだけ実を食べていたが、どこがうまいのか分からないと言って、その後はずっと鳥たちと戯れていた。
僕が気づいた時には、周りを見渡しても、竜の姿はなかった。夢中になってはぐれてしまったのだろうか。僕は走り回ってカンザーの姿を探した。どこも同じ景色で、もともとどこにいたのかさえも分からない。
そうして夢中に走り続けていた僕の視界が、突然開けた。僕は驚きで息が止まり、そして感嘆の声を上げた。
そこは、一面が白い花の咲いた丘だった。腰あたりまで咲いた小さな花が風の波にあわせて流れている。そして、太陽の光がたくさんの三角に切り取られて、ゆっくりと強弱をつけながら丘の花たちをその形どおりに照らしている。
僕はその光景に魅入られながら丘を進んでいった。さらさらと、揺れている花が、空の青色さえも反射させているようで、美しい。
そんな淡い水色の海の上に、誰かがしゃがみこんでいる。僕の動きが止まった。
背丈は僕よりも小さい。真っ白な一枚の布に穴を開けてかぶり、腰を縛っただけの簡単な服装をして、頭には同じく白い鉢巻をしていた。よく見ると、どうやら花を摘んでいるようだった。
そして、立ち上がってすぐに僕がいることに気がついたようだった。やはり、僕よりも幼い少年だった。僕を見て、花を見ていた顔がさらに笑顔になって、こちらに向かってきた。
「やぁ君。体の具合はどうだい?」
「いえ、あの――――」
「ここは、光の丘と言ってね。太陽の光がところどころ、この地特有の魔法で折り曲がってしまって、このように光の強弱ができる場所なんだ」
「はぁ――――」
「君、竜といっしょにいた子だよね。よく襲われずに飼いならしているね。どういう魔法使ったの?」
「僕はカンザーを飼いならしてなんていないよ!」
流石にその言い方にはカチンときた。だけど僕がもっと反論する前に、手で制止される。
「うん、分かっているよ、ずっと見ていたから。でもすごいなぁ、竜と人が一緒にいるなんて、初めて見るよ」
そう、僕も夢にも思っていない。何もかもが初めてのことで、突然のことで、僕は現実に追いついてないような、取り残されたような気分になった。
多分、僕たちの事を時々見ていたのは彼だろう。そんな影から見るなんて、あまりいい感じはしなかった。
「ああそうそう。わしの名前はセオ。この近くの村に住んでいるんだ」
「村?村なんてこんなところには・・・」
「うん、魔法で隠されているからね。入ることもできないし、出ることもできない」
「じゃあ、なんで君はここにいるんだい?」
そういうと、彼は持っていた花を顔の高さまで持ち上げると、何かを小さくつぶやいた。するとなんと、僕が目蓋を一回閉じたその間に、花束は木でできた棒に変わっていた。手品ではない、紛れもない魔法だ。
「へへ、これでも魔法使いなんだ。だから守りを抜けてこられたのさ。わしがここで花を育てているのは内緒だよ」
僕より子供なのに自分のことをわしなんて言うのは変だったし、今までこの森には人がいなかったのに突然のように会うというのも変だった。だけどそんな僕の考えは、知らぬ間に顔に出ていたようだった。
「たしかにわしにこんなところで会うのは不思議だね。だけどわしからしてみれば君が竜と共にいることが不思議だし、わしのことが見えるということも不思議なことなんだよ?」
「普通は見えない・・・ということ?」
「見えないわけじゃないけれど、それがそこにあるって分からないってことかな。うーん、説明するのは難しいけれど、とにかく竜さえも騙せるわしの魔法が、きみには効かなかったというのはたしかだね」
セオは持っていた棒を器用に縦にすると、地面を一突きした。すると、今まで吹いていた心地よい風が一瞬でおさまり、辺りはしんと静かになった。本当に魔法使いだ。
「さて、そろそろいかないと。君もその・・・お友達が森中を探しているよ。早く行かないと八つ裂きにされちゃうかも」
「そ、そんなことは――――」
「ないよね、分かっているよ。彼はずっと一人だったから、ただいなくなるのが悲しいだけなんだよ。じゃあまた。わしのことを忘れなかったらまた会おうね」
まるで僕をからかっているような言い方だ。見た目には全く合わない言葉使いだったし、本当に変な子供だ。
そのとき、突如後ろから突風が吹いて、僕は反射的に目を覆った。
「ここにいたのか。ここは音の反射がおかしい。貴兄を見つけるのには苦労した」
後ろを見上げると、今降り立ったカンザーの体があった。僕が無事なのを確認して、見た目どおり肩をなでおろしていた。
「今ここに魔法使いが・・・あれ?」
そこには人はおろか、白い花が咲く丘もなく、ただ深い森がただ続くだけだった。
「この近くには私と貴兄以外だれもいない。もうすぐ日が暮れる。洞窟へ戻ったほうがいい」
見えないわけじゃないけれど、それがそこにあるってことが分からない。僕はその言葉を、何度も心の中で繰り返した。
僕は、星一杯の黒い空を見上げていた。いつもよりも暗い空は、僕がそう感じるからだろうか。
青い竜は僕の後ろの洞窟の奥で眠っている。眠っているだろうけれど、でも僕のことをしっかりと意識しているということは、なんとなく分かった。
下は、どこまでも深い森が、とても弱く、でも確実にきらきらと輝いている。
僕はたしかに死にたいと思った。何も行動もせず、何もできなかった。だけど今はどうだろう。僕は生きて、またいろいろな人に会いたいと思っている。兄弟、友達、親戚、親切にしてくれた人たち。セオに会ってまず思ったことは、やっと人に会えたという事だった。寂しかった。懐かしかった。
はかなく終わる 僕の息
自ら生きず 誰の影だろう
僕の旅路は 誰にもない
命はまた 死を知ってこそある
命はまた 命を蝕んでこそある
命はまた 心を動かしてこそある
命はまた 命をつないでいくためにある
はかなく終わる 僕の世界
自ら探さず 誰の影だろう
彼の旅路は 誰にもない
このさみしさを 誰が預かるのだろうか
このかなしみを 誰が受けいれるのだろうか
このくるしみを 誰が届けるのだろうか
このおそれを 誰が和らげるのだろうか
人は目を背けてはいけないから
僕はここで泣いている
僕の口が、自然と作り出していく歌。生きると決めても、どうすることもできないという自分。僕もまた、竜のように羽があればいいのに。そうすれば、自由に行きたい場所に行くことができるのに。
僕はカンザーのところに戻って、青い羽の下に潜り込んで目を閉じた。僕が夢の世界へ落ちる寸前に、何か声が聞こえたような気がしたけれど、僕には分からなかった。
「よい、唄だった」
私は空を飛ぶ。私というものの根源は炎で、私と言う存在は燃えあり続けていくためにある。そう、ただそのためだけに――――
緑の木々は静かに揺らめき、その風に私は乗る。それ以外は静かで、とてもゆるやかだ。何も普段と変わりない。
だが、その時、私は久しく人語を耳にしたのだ。青の羽が言葉を話さなくなって、どれだけの時間が経っていたのだろうか。だが私の耳にする人語は、それ以来一度としてなかった。私の心には懐かしさはなかったが、かといって興味がないとも言えなかった。自然と羽先はそちらに向いていたからだ。
そして私が近づくにつれて、そこには私と同じ竜の姿があることが分かる。間違いない。青の羽だ。青の羽も、こちらを向いている。
青の羽は木々の間にある少し開けた広場に立っていた。足元には大小の枝やその切くずなどが散乱している。何をしているのだろう。
私が地に降り立ったのを確認すると、青の羽は私の風で飛ばされないように脚で留めていたしていた木の棒を離し、私に向かってきた。木の棒は非常に精密に削られ美しい湾曲を描いている。
「ラグースよ。会うのは久方ぶりか」
「青の羽よ。お前はまた言霊を操るようになったのか」
青の羽は一瞬だけ目であたりを見回した。そのようなことをしなくとも、虫の一匹までも気配で知ることができると言うのに。そして、再会の印に互いの角をぶつけた。
「汝はここにいてはならない。ここには人がいる」
驚いた。ではこの木の棒も、人の業が成した物ということか。
「人?青の羽はなぜ人と一緒にいるのだ。まるで人が愛玩動物と共に暮らすように?」
青の羽は、大きく息を吐いた。角に再び鳥達が舞い降りてくる。
「我が名はカンザーという。私は知るべきなのだ。そのために私は人を生かした」
青の羽が名前を持ったことにはさして驚きはしなかったが、やはり人と共にいるということはよく分からない。
「確かに知るべき事はある。だがなぜ共にいる必要があるのだ。お前はそれで何を知ることができる」
「私の知らないこと。私がどこから来て、私が誰なのか。そう、それを知らないということも、なぜ生きているかということも、その疑問さえも、私はフィードによって知った」
「青のカンザーよ。うつろうものがどこから来たかなど、探しても見つかるものではない。竜は存在し、そして欲のままに生きることを許されている。それの何が悪い」
「私は、どこから来たのか、誰なのか、昔は知っていたのだ」
昔。昔とはどこのことだ。それはつまり、前のこと。そう、昔とはもう過ぎてしまった、起こり終わった事のことだ。私は始めてそれを認識した。
「だが今は知らない。知りたくないという思いもあるが、それは正しくない。生きる命とは死を知り、恐れることにより生を生み出すが、それと同じく私は知るべきことを知り、進まなければならない」
「何を言っているのだ。進む?今という場所から?どこへ?」
不思議な感情が、青の竜から私の心へ伝わってくる。快。いや、それよりも心躍るもの。これが“笑い”というものなのか。
「私のあるべき場所、私の行きたい場所へだ。緑のラグースよ」
その時、すぐ後ろの草むらから、突然何かが飛び出してきた。いくら話と驚きで頭が一杯だったとはいえ、全く意識していなかったのは不覚だった。
僕が言い出したのは、落ちた枝や木々で弓と矢を作ろうということだった。ここのところ、僕の食べるものはいつもカンザーが取ってきてくれるけれど、ずっと頼っているわけにもいかない。僕は弓も矢も作ったことがあるし、的に当てるのも苦手ではなかったから、僕はこの日、カンザーと共に材料になりそうなものを探して、弓矢を作ることにしたのだった。
ナイフはカンザーが持ってきてくれた。すこし焼け焦げていたけれど、しっかりと使えそうなナイフで、僕はそれでいくつか作ってみたけれど、なかなかいい木がなくて、もう一度森の中に入って材料を探していたのだ。
そして木々をかき集めて戻ってきた時には、そこには一頭しかいないはずの竜が、なんと二頭になっていた。緑色をした竜。忘れもしない。あの時に、僕を食おうとした竜だ。
そう、そしてその竜が僕を見た瞬間、なんと前触れもなく僕に向かって飛び掛ってきたのだ。ものすごい咆哮と威圧感で僕の体は固まり、逃げる余裕も失っていた。
躊躇なくカンザーが頭を低くしてその緑の竜に体当たりした。半分体が浮いていた緑の竜は大きくバランスを崩して後ろに倒れた。
「本能の虜となったか」
カンザーは僕と緑の竜の間にゆっくりと立った。緑の竜は、今度はカンザーに襲い掛かった。首の根元に噛み付かれ、真っ赤な血が噴出す。僕は不思議と、自分の体の同じ場所が噛まれたような感覚がして、とっさに手で押さえた。
カンザーは噛み付かれたまま、大きく羽を広げて空へと飛び上がった。そこで緑の竜を振り落とす。羽を広げる暇もなく森の中に落ちていき、落下音が森中を轟く。これで終わりかと思ったけれど、緑の竜はすぐにカンザーに向かって飛び上がって攻撃しようとする。しかし、カンザーのほうが小回りが利くようで、逆に何度も緑の竜の背中に体当たりを与える。
そこで振り返った緑の竜が、突然カンザーに火を吹いた。羽を閉じて炎から身を守るようにすると、くるくると回りながら一直線に落下していく、そして地面すれすれで再び羽で風を掴み、舞い上がる。僕は円状に広がるその風で吹き飛ばされそうになった。
しかし、代わりに首に下げていた赤い石が、飛んできた枝に引っかかって落ちた。すぐにそれを拾い上げて指で軽くこする。そこには守りのおまじないがいつもどおり刻まれていた。
後ろでまた何か重いものが落ちた音がした。それと共に、僕も一瞬だけ息ができなくなる。振り返ると、なんとカンザーが地面に伏していた。上を見ると、地面が揺れるくらいの咆哮を発しながら、緑の竜がカンザーに向かって飛び掛ってきている。
僕はなぜか、考える間もなく叫んでいた。
「英気に満ちし風の主よ、その身に無の鎧を!」
その言葉と同時に、カンザーも咆えるように何かを叫んだ。
「ディシーフ・エルク、エ・クヴァシル・アムース!」
落下してきた緑の竜は、苦しみながらもそう唱えたカンザーに触れようとした瞬間に、カンザーと緑の竜の間で何か硬いものにぶつかったかのように大きく跳ね返り、そして近くの地面に地響きとともに転がり倒れた。
カンザーはゆっくりと立ち上がると、僕に向かってゆっくりと歩き出した。僕は対照的に走って近づく。
「今の式は――――貴兄が作り出したのか」
「ううん。お守りに刻まれていたんだ。でもまさか本当に効くなんて・・・」
「竜は式など組み上げることはできない。貴兄もまた、式を働かせることができない」
「式って魔法のこと?僕、魔法なんて使えないよ」
「そうだ。貴兄は式を組み上げただけ、私は式を働かせただけだ」
カンザーの声は苦渋の色に染まっていた。体は目を覆いたくなるほど、至る所にある赤い傷がカンザーの体を裂いている。血は、竜の圧倒的な治癒能力なのだろうか、ほとんど止まっているようだったが、三本の爪の跡や噛み傷は痛々しい。左の角は半分欠けていた。
「カンザー、僕のせいで――――」
「いや、貴兄は何もしていない。それに、貴兄が死ぬときの苦しみに比べれば、この傷はたいしたものではない」
僕が死ぬときの苦しみ。それは僕が感じる苦しみ?それともカンザーが感じる苦しみだろうか。
カンザーは緑の竜のほうに目を向け、歩いていった。緑の竜は浅く早い息をして、体が上下している。
「私はラグースの感じた衝動を知っている。だから私は、止めるためには戦わなければならないということも知っていた。そう、そうしてお前は元に戻った」
緑の竜は、ゆっくりとカンザーを見上げた。血の入り混じった涎が地面を濡らしている。
「――――自らの命を危険に晒してもでも、人の命を守るという心。私にも理解できる時が来るのか」
「来るだろう。そしてその時は、それほど遠いものでもないだろう。ラグースよ、お前が先を見ているのならば」
緑の竜は、ゆっくりと立ち上がった。僕もカンザーも、何も言わずじっとその様子を見ている。彼は僕たちと目を合わせることもなく、擦るように歩いて森の闇に消えた。
僕は呆然といなくなった闇を眺めていたけれど、目に留まるカンザーの背中の爪跡にぞっとして、僕は急いでカンザーの正面に回った。
「すぐに手当てしないと。僕、薬になる葉はたくさん知ってるから、すぐに摘んでくるよ。だからここで横になってて。お願いだから――――」
カンザーはじっと僕を見ていたけれど、やがてゆっくりと横になった。
「ああ、待っていよう。貴兄がそう言うのならば」
僕は頷くと、まずは木を探していたときに見かけた薬草を取りに走った。
お疲れ様でした。下巻もどうぞ




