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第一部:一人の心-日記

厳密にはまだ未完成です。表現の変更などしたいなぁと思ってます。

竜の下へ-自作作品       著者:竜のかんすけ

1人の心


日記


ア・・カ・・・・大丈夫だ。字は、まだ覚えているようだ。村の商隊駐留所で字を習っておいてよかった。

俺は、自分が人間である証拠に、ここで日記を書くことにした。字は人間のものだから。岩に刻んでおけば、気が狂って暴れだす時も消える事はないだろう。

書いているのは自分の爪だ。そして書いている俺は、怪物だ――――この衝動、この苛立ちは、人間のものじゃない。姿だけでなく、心までが獣になってきているみたいだ。俺はどうして――――


今日はいつもよりも体が熱い。餌がなければ気が狂ってしまいそうだ。(ここで岩肌には深く三本の爪跡がついている。) だが俺はもうあんなおぞましい事はしたくない!俺は人間なんだ。

この爪で字を書くとすぐに腕が裂けるように痛くなり、強張ってしまう。細かい事をするためにこの腕はできていない事がよく分かる。人間の手はなぜあんな形をしているのかも――――

今日もこれ以上文字を刻むことはできない。


腕の痛みは取れた。だがあの苦痛を我慢するために鹿を三頭も喰ってしまった。でもこれでしばらく、あの”人間でない欲求”を押さえつけることができるだろう。いくらか不安がなくなる。

最近、なんだかいろいろな事を忘れ始めているようだ。自分の過去さえも消えてしまうというのか。そんなの嫌だ。だから、ここに俺の過去を刻んでおこうとおもう。

俺は、ある理由で村から離れた森の中を走っていた。理由なんて書くまでもないだろう。思い出すだけで、洞窟の中だというのに咆哮が止まらない。まあ、それはいい。俺はそのときに木か何かに足をすくわれて転び、頭をぶつけてしまった。そして気がついたら、突然この姿になっていたのだ。理由も分からない。

俺が倒れている間に、俺は夢を見た。それは歌のように流れていくような、不思議なものだった。

 俺はどこまでも、磨き上げられた白い床は続いていた。辺りも全て同じく統一され、俺が立っている冷たい床は、俺を映していた。顔中に赤い筋が刻まれていて、季節に似合わない薄手の服装は、さらに木々に切り裂かれていた。ここはどこなのだろうと、俺は辺りを見回した。

不規則に立つ白い柱が、見たこともない美しい天井絵を支えていた。小さな村に住む俺には、到底縁が無い華麗な壁画。はたして人の力でこのようなものが作れるのだろうか。壁の端までは一体どれだけあるのだろうか。山育ちだから距離の目算には自信があったが、両端の距離は想像がつかなかった。何かの錯覚かとも思えるほどだ。

 なんだか今日は頭が冴えている。だがもう腕の関節が枝のように固まってしまったから、また明日はひどい痛みだろう。痛みが引いたら続きを書くと思う。



 神様って本当にいるのだろうか。今はずっと考えている。この姿に俺を変えたのは俺が悪い事をし続けたせいだろうか。俺はこれからどうなるのだろうか。

 過去を記すうちに、なんとなく気が楽になるのが分かる。何も変わってはいないけれど、なんだか何かを償っているような感じだ。続きを書こう。

 夢の中の、真っ白な建物の中での続きだ。俺の目の前の、崖の絶壁を思わせる巨大な壁には、他と同様に見たことのない、現実では有り得ないほど大きな硝子の図柄―――ステンドグラスが掲げられていた。奇妙で複雑な図柄。俺は体の底から湧き上がる何か恐ろしいものと、狂った歓喜のような、何かがその絵から感じられた。瞬く間に外の光を美しく変化させて、鮮やかに俺に降り注いだ。俺自身の体を色づけ、床に同じ模様を描いた。本当にあれは硝子でできているたのだろうか。あれだけの大きさのものを、あれだけの高さに作り出すなんて、なんとすごいことだろう。

 その絵柄は初めて見るというのに、意味は全くわからないというのに、妙に吸い込まれる、そう、親しみがあるものだった。今思えばそれこそがこの姿になる予兆であったと言ってよかった。だがあの時は、これが都で使われているという“魔法の素”なのだろうか、などと呆然と考えていた。俺の周りには、そういった技術は全く入ってこない。生きるのに最低限なもの以外、行った事も見たこともなかった。だからその光景は俺を麻痺させていた。

それは突然、前触れもなく、なんとステンドグラスは無音で粉々に砕けた。あまりにも豪快で、それでいて優雅に見えた。俺は一瞬だけ感じたことのない感動を受けたが、体は思っていることとは反対に、顔を腕で覆った。天の光を受けながらキラキラと輝くたくさんの破片たちが、瞬く間に腕の影に覆われる。直後、不快な、何かが肉に刺さるような音が、何重ものこだまのように反響して聞こえてきた。

もちろん自分に刺さったのかと恐怖した。硝子の破片はそもそも死を意味する不吉なものだったし、さっきまで見ていた光景は、明らかに自分に降り注ぐ凶器だったから。でも、それに気づく最後最後まで、俺の体に痛みはなかった。俺が恐る恐るゆっくりと目を空け、自分の腕を確認し、さらにその腕を退かすと、先ほどまで繊細な色を作り出していたはずの壁面からは、切り取られたやわらかな白い空が見えた。一点が輝いていたのではなく、外の全てが俺を照らしていた。あれは、神様の光だったのかもしれない。

やっと状況が飲み込めてくると、破片は自分のいるところにまでは届いていなかったことが分かったが、刹那の俺にはそんなことはどうでもよかった。鮮やかな額縁の光の下の影に、巨大な赤い竜が、何十条の白い槍で壁に貼り付けになっていたのだ!まるで罪を犯した罪人の、処刑後のようだ。ふと、誰かほかの人がここにいるのかと思ったが、いないことはなんとなく感じ取っていた。風一つ存在していない。耳鳴りがするほど無音で、それだけは現実味を帯びていた。

俺は、一歩ずつ確実に竜の元に近づいていった。何かが、そうしろと命令している。自分の求める何かが、そこにあると叫んでいた。今もそうだが、その光景を思い出すと胸の奥から何かがふつふつと湧き上がってきて、咆えるのを抑えられない。こいつは何だとか、誰がこんなことをしたのだとか、そんなことどうでもよくなっていた。

 竜の血が滑らかに壁を伝い、地面を伝い、いくつかのの段を流れ落ち、それを中心に半円形に広がっていく。竜はぴくりとも動かず、死んでいるように見えた。息をしている様子もなく、時間が止まっているかのようだった。だが、眼だけは、恐ろしい獣の赤い眼だけは俺を見続けていた。そして、俺もそれを見返し続けていた。それを見た瞬間から、視線も心もそれに囚われてしまっていた。

足の裏の痛みで、割れたステンドグラスを踏みつけたことに気づいたが、歩みは止まらなかった。森の中を走り出したときと似たような衝動を感じる。歩みを止めたくない、という。

 俺は赤く染まった段をゆっくりと、確実に上り、壁に縫い付けられた竜の目の前に来た。赤い目は、相変わらず自分を捉え続けている。

『我は死する。だから、汝は我となる。』

 俺はうなずいた。自分が自分でないかのようだった。劇や物語を聞いている時のように蚊帳の外。理由も意思も、何も分からない。ただ怖くないと感じている自分に恐怖した。自分の心の隅で、俺は恐怖を叫んでいた。その永遠のような無音の視線の中をずっと。

次に気がついた時、目の前は真っ赤になっていた。いや、竜が俺に向かって血を吐き、血まみれになったのだ。俺は真っ赤になった自分の手を見た。熱を持ったその紅は、なぜか自分の血のように感じた。いや、それは完全には間違いではない。俺の足から流れる血によって、血は交わっていたのだから。

俺は、頭に響くほど激しい自分の心臓の音を聞きながら唾を飲んだ。何かが変わった。何かが自分ではなくなったのを感じた。歓喜、していたのかもしれない。

そのまま焦点を足元に移し、血に映る自分の姿を見た。そこには、写るべきものは写っていなくて、外からの光を浴びて、くっきりと映った赤い竜が、俺の代わりに俺を見つめていた。

――――もう我慢できない。喰ってくる。


空。

俺は空が好きだ。あれほど自由で優美で広大なものはない。いや、言葉では言い表せない。この姿になって唯一よかったこと、それは空に同じこの青い羽で、自由になれるということだけだ。

だが、その代償に人という存在を投げ出したくはない。

そういえば今日、はぐれ星を見かけた。たしかあの星は、太陽の動きを真似ようとした愚か者で、自分で止まるやり方も知らずに天から抜け出して飛びまわり始めた星だという。普通に回る事をやめた孤独の星。分かるような気がする。


もうすぐ冬だというのに、洞窟の外では珍しく雨が降り続いている。人間だったとき、雨を眺めていると外に出れなくて憂鬱になったが、今は物思いにふけっていてさらに憂鬱だ。雨音が頭の奥底にまで入り込んできて、骨の髄まで暗くなる。そう、こういう日には、いつもこの姿になった日のことを思い出す・・・。

野獣になった日のこと、きっと忘れはしないと、思う。

森の奥深くで目を覚ましたとき、まずひどかったのが激しい頭痛と体中に燃え盛るような痛み、いや熱さだった。あれで何度気が狂いそうになったかは分からない。何の飾りも無く地獄だった。赤と青の何か分からない変なものが頭の中を飛び交い、俺の意識をぐちゃぐちゃにして、さらに黄色の、同じくよく分からないものが、目の端で嘲り回っていた。その時の俺という存在は苦痛に等しく、それ以外の何にも等しくなかっただろう。

そして、きっと永遠の時間が過ぎ去った。

俺の体を最初に冷やしてくれたのは、一滴の水滴だった。そして、降り始めた雨だった。後で分かった事だが、俺はその場で、この巨体でのた打ち回り、その周囲の木々をみんななぎ倒してしまっていたから、俺は森の地面よりも真っ先に雨に触れることができた。その雨が俺の体の熱さを冷やし、飛び回る文字たちを追い払ってくれた。いや、実際はあまり変わってなかったかもしれないけど、錯覚でも俺を鎮めてくれたのは確かだ。

俺はいつの間にか、頭の中にあるその青と赤を必死に選り分け、それぞれの色同士をつなぎ合わせようとしていた。まるで奇怪なパズルをしている感覚で、今思えば途方もない。うん、これまた途方もない時間を使った。だが行っていくうちに暴れるピースは少しずつ少なくなり、頭の痛みが消えてゆくのを文字通り全身で感じ取っていた。俺が最後に感じたうれしさだった。

完成した二つの塊。青の塊には倒れた木、むき出しの地面、そして、地面にひれ伏している一匹の竜が、そこには描かれていた。長い角に、鼻の上にも短い角を生やした長く大きな口、牙が上と下にそれぞれ二本ずつ突き出ていた。凶器な頭部を支えるのは長い首で、背骨の模様が背中を通して長い尾まで続いている。前脚は人並みの太さで長さだが、爪は三本。足は大木のように太いく逞しいが、体の大きさにしては、少し短いように思えた。足も鋭い三本の爪、さらにかかとにもう一本。背中には大きなこうもりのような羽がついていた。

目で見ていないというのにそういったことを知る事ができることに気づいたのはずいぶん後、そしてそれが自分だと気づくのには更にその三倍を要した。

赤の塊はその竜の内側を示していた。胃や腸、内臓の隅々、筋肉や骨、神経の一本一本まで感じることができた。人間のころ感じたことは無いが、例えて言えば、自分の中身が綿だと知っている人形のような感覚だった。

何の決定権もなく、獣にされてしまった俺。

怖かった。



壁に左脚をつけて上半分を支え、右脚で字を記すということに、体が慣れてきた。

だが、さっきから息が荒い。体中が興奮しているし、涎も飲み込むのを忘れると口からあふれ出てしまうようだ。今の俺は何をしたいのか。

狩りだ。人間である俺が必死に心を留めているが、あの滴る血や生の肉、休んでいる獲物に音も無く近づき、あの喉下を掻き切ることを思うだけで、俺の体は操られた人形のように、外に足を向けようとする。

そうだ、あの時もそうだった。俺が始めてこの姿での狩りの楽しみと快感と、苦しみと絶望を知ったのは、赤と青の図を完成させてから四日後の事だった。

この体は当時、指一本動かすのにも大岩を持ち上げているかのような労力が必要で、その上今までの、人間の動きで歩く事はできなかった。指は二本減って器用に動かないし、歩くときには尻尾で頭とのバランスを取らなければならなかった。

さらに、今では意識していなくても安定しているが、少しでも気が散ると、またあの二色の塊がばらばらになって暴れだした。つまり、まず体に慣れるまで一日かかった。考えが今の状況についてきたのは二日目だったろう。

触れる外観は人間のころとは全くの別世界だった。目では見えない範囲の物がよく分かり、それがどれだけの硬さを持っているのかということが、実際に触れているように分かった。自分を取り巻く風の流れも知る事ができて、常時自分は風の一部のような錯覚にとらわれる。目の前に口と鼻がしっかりと見えるのも変な感じだった。

そしてなにより、長く降った雨の水溜りに映る自分を見たときの、あの絶望感と背中を駆け抜けた寒気。青い鱗を鈍く光らせた竜。そう、自分が今この瞬間、本当に生きているのかと疑った。

なぜこうなってしまったのか。自分が村から逃げてきたから?異国にあると言われる魔法の呪いにでもかけられたのだろうか。でも、なぜ?誰がやったのか?いや、あの時こけたショックで妄想を見ているだけかもしれない。だったらしばらくすれば元に戻る!そう俺は俺を納得させようとした。

だが俺はその時、何かを感じた。自分でない部分なのに、そこに触覚があって触られたような、不気味な感覚。それは、この身のはるか後方、人の足で五十歩あたりのところだと、正確に認識できた。すこし意識を開放すれば、散らばっていた感覚はそれに集中して、やがてそれが雄の鹿だと知った。知った瞬間、そう、ちょうど俺が今感じている衝動が体の奥底から噴出してきたのだ。この巨体が燃えるかのように熱くなり、一気に息が上がる。体中の筋肉は緊張した。あのときの俺の、手に余るものではなかった。考えが何かに押し流されて、俺が獰猛で強欲な存在に成り果てていくのを黙って感じているしかなかった。あのときの俺は本当に弱かった。

欲望の操り人形と化した俺は無意識に翼を広げ、次の瞬間には木々が自分の下を舞っていた。そういう記憶はあるが、あのときに心にあったものは鹿一匹だけで、他に何もなかった。

俺の翼はこういった狩りのためにある。飛び立つときなど特別な事がない限り、鳥のように無駄に羽ばたく必要がなく、羽を広げているだけで空を無音で滑っていく事ができる。薄い羽には不思議な文字が書かれていて、夜空では微かに光っているから、もしかしたら魔法かもしれない。そのおかげで獲物は、近づく俺の存在に気づかなかった。

俺はそのまま体を休めている鹿に向かって突っ込んだ。だがその一瞬前に、俺の翼が木々の葉に当たったその音に、鹿は間一髪で反応して俺の牙を逃れた。

俺は捕らえられなかった怒りと苛立ちで、鹿が逃げていった方向に向かって激しく咆えた。するとすぐにその音は返ってきて、俺に鹿の正確な位置が頭の中の青の図によって、はっきりと与えられた。

俺はその場から低空で飛び立って、木々の間を縦になって飛んだ。あっという間に目標に近づき、この身が覚えている本能に従って、必死で逃げている鹿の喉を噛み切った。鹿は一瞬絶叫の声を発して、俺の脚の下敷きになった。簡単に命が消えた。そう、そのときの狩りの達成感は、この姿になって始めての狩りともあって最高のもので、勝利の叫びが止まらなかった。もう、獣だった。

それから冷静に考えられるようになったのは、たぶん鹿の足を食べているときだったと思う。俺は今も獲物の脚を最後に食べる性分だし、次に来たときに、そこに足の骨だけが残っていたから間違いは無いだろう。俺はそれから間もなく正気を失い、次の瞬間には、今いる洞窟の一番奥でうずくまって泣いていた。いいや、人間の心としては泣いていたが、この目から涙は一滴も流れなかった。それどころか狩りの余韻で笑っていたかもしれない。口の周りや前脚など体中血だらけで、そこは血の匂いが充満していたから、ますます高揚感は収まらなかった。それにはすぐに気づいてすぐ近くの川で洗ったが、匂いは体から消えなかった。それから、今までの一度も。

きっと人間だったら、思い出したくないものは無意識に思い出さないようにしていただろう。だが俺はもう違った。無意識は何度もその興奮を思い出し、味わおうとしていた。肉を裂き、内臓を貪り食う俺。足を千切り取り、生のまま血と共にそれを味わう俺。これほどまでに残酷な殺し方があるだろうか。嫌だ。俺は人間だったんだ。こんな獣なんかじゃない。

そういえば、このときにはもう、飛び方を知っていた。人間のころには無かった筋肉や感覚を使うが、これは言葉では表せない。しいて言えば、空気が自分のものになったようなものか。こうやってひとつひとつ、俺は人間でないものになっていくことを実感してゆく。

そして今日も、これ以上この身を留めておく事ができそうに無い。


洞窟のずいぶん奥から書き始めたつもりだったが、もう出入り口付近にまで来てしまった。この後は反対の面に続きを刻むことにしよう。


慣れは恐ろしい。特に大きな変化では、人間は麻痺してしまう。例えば、あの白い建物の中にいたときのように。だけど、誰にも会えないという孤独、人間からも切り離された孤独というのは、慣れることはできない。

狩りは昨日のうちにすませてしまった。だから今日、俺の体は俺に何も要求してこなかった。それを空しいなどと思ってはいけないんだ。俺は人間だ。

今日も夜明け前に起き、まず自分の姿に怯えた。寝ているというよりも浅い夢をみるような、ただまどろんでいるだけで、つまり体を癒すために休んでいると言っていい。いつも体のどこかで警戒をしているからだ。

そのまどろみの中で、たまに変な夢を見る。いや、いつも見ているかもしれないが覚えていないのだろう。それは不思議な夢ばかりだ。昨日は久々に覚えていたが、鳥の形をしたとても大きな鉄の塊が、竜と同じように空を悠々と飛んでいた!一体何なのだろうか。

いつものように洞窟を出て、空を回りながら昇り、この崖の天辺に立って朝日を見た。人間のころは毎日見ても美しく、広大で晴々する気持ちを抑える事はできなかったが、この思いは日に日になくなっている。これは人の慣れか、それとも獣の無関心なのか、それは分からない。

その後は川に入って体を洗う。血の匂いを消すためだ。腰、といえるかどうか分からないが人間の感覚で言う腰辺りまで水に浸かれるように、川底を掘っておいた。そこに入ると、まず羽の裏で水をかき上げて体中に水を振り掛ける。手も足も、体のどこにも届かない。だからその後に川底に体をこすり合わせてよく洗う。自分の古い鱗が下に沈んでいて、それとこすれて気持ちがいいのだ。

羽と角を乾かしたその後は、ただずっと空を飛ぶ。そこで自分のいる深い森をずっと眺めて、遠くに見えるグリーンヘッド山脈に向かって咆える。そして、この世界での自分の小ささと、結局は何もできない無力さを今日も思い知らされる。

両親にもやっぱり頼りたかったけれど、そんな勇気がない。自分の村には近づいていないようにしているのは、すでに行ったことがあったからだ。あの時は村を大騒ぎにしてしまって、誰も俺が人間だったなんて気づくものはいなかったし、知り合いに怖がられるのは何よりも胸が痛んだ。あのいつもは優しい民兵の人たちが、恐ろしい顔をしながら槍を向けて走ってきたので、もう帰るしかなかった。そのときには両親や弟には会えなかったけど、俺が、今の俺に食べられてしまったとでも思っているのだろうか。まあ、あながち間違ってはいないが。あれ以降、人間を見るとどうも怒りが湧き上がってくる。自分は人間だというのに。この体は人間が嫌いなのだろうか。そうかもしれない。

今日は空で、大体そんな事を考えていた。

太陽が最も高い所を過ぎるころに、もう一度崖の頂上に戻る。そこは動物の気配がしないから、洞窟の次に安心できる場所だ。もしいると、またあの欲望に駆られる。

この時間になると、遠いところで数頭の竜が心を通じ合わせているのが聞こえてくる。獲物の分布や求愛など、ありとあらゆる事が行われているのだ。一本で繋がっているというよりは、輪になって話しているような感じで、誰に向かっているのでもない。言葉ではなく、感情や思いしかないけれど、縄張りの取り決めなどは恒常的にこの方法で行われていて、おかげで互いに会うことはほとんどない。このときだけは、俺は一人ではない。そちらの面でということだが。

驚いたのは、こんな俺が言うのも難だが、竜が実在したということだ!竜は魔法に同じく縁遠いものだったから、普通に暮らしているとは思わなかったし、竜同士がこんな方法で意思の伝達をしているのにはじめて気がついたときにも驚いた。

そして一日の終わりを示す夕日を、朝日と同じ気持ちで眺める。空が紫色に染まると、俺は月が昇るまで、地面に向かって歌を歌う。どんな歌かはいつも覚えていない。俺の心の中で、人間の俺が怯えているぼんやりとした情景しか思い出せない。

角を地面につけていると、青の図が全く何も映らなくなって、なんだか人に戻った気がする。でも逆に普段、周りがよく分かっているから、それはまるで闇の中に放り出されたかのように、不安になってくる。

明日はこの日課に、狩りが追加されるだろう。体は喜び、そしてまた俺はそれに恐怖する。いつになったら元に戻れるのだろうか。戻る方法などあるのだろうか。


今日は森に獲物が少なかったから、家畜のいる場所まで行って牛を二頭失敬してきた。彼らには少し多すぎるから別にかまわないだろう。村のヤギ使いの――――名前は思い出せないが、友人だった奴が愚痴をこぼしていたのを覚えている。さすがに食肉用に育てられただけあって、よく肥えていた。彼らには少々もったいない気もする。生きるのに最低限度以上のものを欲するというのはどうだろうか。確かにこの身さえも最低限度以上のものは要求していない。俺は、昔は強欲だった。自分の事しか考えない。無力な様相を纏った獣だ。俺は自らの心に合った姿になり、騙す事はしなくなった。今の姿になってよかったと、そういう点では思えなくもない。

こんなところでずっと怯えているわけにはいかない。確かに今はこんな姿だが、だからといって何もしなれば何も始まらないなど、当たり前ではないか。尾の一振りで木々をなぎ倒し、空を飛ぶ、敵のない存在。唯一恐れなければならないのは、人間だろう。


今日は何があっても外に出たくない。衝動もありとあらゆる方法で抑えよう。このまま文字を書き続ければ、気が散っていいかもしれない。

いや、やはり俺は人間に戻りたい。

俺は何を思ってあんな事を考えたのだろうか。家畜を食べるなんて、泥棒だとなぜ思いつかなかったのか。俺は、内側も竜になり始めている?何かが、俺の存在を蝕み始めているのか?前は森の動物を食い殺すなんて考えるだけでも悪寒が走ったが、今では何の苦もなく毎日のように食い殺しているではないか。俺は生き物を殺す事に苦渋を感じながら、それでも生きるためだと割り切ってはいる。いやいや、時には楽しさまで芽生えて、肉を引きちぎる事に快感を覚える。それが、この身から発せられているのか、それとも自らが愉しんでいるのか、最近分からなくなってきている。

書くことがない。思いつかない。考えるのがだるくなってきた――――だめだ、何か書かなければ、俺は押しつぶされてしまう。

たしか、字の書き方と読み方を教えてくれた商隊の人が、いろいろな神話を聞かせてくれた。ぼんやりとしていてはっきりと思い出せないけれど、たしかこんな話があったはずだ。



闇も光も存在せず、時間さえも流れない場所に、グランという舵使いは取り残された。

彼が罪を犯したのか、それとも不運にもそこへ飛んだのか、それは分からない。

彼の体は完全の庭にあったものだから、無は彼を憎み、彼を飲み込んでしまおうとした。

だが、彼は慌てず諦めず、喰われる体も気にせずに考え続けた。彼は眠るべき地を探したのだ。

そしてその末、彼は自分の心臓を光の槍に変え、庭にあった知恵で竜を作り

竜と槍で無を切り裂いて、それを光と闇に分けた。

彼は世界を描いた。神の庭を真似て、彼は言葉で天地を作り、草を作り、生き物を作り、すべてに名前をつけて、そして彼は力尽きた。

彼は槍をその地に打ちつけ、世界が揺るがないようにして、その身を地に倒した。


「彼の髪の毛は緑色だったはずだ」

ギルドの長は言っていた。

「そうしないと、巨人の墓標であるグリーンヘッドに、そんな名前はつかないだろう?」

そう言って、それから笑っていた隊長の顔は、ぼやけているというよりも歪んで思い出すばかりで、神話以上にはっきりとしない。

竜と槍。その言葉で思い出すのは、もちろんあの夢だ。ああ、だめだ。あれを思い出すと、また俺の何かがかじり取られたような感じがする。それに多分この神話とこれとは関係ないだろう。あったとしても今の俺には分からない。

今の俺。獣と人間は何が違うのだろうか。竜になって何が変わったのか、変わっていないのか。今こそ考えるが、人間のころも含めて、俺はどうして生きているのだろうか。

俺の日常と常識は崩れて、俺は竜になった。何からも自由になって、誰からも恐れられる、どれにも束縛できないものになった。そう、見方が変わったのだ。今までの俺と言う目線はたしかにそういったものだったが、この長い首の先から見る目線は、また違う世界を見せる。考え方も変わった。

俺は獣の心を俺と同じように持ちながら、まるで偽善者だと言うように偽り、振る舞い、上辺だけの接し方をしている人間というものに驚き、憤りを感じている。見たくないものは見ず、欲しいものは手に入れ、自分の死だけを恐れる。

では自分は人間でなくて幸せだとでも言うのだろうか。一体どこから見れば、正しく認識できるのだろうか。竜の目を持ち、人間の命を持つ俺は?

ああ、体が熱い。俺は人の心を持つ竜。人の生活から抜け出した人間。だからもう、人間というものに束縛される必要はないのかもしれない。いつだって俺は自由を求めていた。(かせ)がはずれたのだ。



赤い光を終点に、私たちは無色の道を進もう

下がり続ける温度を感じ、汚れたハチマキを手に取る

聞こえない嵐の音と、聞こえる自分の鼓動

偽れた操れる香りも、正しさを知らなければそれも真

さびた剣を舐めれば、必要な力を得ると言うのか


振り往く天の涙

無に返す炎

何も知らない子供

秩序を乱す者の首

光と闇

灯篭と金属

翔る命は何を求める

導くは 誰も知らぬ 真の名前


手のひらの ひとすくいの水

乾くまで待つ子供も 見ているのは真実

草木に与える青年も 見ているのは真実

自身の喉を潤す大人も 見ているのは真実

子供の口に運ぶ老人も 見ているのは真実

だが真実はそこにあって どこにもない。

その水は そこには在り続けない

真実など 想像の内にも在り得ない


往く疾風を風切りに すべては虚空でしかない

真実など 誰も知らない

真実を探す事も真実だから

その内側にいる限り 全体を見回すことなどできない



俺はもう二度と、人間には戻れないだろう。

人を殺してしまった。俺は止めることができなかった!

あれから、どれだけの時間が経ったのか。今の今まで、俺は考えると言う事を忘れていたから、俺の体が今まで何をしていたは知らない。どれくらいの獲物を狩ったのか。もしかしたらまた人を殺していたのかもしれないし、他の竜の求愛に応じていたのかもしれない。

元の人間であった自分を、何だったのかということも、もう俺は覚えていないのかもしれない。俺自身に与えられたものは、獣への堕落。

人間だって、許されない事はしてきたはずだ。いや、何を考えているんだ。人でなくとも許されない事をしてしまったのだ。だが、誰から見たときに?今までの俺の生活と、何が違うのかと問うと、答えが出てこない。人も動物も同じにしか見えない。だから、思い出そうとしなければ、きっとまた忘れて人を殺すだろう。

もしかしたら以前にも人を殺してしまっていて、ただそれを忘れているだけなのか。


俺は、空を飛んでいた。いつもの一日だった。いつも?違う。俺は人間に戻る方法を考えるのはやめていた。人間だった自分について考えていた。

葉も落ちた味気ない木々を眺めながら、そろそろ頂上への旋回を始めようと思ったころ、見慣れない生き物の影が俺の意識に入り込んできた。森の中には奇妙な生き物はたくさんいたが、それはさらに奇妙だった。二本足で歩行している!人間だ。

なぜこんな森の奥深くまで人間が入り込んできたのか。それもまだ幼い子供ではないか。手には弦が切れた弓を握っている。心臓の音に耳を傾けてみると、かなり緊張をしている様子だ。狩りの途中で、親か狩人からはぐれたのだろう。なんにしても、実に不幸だった。

そこで恐ろしかったのは、俺はその子供にも、いつもの獲物と全く同じ衝動が芽生えたと言う事だ。だが俺はそれを何とか押さえ込み、とりあえずは空を飛びながら様子を見ることにした。

自分の以前の姿。そう、人はあんな歩き方や仕草をした。どんな細かい事も器用にこなせる手に、握る汗。警戒する目線。どんなところから何が来るのか分からない。無知は常に恐怖を作り出す。そして、自分が無力でないかという不安。俺にはそれを抱いている事が分かる。

少年は長い間右往左往しながら森の中を徘徊し続け、やがて疲れたのか、森の中の木の根元に座り込んだ。はるか遠くにいるというのに、疲労と恐怖による荒い息と、それから何か聞こえた。

「・・・・」

何か言った。だがとっさに言葉を思い出せない。そう、どういう意味だったか。しばらく考えた後、俺は気がついた。俺は、文字こそ忘れてはいなかったが、声というものは忘れてしまっていたと。

「恐ろしい事だ。」

恐々と、試しに喋ってみた。なぜかは分からないが、竜になって初めて声を出した。人間のころとは全く違う低い声で、長い首に響いて出てくる声だ。ともあれ、言葉をしゃべれないわけではなくて安堵した。

俺は旋回して高度を下げ、いつもの狩りの様に気配を消して、少年の座る木の裏に無音で着地した。見てみたかった。人間を実際にこの目で。

この重量で押されても音を出さない木の根は、着地する前に確認していたから、羽が作り出す風が木々の葉をささやかせただけだ。

「父ちゃん・・・」

泣いているのか。俺も何度泣こうとしたことか。だが嘆くことさえできなかった。すぐに、寂しさが俺の体を押しつぶした。

人間。知らない間に、俺が思っている以上に、俺は人間から俺自身が離れてしまっていた事を知った。すべすべした肌、髪の毛、ありとあらゆる人であるものが懐かしかった。俺はこの目で見てみたくてたまらなかった。この木の裏側にその存在がいるのだ!

俺はゆっくりと四足歩行で、少年いる木を中心に回っていった。そしてすぐに、少年と目が合った。

少年は木の根の間に体をうまくはめ込み、足を腕で囲って、見開かれた黒い瞳で俺を見上げていた。自分が竜になった時と、逆転した立場にあった。

俺はゆっくりと顔を近づけ、匂いを吸った。子供の人間の匂い。あんな匂いだったのか。

本当に、羨ましかった。俺を見て恐怖に体をこわばらせれる姿。叫び声をあげようにも恐怖で何も出てこない声。驚愕と絶望の入り混じった、涙に濡れる顔。俺にはもうない。そういった感情も表情も仕草も何もかも。

そして一瞬後、俺はその少年を恨んだ。憎しみと怒りで、俺はうめき声を少年に放っていた。自分と人間という境界線が、はっきりと見えていた。

「お前は・・・」

何を言おうとしたのか、忘れてしまった。言葉も、そのときには思い出せなかった。そのまま俺の人間の部分は、あっと言う間に小さくなり、蝋燭の炎のように、消えた。少年の瞳に映る俺の目は、真っ赤に燃えていた。

あとは、獣と獲物の関係だったから、書くまでもない。少年はひたすら俺に懇願してきて、声にならない声で泣き叫んで、しばらくして静かになった。

ただ、俺はがむしゃらに喰らいついて、何のこともなく、いつものように美味かったのが悲惨だ。

そして今、あの少年の血と肉で、俺は生きている。


何も変わらなかった。何も特別な事は起こらず、いつもの日常が続いた。あんなことも、まるでいつもの事だったかのように、普通であるかのように過ぎ、続いている。

あれから数日はさすがに食欲はやってこなかったが、それも今ではいつもどおりに戻っている。欲にとらわれているときには家畜を食い荒らすことも少なくはない。

本当にこれは現実なのか。なぜ今生きているこの世界は俺が生きるのを許しているのか。それとも、人を喰う事も、今の俺にとっては狩りをするのと同じくらいのものなのか。そう、感覚では何も違いはない。

もはや俺自身で自分を判断できなくなった。きっと今の俺の考え方は、人間だったころよりもずいぶんと獣化している。字を書くことの重要性も、最近疑うようになってきた。言葉も何のために必要なのか。気づけばそう考えてしまっている自分がいる。


 まだ、俺は文字が書けるんだな。不思議だ。獣と同じ行動をして、物を考えられるなんて。人の技が使えるなんて。

 洞窟の奥で、しかもこの巨大な自分の影で、普通なら何も見えないはずのこの床にさえ、字が書ける。人でない力で、人の文字を書く。

 だが何もかも慣れてしまった。今の俺の心の形は竜の形をしていて、どんなに残酷なことでも、まるで動じることがない。体を引き裂くことに快感を覚え、生き物を食らうことに喜び、まるで狂っている。

 だが、それは普通ではないか。人間のころだって食べることは喜びだったし、料理することは楽しかった。ただ規模が変わっただけで、ただそれだけ。俺が恐れることなど、何もなかったはずだ。ただ、慣れてなかっただけ。そう思うと気が楽になる。

 字を書くことに疲れた。


 森は、真っ白な雪に覆われている。白い雪の荒野。ふんわりとやわらかな衣で全てを覆い、生き物に戒めを与える。

 俺は今日そんな雪の中で一匹の小さな、青い小鳥を見つけた。乏しい餌を探している最中だった。

 鳥は、羽を傷つけて、雪の上に落ちていた。まるで何気なく捨てたゴミのように、簡単に。飛んでいる最中に強風にでもあおられたのだろうか。

 とても小さな心音に、雪の冷たさがじんわりと近づいていく。とてもとても小さな荒い息。白い雪に滲む赤い点。

 今まで、何も感じていなかった俺の心に、再び人間の感情が戻ってきた瞬間だった。実にかわいそうだった。もう空を飛べないということがどれだけ苦しいことなのか、もう同じ仲間と共にさえずることができないことが、どれだけ悲しいか。

 俺は前脚で雪ごとその鳥を掬い上げると、急いで飛び立った。字を書いていて正解だった。この腕はかなり器用になっている。

 洞窟に戻ると、とりあえず必死に息を吹きかけて小鳥を暖めた。俺の体は冷たいが、息は違う。あっという間に雪は水となった。

 その間もこれからどうしたらいいかいろいろ考え、とりあえずこの小鳥が食べる餌と何かしらの薬が必要だと思った。このときは必死で気にしていなかったが、ひさびさに人間の知識を使ったように思う。

 一刻も早く見つける必要があった。とはいってもこんな時期に木の実などを探し出すのは至難の業だった。雪は“竜の視野”からさえも地表を隠し、全く見ることはできなかったし、薬草だって人間のころのあいまいな知識しか持ち合わせていなかったから、冬でも生えることができる場所を見つけるのにもとても苦労した。ちょうど一日、ずっと探し回った。

 目的のものを見つけ、俺は急いで洞窟に戻った。正確に言えば何度も様子を見に戻っていたけれど、いつ死んでももちろん不思議ではなかったのだ。竜の体で薬を煎じるのは非常に難しかったけれど、俺はひたすら岩と爪で薬草を、ゆっくりとすりつぶしていった。絶対にあきらめたくはなかった。

 木の実の粉は結局食べることができないようだったけれど、薬は傷にしっかりと塗ることができた。異物も入らないように、細かい作業をするのは、本当に久しぶりで、人間の思いと知識が残っていたことに、本当に涙が出るのではないかと思えるほど感動した。小鳥を助けるなんて、とても人間らしいではないか!

 今、小鳥はやはり前と変わらない様子でいる。時々体を温めてやってはいるが、これからどうなるかは全く分からない。

 小鳥が死んだら、俺は今度こそ本当に竜になってしまうのだろうと、なぜかそう確信した。


 あれから一週間がたった。なんと俺はその一週間、何も食べず、ずっと小鳥を見続けていた。なぜならば、小鳥は日に日に元気を取り戻していったからである。一瞬たりとも目を離したくなかった。それは不安で心配という理由から、回復を見逃したくないという思いまでであったからだ。

 俺は昨日、鳥を前脚で掴んで空を飛び、木の実がたくさん落ちている場所に連れて行った。その間も小鳥は全く俺におびえる様子はなかったし、それどころかチイチイ俺に向かって鳴いてくるのだ。俺の周りには、この小鳥の仲間だろうか、他の小鳥が俺を追ったり回ったり追い抜いたりして、たくさんの鳥達が、まるで季節外れのように飛びまわっていた。少し目障りに感じて何度も咆えて警告したが、鳥達はそれに答えて鳴くばかりだった。まさにため息をついてあきらめた。


 小鳥はすっかり元気になったようで、始めは軽く飛び上がる程度だったが、いつか木から木に飛びつれるほどに回復した。俺はずっとその様子を眺めていた。本当によかった。

 だが俺には重大な問題が残されていることに、いまさらながら気づいた。俺には、冬を越えるための食料がない。


 だめだ、何日も飛び回ったが、獲物一匹見つからない。うさぎはこの時期別の山に移動するという事を知っていたが、実際に自分に影響が出ると思った事はなかった。だんだんと頭がぼーっとしてくる。今日は川沿いを探してみようと思う。

 小鳥は元気に飛び立っていった。これからも空を飛び、仲間と共に暮らしていくのだろう。



雪に閉ざされた森にある、岩でできた洞窟。青い竜は、冷たい床の上で静かに横になっていた。体は衰弱し、息は深くゆっくりだ。ずっと、外の雪を見続けている。

小鳥を助け、その代償に死ぬ。自分の命を代償にほかの命を救うことのできる人間の心とは、一体何なのだろうか。だが、決して後悔していない。それがきっと、人間の心の価値なのだと、竜はゆっくりと考えていた。

それから数日後のこと。その日は猛吹雪だった。洞窟の入り口を過ぎる風が渦を巻き、轟々と音を立て、また外は真っ白で何も見えなかった。

寒い。竜の体になって、初めて感じた寒さだった。地面からでも、空気からでもない、自身の体の芯が、心から、あの吹雪に晒されているように凍えた。そして、眠くなった。

次の日の朝。竜が目を開けたとき、何かが入り口に落ちているのが見えた。まるで何気なく捨てたゴミのように、普通にそこにあった。

竜は目を見張り、一瞬で体中が沸騰するのを感じた。まさにどうしたらいいのか、何を思ったらいいのか、分からなかった。

助けた、あの小鳥が洞窟の前で倒れていた。直ったばかりの傷が再び開き、見つけたあのときのように、白い雪を赤く染めていた。なぜここに来たのか。竜にはわからなかった。だがその傷は前以上にひどく、もう助かる見込みはなさそうだった。

嘘だ。こんなことが、こんなことがおこるはずがない。

鳥は竜に小さく一つ鳴いた。まるで、今までありがとう。恩返しにじぶんを食べてください、とでも言うように。いや、そんなこと言うはずがない。ただ俺が飢えているからそう思えるだけだと、頭振ってその考えを追い払った。

竜は両手で前と同じように、ゆっくりと、前よりもやさしく小鳥を掬い上げた。赤く染まる雪、その上で横たわる青い羽、そして、竜を見る黒い目。その目に映る、竜の姿。

このまま痛みと寒さを感じ続けるよりは、自分に食べられたほうがいいかもしれない。そう、命の循環、自分の一部となって、新たな命として生き続ける。そのために今、小鳥はここに来たのではないか。

竜はずっとずっとそのまま時が止まってほしいと願った。このまま永遠に迷い続けてもよかった。だが小鳥に苦痛を、寒さを、死への恐怖を、永遠に感じさせることはしたくなかった。


竜は、小さく小さく、小鳥に嘆き、そして鳥を食べた。彼は何かを堪え、耐え切れず咆えた。死を告げる教会の鐘のように。今、一つの命が死んだことを伝えるかのように。そこに、死を悲しむものがいるということを、伝えるかのように。

その思いは何なのだろうか。鳥一匹食べたところで何も変わらない。相変わらず自分は衰弱しているし、相変わらず餌も存在しない。でも竜の心は一杯だった。自分の血となり肉となった一匹の鳥。彼のために自分は生きなければならないと思うだけで、彼の心は温まった。生きなければならない。竜としてでなく、“自分”として。


前に食べた少年と、あの鳥とは、何が違って何が同じなのか。少年を食べても何も変わる事はなかったが、たった一匹の鳥が、竜を満たしている。

そもそも小鳥を助けることは正しかったのだろうか。自分の優しさが、結果的に鳥を苦しめた。自分の持つ優しさとは一体何なのだろうか。結局は不要のものなのだろうか。雪が解けるまでの間、竜が考え続けたが、結局答えが出せなかった。


それから、いろいろな鳥たちが竜の元に集まるようになった。竜の角や体に止まって羽を休めても、竜は彼らを傷つける事もなく、彼らのさえずりをいつまでも聞いていた。それが、自分の中にいるあの鳥に届くようにと。


人とあの鳥と、何が違うのだろうか。しかし鳥は俺のために死んでくれた。俺の哀れみも、この姿では凶器にしかならないのかもしれない。



 人とは、何なのだろうか。人の持つもの、人の強さとは何だ。心とは?知識とは、結局何のためにある?

 俺は元の人間というものを信じることができなくなった。この獣の中で必死にあがく人間としての俺。もう嫌だ。今獣であることも、自分が人間であったことも、俺は嫌だ。

人のころの記憶、覚えているものはいくつあるのだろうか。広い平原、牛舎の牛たち、遊びまわった友達、両親・・・存在は思い出せても、一体今まで一緒に何をしてきたのか、何をしてくれていたのか、まるで遠くにある陽炎の向こうにあるもののように、思い出すことができない。人間の頃の事。そう、餌だった頃のことだ。そうだ俺はもう、思い出したくはないのだ。人間ではないから。人間ではない?

恐ろしい。だがこの恐ろしさにも苛立ちを覚える。なぜ俺が恐れなければならないのだ。弱く、ずるく、そして何もよいものを持たない者などに恐れるということが、たまらなく嫌だ。

これは、正しい思いなのか。ただこの姿になったせいで、俺の考えが変わっただけなのか、それとも蝕まれているのか。俺は一人だ。もはやこれを自分自身で判断することはできない。やはり、誰かに相談しようと思う。親父だったら何か言ってくれるかもしれない。人間でも、怒りを感じない。昔はあんなに嫌な人だったのに、今では一番のよりどころだ。明日の夜、こっそりと村に下りてみよう。


そして、最後の行は赤の血でべったりと、こう書かれていた。

――――俺は人ではなくなった だから 今日から俺は竜になる




 青き竜


春も終わり、青い葉が繁々と風になびいている。森と森の間にあるこの街道は、物資を山奥の集落に運ぶための唯一の生命線で、多くの商人が行き交う道であった。そう、平年ならば。

「妙ですね。この街道、こんなに湿気た場所だったかぁ?」

 その道に、一台の獣車が通りぬけていた。二つの車輪のついた荷車を、白いもじゃもじゃした四速歩行の生き物がゆっくりと引っ張っている。その生き物の上に、大柄な男がまたがっていた。

「最近はこの街道を通ったものが行方不明になるっていう噂で、荷物を運ぶ商人がめっきりいないそうだ」

「そりゃこっちとしゃ商売繁盛だねぇ」

 低くゆっくりとした声とは対称的に、荷車で寝転んでいる小柄な男は空返事をした。

 本当に静かだ。この時期ならば、春の始めのころの食料などが尽き始めて、次の物資を運ぶ荷車をよく見かけるはずだが、全く人気がない。木々の葉がささやく音が何かを告げていると思えるほどに、昼下がりの不気味さだった。

「本当に気をつけたほうがいい。何か悪い予感がする」

「なーに、何か起こる事なんかありゃしないさ。きっとこの道の途中で迷子になる馬鹿どものことを大きく騒ぎ立てているだけさ」

 たしかに、始めのころはそう思った。しかし今思えばこの輸送の報酬は妙に高かったし、依頼者も妙な顔つきをしていた。そしてこの雰囲気。手綱に力がこもった。

「だと、いいのだがな」

 街から街への旅というものは非常に厳しく、ありとあらゆる知識と技能がなければ簡単に命を落としてしまう。ほんの少しの前兆でも見逃してしまえば、危険に遭遇してしまう。そう、もしかしたらあまり気にはしていなかった妙な噂が、その前兆であったのではないか。その不安が伝わったのか、白い獣は小さく呻いた。

「ほら、兄貴が弱気だからのろまのシープも嘆いているじゃないか」

 いや、それは違った。今までやさしく吹いていた風が突然突風となって二人を襲ったのである。土埃があたりを舞い、荷車は一瞬浮き上がって、そして斜めに地面に叩きつけられた。

「大丈夫か!」

 暴れて逃げようとするシープの手綱を必死に引っ張ってなだめようとするが、ものすごい力に、乗っていた男は振り落とされてしまった。逃げてゆくシープを目で追った時、男の目に空よりも青く、太陽よりも輝いた光沢の鱗をもつ巨大な物体が、空から舞い降りてくるのが写った。そいつは太い足で荷車を小石のように一蹴し、地面に倒れた小柄な男に顔を向けた。

 二人とも息を呑んだ。こんなところに、竜が!

逃げろ、早く。喉がはちきれるほどに大柄な男は叫んだが、その言葉が届く前に、地面は赤い血でいっぱいになった。聞きたくもない不可思議な異世界の音を発しながら、あっという間に一人を喰い終わった。わけも分からずその様子を見続けた男は、吐き気と眩暈を同時に味わった。

に、逃げなければ。心の中で何度も叫んだが、体はまさに石のよう。体中から脂汗が滲み、息は上がっている。

青い体に赤い血が飛び散り、その色を際立たせていた。そんな竜はこちらに目を向けると、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。そして目が合ってしまう。まるで息も心臓も、その瞬間に止められてしまった。太陽が竜の体に飲み込まれ、その巨体は漆黒の色に染まって見えた。

その竜は軽く呻いた。そして近づいてくる、血糊でべっとりとなった真っ赤な口先、ねっとりとした涎が伸びる白い牙、奥底まで飢えた真紅の眼、そして――――


 竜は、前脚についた血をきれいに舐めとった。そして、羽を大きく広げ、再び空に舞い上がった。この竜がこうやって飛び上がるごとに感じる妙な嫌な感覚が罪悪感だとは、もはや理解できていない様子だった。



 色とりどりの鎧がこすれる音が、いつもの森の静寂を破った。木々の合間から際込む光が、彼ら森の侵入者の体を点々と照らし、遠くから見たらいろいろな色の粒となって鮮やかに見えただろう。

 彼らは誰一人として語る事もなく、ただ黙々と森を進んでいた。先頭を歩む赤い鎧を着た背の高い大柄な騎士が、歩みを止める。後続に続いていた数人の騎士もまた、歩みを止めた。

「どうしました、フレス隊長」

 すぐ後ろについていた騎士がそう尋ねるが、フレスと呼ばれた体つきのいい大柄な騎士は、ただ静かに、何かを待っているかのように一切の動きを止めた。

 眼を閉じ、意識を広く広げていく。木々織り成す水の流れから、自分の鎧が巻き起こす小さな風の流れまで、まるで全てと始めから一心同体だったかのように、まるで初めから自分というものはここにいて、ずっと今踏みしめている地面と一体であったかのように。

「ここが、私たちが目指していた場所だ」

 後続の騎士たちは突然、緊張感を増し、腰にある剣の柄に触れる。すぐ後ろにいた騎士とフレスだけは、普通のままであった。

「ここに、竜が来るのですね」

「ああ、間違いない。お前たちも感じるであろう。この鎧はみな竜の鱗でこしらえたもの。互いの存在が近づいてきているということを」

 実際は、それが分かるのはフレスだけのようだったが、その言葉に間違いはなかった。突如嵐のような陣風が地面の枯葉を巻き上げ、草木を大きく揺らめかせた。騎士たちは少しの予兆も見逃すまいと身を構えた。

 フレスのちょうど手前の空から、青い何かが舞い降りてきた。羽を一振りするごとに、立っているのが辛くなるほどの風が吹き荒れる。

 地面に脚を下ろし、風がやむまでの間、空から舞い降りる存在をただ見ている事しかできなかった。降りてきた場所だけ木々が折れ、ぽっかりと空を覗かせる天穴となる。空からの光に、影となっていた森の中で、その青が際立って美しく見えた。鱗一枚一枚が竜月色にきらきらと輝いている。

 竜はため息をついたように、飛んできた事に疲れたかのように、大きく息を吐いた。

 そして、フレスと目が合った。その威圧感に、後続の騎士たちがたじろいで、鎧の音が鳴る。だがそれだけで、竜もフレスも、ただそれだけで会話してるのではないかと思えるほどに、互いに何も動かなかった。竜と人間がただそこにいるだけの話で、世界は何も変わっていないと、互いに主張するかのように。

 やがて、竜が口をゆっくりと開いた。

「竜の鎧を纏いし者達よ。私に何の用があって来た?」

 竜がしゃべるということに、フレス以外の誰もが驚いた。フレスもまた、竜のようにゆっくりと口を開く。

「人語を操ることのできる、知識を持つ竜が、何ゆえこのような人殺しを犯すのだ。そのような竜は、決して人を殺めることはしないはずだ」

 全く竜に圧されていない。いや、まるで人と話しているかのように、平然と話しかけた。

「それは私の自由ではないのか。お前は私に食べるものを制限する権限があるというのか」

「そうではない。だが、もしこの先も人を喰らい続けるというのならば、我々はお前を殺さなければならないのだ。青き竜よ、私はそのようなことはしたくはない」

 竜の瞳が少しずつ赤に染まってゆくのを見た。

「なぜ私はお前達に殺されなければならない理由を持っているのだ。殺された人間に関わりのある者が自分に恨みを持って挑むならば、大いに受けよう。だが、何も関係のないお前らがなぜ私を殺しに来るのだ」

「それは、お前が将来さらに人を殺すからだ」

 フレスは淡々と告げた。

この竜は何か欠けている。フレスはそう思った。いや、欠けているのではない。この竜はただの獣と同じではなく、人を殺すことにさえも、しっかりとした理由を持っているのだ。

 竜は何かを考えるかのように、静かにしていた。だがそれほど長いという間もなく、再び竜はフレスに目を合わせず語りだした。そう、そこに立つ人に対してではなく、まるで自分自身に対して言い聞かせるかのように。

「そうだ。それはもちろん分かることだ。だが、今の自分には分からない」

 竜の口が開いた。口の周りに輪を描くように、一瞬だけ赤い不可思議な文が描かれた。次の瞬間、輪の中心から炎が噴き出し、何をする間もなく騎士たちに降り注いだ。竜の鎧が熱を打ち消そうとするが、それ以上の炎に、全員は一瞬で黒い塊と化してしまった。

 轟々と燃え上がる草木を見ながら、ただ竜は一言、つぶやいた。

 もう、今の俺には分からないのだ。


 光が、川の流れのように流れている。緩やかな湾曲を描きながら、目的の場所を探し迷走し、繋がってゆく。星の数よりも多い静かな瞬きと、揺れて往く小波の感情が銀河よりも美しいものとなって存在していた。

 その光の流れの中をゆっくりと漂いながら、その光の流れの一部となっていた。光は時に怒り、時に笑い、時に願っていた。そう、自分だけでなくたくさんの意識や思いが流れている。

 竜の光道。どれだけ離れていようとも、この道に身を預ければ、互いの声を聞くことのできる跳躍の筋。体に触れては流れてゆくたくさんの光の粒を、彼は静かに感じ続けていた。

 しかし、彼は他の光の粒とは、少しだけ浮き出た存在となっていた。縄張りに関することや求愛など、大抵の者達が読み取っているものを掬い取ろうとはせず、ただ今の自分は竜として満足である、と感じていた。そうすると言い返されるのだ。お前はなぜそんな事を考えるのだ、と。なぜ考えるのか、なぜ自分がほかの存在と違うのか、それがよいことなのか、彼にはわからなかった。

 ただ、そのことに関心を持つ、ある一つの存在がいた。

(俺は、今の自分に満足ではない)

 それは、いつも彼に言い返す存在だった。静かだが、その内側に強い意志を秘めた意識は、ある日彼に語りかけてきた。言葉ではない、意思を通じ合わせてだ。

(竜という存在は、常に不満しかないとは思わないか?)

 不満。たしかにそうだ。常に食べ物には飢えているし、少しでも気にいらないことがあればすぐに怒りだす。だがそれが何だというのだ。今も昔もあまり変わったことではない。昔?昔とはどこのことだ?

(私は、なぜいつもあんなことを考えているかは分からないが、そもそも自分が誰で、どうして今ここにいるのか、私にはわからないのだ)

 彼は自分が思っているままに、素直に意思を返した。だが、返ってこない山彦のように、それから何かを伝えてくることはなかった。

 だが、自分が思っていたよりも遅れて返ってきた山彦のように、ある日突然返答が来た。

(その答えこそが、俺が今不満である理由なのかもしれない)


 星の光が瞬き、その光のみで森を照らす夜のこと。青い竜がいるくらい洞窟に、一頭の来客が訪れた。

 青い竜が地面に伏していた首を上げるとを入り口にまるで自分の姿を映したかのような、緑の竜が立ちはだかっていた。紫の瞳が、青い竜を捉えている。

(お前というものを是非見たくなったからな。俺とお前はあまり遠くにいるわけではない)

 彼にとって、自分以外の竜を見るのは初めてであった。ただその様子を見るばかりで、しばらくの間暗い沈黙が続いた。

(お前の名は?)

「名前?」

緑の竜から強い驚きの感情が伝わってくる。

(お前、人語を話せるのか。まるで知竜のように)

「言葉は、忘れてはならないものだったから、私は忘れていない」

 緑の竜は静かに奥で羽を休めている竜に近づくと、まじまじとその様子を観察した。

(・・・やはりお前は不思議な奴だ。私の名前はラグース。緑の羽だ)

 そう伝えて、少しだけ羽を広げた。

「名前。名前など不要なものではないのか。お前は名前を何に使う?」

(人が俺のことをそう呼ぶのだ、青の羽よ。言霊を操りながら名を知らないとは、ますます不思議な奴だ。人語こそ不要のものに思えるが?)

 それでも、彼は言葉が不要なものだとは感じなかった。青の竜はゆっくりと体を起こし、ラグースと名乗る竜と向かい合った。

「伝える手段、記録する方法。私は忘れてはならないものだと思っている」

 そのとき、二羽の黄色い鳥が洞窟を訪れ、青い竜の周りを旋回してから、真っ白な角に止まり小さく鳴くと、羽の繕いを始めた。ラグースは獰猛な食欲に駆られたが、青の竜はまったくそんな様子は見せなかった。

「おかえり。今日はここで休むのかい?」

 ラグースはまさにその光景に圧倒されていた。そう、竜と小鳥が対等の立場にいる。互いに敵意のないという雰囲気。

(その鳥はお前を恐れないのか。人さえも恐れる存在が)

「この小鳥たちの仲間が、私の中で生きているからな」

(生きている?それはどういうことだ)

(さぁ、それは分からない)

 従来の意思を伝える方法で、返答が返ってきた。よく見るともう二羽の小鳥は静かにしている。言葉を話せなくなったのだ。だがラグースは、そのことに妙な感じを覚えた。そう、例えるならば、まるでもったいない獲物を捨てるような気分。

(――――お前が言葉を持っている理由が、なんとなく分かった気がする)

 ラグースは音を立てないように洞窟から出ると、ゆっくりと飛び立った。

(また会おう、青の羽よ。俺はお前が気に入った)

 その言葉に肯定の感情が返ってきた。


(俺は今まで、自分が誰であるかなど、考えたことがなかった)

 そう突然伝わってきて、青い竜は顔を上げた。

 暗い空からはずっと雨が振り落ちている。いつものように崖の上で休み、いつかの夢を見ているときのことだった。

(お前がもしその答えを見つけたならば、俺にも教えてもらいたい)

(ああ、もちろん。だが私には、これは永遠に考え続けるということこそが答えだという気がしてならない。私は今までずっと知らなかった。そして今も知らない)

(それもまた答えだとすると、この問いに意味はあるのか)

 青い竜は立ち上がった。いつもなら周囲をすぐに感じることができるが、今は角が濡れてできなかった。だから、その相手がすぐ後ろにいるということにも、今まで気づかなかった。

「実際にそこに存在するという証明は、なかなか難しいものだな」

(雨の日に外に出ることを恐れない竜など、竜ではない)

「それは私からも言えることだ」

 彼が後ろを振り向くと、緑の竜の手の上には、一匹の生きた兎が乗っていた。降る雨を体で防いでいるようで、兎はやはりおびえている様子はない。

(俺はもしかして、何者にも大きなものではなく、この兎と同じ存在ではないか?俺は何者にも自由ではなく、食い物がなくなれば死ぬしかない。そう考えれば、喰らう相手さえも、俺は同等なのかもしれない)

「そんなことは当たり前だ。なぜそんなことを聞く?」

 緑の竜は小さな兎に目を向けた。何も知らないかのように、後足で首を掻いている。なんとも普通の光景。ただそれが、自分達が普段空を飛ぶことと、違いはないという。緑の竜は関心の思いを伝えた。

(なるほど、青の羽よ。お前は真実を知っている)

 緑の竜は兎を壊れそうな小さな存在のように大事に持ち上げると、ゆっくりと空に飛び上がって行った。

(ラグースよ。私は真実など知らない)

真実など分からなかった。だから、なぜ自分たちは兎より強く、こいつらの痛みを知らず、こやつらを食わなくては生きていけないのかという自問に、答える事はできなかった。だが、真実は学べないがそれの虚像だけで暮らさなければならない。その狭さに、彼は憤りを感じた。


それから彼らは、毎日のように会うようになった。彼はラグースに言葉を教え始めた。習いたいというのだ。思うだけで心を通じ合わせる事ができるため、言葉を教えるのは簡単だったが、発音というものは非常に難しいものだと、互いに知ることとなった。教える側も教わる側も、まさに狩りよりも必死に行っていた。

「に――んげん、わ・・・なゼ・・・」

(――――人間はなぜ、言葉を話せるのだ)

 発音できないことに耐えかね、やはりと心で語りかけてくる。

「分からない。だが、人間に言葉を与えたのもまた真実」

 と、そう仮定するしかない。ラグースにも分かっているようだった。

 青の竜には暇があれば鳥達が集まり、またその本人も鳥を食べようともせず、鳥達と共に詠っている。そしてラグースもまた、その鳥を食べようとも不思議に思わなかった。そう、楽しそうだったからだ。

彼らは二人で狩りをすることによる効率性を考えるようになり、互いに縄張りに入り込んでも許し合う仲になった。



だが彼は次第に、他の竜と同じく、物事をあまり考えなくなった。他の竜たちがなぜ効率的に狩りをしないのだろうかという事も気にしなくなった。ラグースがなかなか上達してきた言葉でどんなに話しかけても、一言か二言のみの返事になっていった。

ラグースは竜にはないはずの孤独感を得た。

「青の羽よ、言葉だけは忘れないようにしたほうがいい。忘れてはいけないものなのだろう。お前は忍ばせる者であるのだろう」

「そうだ、ラグース。言葉は忘れない」

 そうだ、青の羽よ、お前は竜でなき竜であるべきだ。


お疲れ様でした。

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